#13:第5日 (4) 明日の約束

【By ピアニスト】

 練習の途中から、誰かが客席に入ってきて、座って見ていた。普段のリハーサルなら、そんなことは目に入らないのに、今日は比較的穏やかな気持ちで弾いているからだろうか、それとも昼食の準備が気になっているからだろうか。

 そもそも、リハーサルには人を入れないよう支配人にお願いしているのに、なぜ入ることができたのだろう。男女の二人組だった。

 暗くて顔はよく見えないが、女性はパンナ・ラーレ・ギュネイだろうか。彼女なら入って来ても構わない。私の手の動きを芸術的と評して、映像化したいとおっしゃっていた。

 男性の顔は全く判らない。体格が筋肉質で男性的なのは判る。しかし、パン・ナイトではない。あの方なら、気配で判ってしまう。たとえ顔を隠してらっしゃっても。あの方は、私にとって特別な人……

 曲が終わると、二人から拍手が聞こえてきた。まだ練習は終わりではない。もう1曲残っている。でも、マルーシャが舞台を降りて二人のところへ行った。挨拶をするのだろう。私も行った方がいいだろうか。もちろん、そうだろう。

おはようございますドブロホ・ランク、パンナ・ギュネイ! ようこそ私たちのリハーサルへいらっしゃいました。あなたならいつでも歓迎ですわ」

おはようドブロホ・ランク、マルーシャ。私のことはラーレと呼んで下さいとお願いしたのに。こちらはプロフェソル・ディーマ・アンドロニコス。ギリシャからいらしたの。あの有名な評議会ザ・カンファレンスのメンバーで、建築家」

「初めまして、パンナ・マリヤ・イヴァンチェンコ。ウクライナの歌姫、マルーシャとしてのご高名もかねがね伺っております。ディミトリオス・アンドロニコスです。以後お見知りおきを」

「初めまして、プロフェソル・アンドロニコス。彼女は妹のエステルです」

 プロフェソル・アンドロニコスと挨拶を交わした。ギリシャ系らしく彫りの深い、とてもハンサムな人だった。彼もアスリートなのだろうか。

「パンナ・エステル、以前、タラス・シェフチェンコ公園でお会いしましたね。憶えておいでですか?」

 プロフェソル・アンドロニコスが穏やかな笑顔を浮かべながら言った。いつのことだろう。今週、シェフチェンコ公園へは何度か行った。海を眺めに。いいえ、パン・ナイトを探しに。

 あの時の私は、パン・ナイト以外の男性が全く目に入らなかった。女性は見えていたように思うけれど、なぜだろう。

「申し訳ありません、憶えていませんわ」

「そうでしたか。私は話しかけたのですが、その時のあなたは確かに他のことに気を取られておいでだったように思います。今日もリハーサルの途中にお邪魔して大変申し訳ありません。建物を見に来たのですが、パンナ・ギュネイからリハーサルを聞くべきだと誘われたのです」

「いいえ、邪魔になど少しも。むしろ良い刺激になりますわ」

 本当はパン・ナイトにも来て欲しい。リハーサルにもお誘いすればよかった。

「そうおっしゃっていただけると大変嬉しい。週末のコンサートもぜひ拝聴したいと思います」

「ありがとうございます。お待ちしています」

「まだリハーサルの途中でしょうから、お話は後にしましょう。このまま聴いていてもよろしいですか?」

「ええ、どうぞ。11時頃で終わります」

「その後、昼食を一緒にいかがでしょう? パンナ・ギュネイがとても良いレストランを予約してくれていて、劇場の建築史の話をする予定なのですよ。この交響楽劇場は本当に興味深い様式ですね」

「申し訳ありませんが、昼食は別の方と約束をしているものですから……とても残念ですわ」

「そうでしたか。では、夕食はいかがです?」

 私はマルーシャの顔を見た。私もマルーシャも、初めて会う男性との食事は苦手だった。でも、なぜかパン・ナイトだけは特別だった。彼をお茶に誘ったことが私自身信じられないことだったし、マルーシャが見知らぬ男性の来訪をあれほど喜んでいたのも初めてのことだった……

「それが、残念なことに、夜も先約があるんです。週末までは色々と約束があって……明日の午後にお茶などいかがでしょうか? 3時頃から2時間ほどなら都合が付くと思いますわ」

 マルーシャがそう言ったので少し驚いた。土曜日にニュシャ・エイヴァゾワと会う約束があるだけで、他にはリハーサルとコンサート以外特に予定は入っていないはずだから。

 でも、有名な評議会ザ・カンファレンスの方だし、一緒にお茶を飲んで少しお話をするくらいなら、と思ったのだろう。マルーシャは私と違って世界を飛び回っているので、人と会うときの気遣いがとても上手になっている。

