#13:第5日 (3) 美の庇護者

 ビーチからホテルに戻ったら、ロビーでユーリヤがまた変なことを言う。

「1時間の約束だったわね。あと15分あるけど、あたしのテニスの練習を見ていてくれる?」

 ジムへ行ったときからはまだ45分しか経ってないが、朝食で声をかけられたときからだともう1時間過ぎてるって。とはいえ、フォームを直すアドヴァイスをくれたから、邪険にはしないけど。

「見てもいいけど、俺はテニスが下手だから、何もアドヴァイスできないぞ」

「下手でも何か気付くことがあるかもしれないじゃない。私がさっき気付いたみたいに」

 そう言うと思った。シナリオだから仕方ない。

 ホテルのテニス・コートへ連れて行かれる。後からなぜかモトローナが追いかけてきた。

ミスパンナ・エステル・イヴァンチェンコから、ご昼食のお誘いがございました」

 返事をすると言ったのに昨日中にしなかったから、せかしてきた? 時間があればってことだったが、行ったら他のことをする時間がなくなるんだけど。これも仕方ないのかなあ。12時頃に行くと答えておく。

 ユーリヤの練習パートナーが来た。ハンサムだな。いや、顔は練習に関係ないか。俺の方を見て訝しそうな顔をするなって。「また」って何だ? ああ、そうか、俺以外にも練習を見に来た奴がいるんだな。他の競争者コンテスタントか。

「そこに座って見てて」

 そこって、コートのネット際の……審判が座る台だろ。まあ、いいや。あれ、ユーリヤが左手にラケットを。左利きだったのか。

 打ち合いが始まった。普通のラリーだ。これが練習? わざと長く続けてるな。ウォーミング・アップか。パートナーが、ユーリヤを左右に振り始めた。いい太股してるなあ。15分経ったぞ。

「もう少し見てて。このスペイン・ドリルだけでいいから」

 スペイン・ドリルって何だ。ユーリヤが構える。パートナーがボールを出す。左の前へ。ユーリヤが打ち返す。

 次は右斜め後ろへ下がって打つ。前へ出て打つ。左斜め後ろへ下がって打つ。前へ出て打つ。次は右斜め後ろへ……ずっとこれを繰り返すのか。

 ああ、そうか、前に出たときはクロスに打ち返して、下がったときはストレートに打ち返すんだな。打ち返す位置は? だいたいいつも同じ辺りのようだ。ばらつきは直径1フィートほどか。

 5分ほど経ったらボール出しが止まった。弾切れか。おや、いつの間にかボール拾いの男がいる。

「どう、何か気付いたことある?」

 いや、いい太股してるということくらいしか。イリーナの柔らかそうな脚と違って、筋肉で硬く締まってそうだなあとか。

「打つ瞬間の足の位置は意識してるんだよな?」

「ええ、もちろん。打つ方向に対して足の位置は決まってるもの。何か変だった?」

「スタンスや爪先の方向や体重移動のタイミングも?」

「そうよ。でも、練習ではきっちりできるけど、ゲームではそれをちゃんと守って打てるとは限らないわ。どんなボールが来るのか知ってるわけじゃないし」

「そうだろうな。QBクォーターバックがボールを投げるときとは違うだろう」

「投げるときは自分のタイミングで投げるんでしょ?」

「練習ではね。ステップの位置はインチ単位だし、タイミングも0.1秒で調整する。それとは別に、追いかけられながら投げる練習もするけどね。あと、腰にゴム紐を巻いて、引っ張られながら投げるとか」

「テニスでは打つのを邪魔する相手はいないもの」

「それはもちろん解ってる。他に気にしたことは何もないよ」

 ただ、ボールを追うときの走り方についてアドヴァイスできそうな気もするが、それはたぶんもっと長時間見てからでないと言えない。

「解ったわ、ありがとう。本当はもう少し見て欲しかったけど、今日はこれでいいわ。ああ、そうだ、今夜もジムへトレーニングに来るわよね? 一緒にやりたいんだけど、いいかしら」