「そうですか、それはありがとうございます。場所は私が予約してお知らせしましょう」

「あら、いいえ、この劇場に入っているベルナルダッツィにしましょう。私から支配人にお願いしてすぐに予約してもらいますわ」

「そうですか。では、明日の3時を楽しみにしておきます。もちろん、この後のリハーサルも」

 話を切り上げて、私とマルーシャはリハーサルを続けた。パンナ・ギュネイとプロフェソル・アンドロニコスは席に座って聴いていた。

 リハーサルが終わってもう一度話をしたときに、プロフェソル・アンドロニコスが言った。

「パンナ・マリヤ、パンナ・エステル、一つお願いがあるのですが、あなた方の手を見せていただけますか? 私は芸術家にお会いすると、手を見たくなるのです」

「ええ、構いませんわ。でも、エステルと違って私は手を使いませんのに」

 マルーシャはプロフェソル・アンドロニコスに両の掌を見せた。彼が手の甲も見たいというので、ひっくり返して見せる。私も同じように両掌と甲を見せた。

「ありがとうございます。お二人とも実に美しい手をしてらっしゃいますね。特に、パンナ・エステルはピアニストの手の特徴がよく出ています。親指、小指、そして手の甲も。パンナ・ギュネイもそうですが、芸術に携わってらっしゃる方の手というのはとても興味深い」

「どういたしまして。それでは、ごきげんよう」

 マルーシャが別れの挨拶をしたので、私も挨拶をした。劇場から家までは遠いけれど、歩いて帰ることにしている。ブーニナ通りを歩きながら、マルーシャが話しかけてきた。

評議会ザ・カンファレンスは私が出演するオペラの後援もしてくださる組織だから、お断りするのは申し訳ないと思って、明日の約束をしたの。プロフェソル・アンドロニコスは建築家とおっしゃっていたかしら。お話をすればあなたにもきっと得るものがあるわ」

「ええ、私も彼ともう一度お会いするのはちっとも構わないのよ。手際よく約束を決めてくれてありがとう」

「それより、この後のパン・ナイトとの昼食の準備を急がないと。心を込めてお迎えしましょうね」

「ええ、とても楽しみだわ」

 パン・ナイトのことを考えると、どうしてこんなにも心が躍るのだろう。それに、マルーシャも同じように感じているのが不思議だった。やはり訊いてみよう。

「マルーシャ、あなたはもしかして、以前にパン・ナイトとお会いしたことがあるの? 昨日、私が彼を家にお連れしたとき、あなたが打ち解けた様子だったので、驚いていたんだけれど」

「あら、いいえ、もちろん初めてお会いしたわ。それなのに、なぜか何度もお会いしたような気がしていたの。いいえ、それは正確ではなかったわ。必ずお会いする運命にある人だという気がしたの。あの時も私が何度か“運命”と言ったのを憶えてるでしょう? そして私だけではなくて、あなたも同じ運命だと感じたの。ああ、いいえ、それも正確ではないわ。あなたが彼と出会うことに、私が立ち会う運命だったと感じたの。あなたと彼を祝福するため、と言い換えた方が、より正確だと思うわ」

「私と彼を祝福? どういうことなの?」

 祝福という言葉を聞いたときに、なぜか胸が熱くなった。マルーシャは彼が私にとって運命の存在と言いたいのだろうか? いいえ、それは違う。私は彼に、私の存在を知ってもらっただけでも十分に嬉しくて……

「いいえ、ティーラ、自分の心に素直になるべきだわ。あなたが彼をどれだけ愛しているか、私には自分のことのように解るの。あなたに勧めて今日彼を昼食にお呼びしたのも、あなたが彼と会う時間をできる限り増やしたかったからよ。明日は夕食にお呼びしましょう。コンサートの後にもお会いする時間を作った方がいいかしら?」

「待って、マルーシャ! 私、そんな急速には……」

 私は驚きのあまり立ち止まってしまった。そしてすぐに、声を荒げたことを反省した。マルーシャが心配そうな顔で私を見た。

「ごめんなさい、マルーシャ、私のためを思って言ってくれたことなのに……でも私、そんなに急いで彼との距離を縮めるなんて、できなくて……彼の気持ちを確かめるだけでも、もう少し時間を……」

「ああ! ごめんなさい、ティーラ」

 マルーシャはそう言って私を優しく抱きしめた。

「どうやら私が浮かれ過ぎていたようだわ。まるで映画のシナリオに書かれているかのような、あなたと彼の出会いの運命を目の当たりにして……ええ、もちろん、あなたの気持ちを大切にするわ。でも、彼をお慕いする気持ちに嘘はないでしょう?」

「ええ、それはもちろん……」

「では、まずその気持ちをいつ伝えるかを考えることにしましょうね。でも、明日の夕食にお呼びすることについて異存はないでしょう? 彼はきっと今週末で休暇を終えて合衆国へお帰りになってしまうわ。彼のご迷惑にならない限り、お会いする機会をなるべくたくさん作らないと」

「ええ、それはそうだわ。明日の夕食にお呼びして、コンサートも見に来ていただいて、それから……それからのことは、今夜考えることにしたいわ」

「もちろんそうしましょう」

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