 君、ジムで俺のこと睨んでたじゃないか。どうしてそんなに態度が変わってるんだよ。

「夕食後の予定がちゃんと決まってるわけじゃないが、行ければ行く。それとも、時間を合わせた方がいいのか?」

「8時頃からずっといるから、来られるときに来てくれれば」

 熱心だな。俺も見習いたいよ、こんな仮想世界にいるんじゃなければ。別れの挨拶をして、コートを出た。

 さて、12時にエステルのところへ行くとして、2時間弱ある。昨日行けなかった博物館をいくつか回れないか。考古学博物館くらいは行けそうだが、どうかな。



【By バレエ・ダンサー】

 練習を始める前に、コレオグラピ・ヴィルサラーゼとプレジデンティ・チョチョシヴィリに呼ばれた。ラヤーと一緒に。この国の研究機関に、実験データを取得するための協力を要請されたらしい。

「それが、二つの研究所から同じような要請が来ていてね。評議会ザ・カンファレンス財団ザ・ファウンデーションだ。どちらも有名だから君たちも知っていると思うが」

「ええ、もちろん知っています」

 振付師コレオグラピの言葉に、ラヤーが答えた。振付師コレオグラピが、私の顔を見た。私も知っているので頷いた。

「バレエの練習をするときに、デヴァイスとストレージを身体に着けるんだが、そのデヴァイスもよく似ている。一方はリスト・バンドとアンクル・バンドのセットで、もう一方は腕時計型だ。どちらもそんなに重いものではないが、ストレージはそこそこ重さがある。ストレージはベルトで腰に装着する」

 デヴァイスはテーブルの上に置かれていた。振付師コレオグラピが持ってみなさいと言うので、ラヤーがそれらを手に取った。私も持ってみた。少し重たい気がする。

「こんなに重かったら、動きがおかしくなってしまいます。私は着けたくありません」

 ラヤーが言った。彼女はいつもはっきりと自己主張する。相手が振付師コレオグラピでも主宰プレジデンティでも。私はそれが羨ましいと思う。

「ラヤー、少しの時間でもいいので、着けてみなさい。私とアスランは昨日、どちらの団体からも詳しい説明を受けました。今まで何人ものスポーツ競技者に依頼してデータを取得して、解析した後は競技者にフィードバックして、それは技術の向上に役立っているということです。私たちも協力することで技術の向上が望めるのですよ」

「タマルの言うとおりだよ、ラヤー。両研究所とも、今後はプロのバレエ団に協力を要請する予定だと言っていた。私たちはモデル・ケースに選ばれたわけだが、それは私たちの知名度や技術が高いからという証明でもあるんだよ。ぜひ、協力すべきだ」

「お二人がそれほどおっしゃるのであれば着けてみますが、踊っているときにどうしようもないほどの違和感があるようなら、外すということにさせて下さい」

「もちろん、それでいいとも。しかし、最低でも30分は我慢して欲しい。それから、両方に均等にデータを渡した方がいいと思うので、午前と午後でデヴァイスを入れ替えることにしよう」

 ラヤーは承諾したが、渋々ながらという感じだった。私は、振付師コレオグラピ主宰プレジデンティがしなさいと言ったことには無条件で従う。そこに私の意志はない。私はそれでいいと思う。私は振付師コレオグラピが考えたとおりに踊る忠実なバレリーナでありたいと思っているから。

 更衣室で着替えるときに、研究所の技術者が入ってきた。デヴァイスの初期設定をするらしい。言われるままにいくつかポーズを取ったが、すぐに終わった。

 それですぐに練習を始めるのかと思ったら、リハーサル室に見慣れない人が入ってきた。いや、見慣れない人はこの前から何人も来ている。映画監督も来たし、オペラ歌手やモデルも来た。全く見たことがないのは映画監督で、オペラ歌手とモデルは私を含めみんなが名前を知っていた。

 今日来た人は、連盟ザ・リーグの上級会員だという。その団体ももちろん知っている。その人はドクトル・ルイス・マルティネスと名乗り、思想家であると自己紹介した。背が高くやせていて、ラテン系の顔立ちなのに物腰の柔らかい人だった。

「今日はバレエの美について講義をします。皆さんの中で、哲学者ヘーゲルの『美学講義』を知っている人はいますか?」

 知っていたのはラヤーだけだった。「もちろん、知らない人のためにも易しく説明しましょう」と思想家は言って、講義を始めた。

 芸術の発展には段階が三つあるそうだ。古代東方オリエントの象徴的芸術形式、古代ギリシャの古典的芸術形式、近代キリスト教世界のロマン的芸術形式。芸術は宗教と切り離せないものであり、美もまた同じだそうだ。

 では、美は神の庇護のもとにあるのだろうか。それを考え始めたら、私には思想家の講義が耳に入ってこなくなった。

 気が付いたら、講義は終わっていた。練習が始まった。思想家は振付師コレオグラピ主宰プレジデンティと一緒に私たちを見ていた。他に見慣れない人が今日もたくさんいる。先ほどの研究所の技術者も混じっているようだ。

 午前中の練習が終わると、私とラヤーがまた呼ばれた。今度は思想家と面談するようだ。思想家はとても愛想のいい表情をしていた。思想を生業とする人は、もっと気難しい人ばかりかと思っていた。

「やあ、カリスヴィリ・ケテヴァン・バティアシュヴィリとカリスヴィリ・ラヤー・ボルクヴァゼだね。さっきの講義はよく理解してくれたかな?」

「はい、博士エキミ。とても素晴らしいお話でした。私、大変感動しましたわ!」

 ラヤーが言った。彼女は私とは違って、思想家の話を全て聞いていたのだろう。私は途中から聞いていなかった。私は何も答えなかったが、思想家はラヤーの言葉で、私たち二人ともが先ほどの講義を理解できたと受け取ったようだ。

「講義で少しでも解りにくかったところがあれば、遠慮なく質問してくれていいよ。講義で言った内容以外のことでもいい。何かあるかな?」

「はい、博士エキミ。講義の中にあった、芸術家の独創について伺いたいことがあるのですが……」

 ラヤーが質問した。彼女の言う芸術家とは、誰を指すのだろうか。作曲者だろうか、振付師だろうか、それとも私たち踊り子ダンサーだろうか。

 思想家とラヤーはずっと会話を続けている。その内容は、私はとても難解に思えた。哲学の問答を聞いているかのような、抽象的な言葉の応酬に聞こえた。途中で振付師コレオグラピも質問をいくつか挟んだ。私は皆から取り残されているように感じた。

 問答が一段落すると、思想家は私に向かって訊いた。

「カリスヴィリ・バティアシュヴィリ、君も何か質問はあるかい?」

 私は何の質問も用意していなかったが、先ほどの講義の最中に私の頭を占領してしまった「美は神の庇護のもとにあるか」について訊いてみた。

「君は敬虔なキリスト教徒かな?」

「はい、ジョージア正教会の教徒です」

「すばらしい。もちろん、神が美を庇護しているし、バレエもその一つだよ」

「では、私がバレエの練習の間も、神は私が美をどのように演じようとしているか、ご覧になっておられるのですか?」

「もちろん、そのとおり。君の信じる神は、君の全ての瞬間をご覧になっておられるよ」

「解りました。ありがとうございました」

 私が礼を言うと、思想家は満足げに微笑んだ。そして思想家が他に質問はと訊くと、再びラヤーが言葉を発した。私は黙ってその問答を聞いていた。神がご覧になっている限り、私はそうしなければならないのだった。

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