#13:第4日 (6) マリヤとエステル

 救急車が走り去る。俺とティーラだけが道端に取り残された。ティーラが伏し目がちに俺を見ている。お願いだから、ここでもう一度倒れたりしないでくれよ。

「あの……危ないところを助けていただいて、ありがとうございました……」

 いや、その危ない目に遭わせたのは俺だという気もするんだけどね。

「急のことだったので俺も驚いたが、とにかく怪我がなくて良かった。もう立っていて大丈夫なのか?」

「はい、少し気が動転しただけですから……あの、失礼ですが、お名前は……」

 気が動転しただけで失神する? まあ、いいや。そういえばまだ名乗ってもいなかったな。

「アーティー・ナイトだ。合衆国からの旅行者」

「アーティー・ナイト……ミスターパン・アーティー・ナイト……」

 名乗っただけなのに、夢見るような表情だ。俺の名前を唱えながら、満足感にひたっているように見える。

「パン・ナイト、本当にありがとうございました。助けていただいたお礼に、せめて私の家でお茶などいかがでしょうか?」

 そう来たか! メキシコと似たような展開になってきたな。

 しかし、あの時はマルーシャからの誘いだった。今回はティーラ本人からで、しかもこの切実な目つき。とてもこのまま引き下がらせてくれそうにない。とはいえ、まさか家に君一人じゃないよな。家族がいるんだよな?

「それほどのことをしたわけじゃないが、誘ってもらえるのなら喜んで」

「私こそ嬉しいですわ。それでは、こちらへ……」

 ところで、ここはどこだ? 見覚えがあるが、すぐには思い出せない。地図を持っているから、後で通りの名前でも見れば判るだろう。

 ティーラの案内で共同住宅テネメントに入る。違うな、これで1軒の家なのか。大邸宅だ。金持ち? いや、別にそんなことを詮索しようとは思わないが。応接間に通された。豪華な内装だなあ。

「マルーシャ! マルーシャ!」

 ティーラが家の奥へ向かって呼びかけた。いやいやいや、ちょっと待て、マルーシャって、あのマルーシャ!?

 奥から明るい声で返事が。女が出てきた。まさにあのマルーシャ! しかし、表情が……

「ティーラ、帰ってたのね。あら、お客様?」

 マルーシャ……と呼ばれた女は、俺を見て少し驚いていたが、すぐに愛想のいい笑顔を見せた。いや、“あのマルーシャ”だって、俺以外の人がいればこういう表情を見せたこともあった。

 しかし、よくよく見ていると、“このマルーシャ”の表情は実に自然だ。それに比べると“あのマルーシャ”は、笑顔を見せても舞台女優のように“作ったようなところ”があった、と今さらのように感じる。

 ただ、別人に変装をしているときは、不自然なところは全くなかった。だから、“あのマルーシャ”が“このマルーシャ”を演じたら、こんな風に自然に見えるのかもしれないのだが、そういうことを考えていると頭が混乱してきて、今度は俺が倒れてしまいそうだ。

 それはともかく、“このマルーシャ”はティーラが耳打ちする話に時々驚いたり、俺の方を興味深そうに見たりしている。俺を怪しんでいる様子が欠片もないのが、逆に怪しく思えるくらいだ。

「まあ、それは大変だったこと! ええ、この方にお礼をするのは当然だと思うわ。私も挨拶しないと。あら、でも大変、こんな格好では! すぐに着替えてくるわ。ちょうどシルニキを焼いたところだから、あなたがお出しするといいでしょう。紅茶の用意ももちろんできているわよ。でも、カップをもう一つ追加しないと」

 こんな格好、と“このマルーシャ”は言うが、別に俺が自分の部屋にいるときのような古いTシャツにトレーニング・パンツという小汚い格好でもなく、白いゆったりとしたオープンネック・シャツに、グレーのゆったりとしたクロップド・パンツというスタイルだ。俺ならこんな感じでも外を出歩くだろう。

 しかし、“このマルーシャ”は俺にソファーを勧めた後、「着替えて参りますから」と微笑みながら言って、奥へ引っ込んだ。

 ティーラもいったん奥へ行きかけたが、俺を一人にしておくのはよくないと思ったのか、行きつ戻りつうろうろとしている。俺が部屋の中の飾り物――若い女が住んでいる家とは思えないほど色々なものが飾られている――に気を取られているふりをすると、奥へ行った。お茶の用意を優先したのだろう。

 ところで、“あのマルーシャ”とか“このマルーシャ”とかで識別しようとすると頭が混乱するし、うっかり口にしてしまうかもしれないので、“このマルーシャ”はマリヤと呼ぶことにしよう。まだ紹介されていないが、彼女の名前はマリヤ・イヴァンチェンコであると信ずる。ついでに、“このティーラ”の方もエステルと呼んだ方がいいかもしれない。

 二人ともまだ戻って来ないので、部屋の中を本格的に観察する。まず、部屋が広い。これはやはり高級住宅であると思う。

 壁は落ち着いたオフホワイトだが、上部から天井にかけて目立たないが豪華な装飾が施されている。天井から下がっている照明はシャンデリア風。壁際のサイド・ボードはどっしりとした木質で、その上に載っている絵皿や花瓶は間違いなく名品だろう。

 壁の絵はもしかしたらシャガールかもしれない。模写ではなく絶対本物。窓に架かるカーテンは細かい刺繍が綺麗だ。今座っているソファーはもちろん革製。柔らかいが腰が沈み込みすぎなくて座り心地がいい。絨毯は……これだけは評価がしにくい。何しろ知識がないから。

 しかし、これらはどう見ても若い女が二人で住む家のものじゃない。なのに、どうして彼女たちの両親やその他の家族が出て来ないんだ?

 しばらくするとティーラ改めエステルが盆を持って戻ってきた。テーブルに高級そうなティー・カップと受け皿を置き、そこに紅茶を注ぐ。

 横の皿に載っているパンケーキのようなものがシルニキだろう。鮮やかな赤のジャムがかけられている。

 すぐにマリヤも来た。ティーラと似たようなデザインの色違いのブラウスに、やはり色違いのフレア・スカートを穿いている。笑顔だが、“マルーシャ”のような輝く美しさはない。すぐにピンときたが、これはエステルを引き立たせるために、化粧を抑えめにしている!

「マリヤ・イヴァンチェンコです。お会いできて大変嬉しいですわ。先ほどは、妹のエステルが往来で失神したところを助けていただいたそうで、本当にありがとうございました。どうぞお茶をお召し上がりになってください」

 俺も自己紹介をする。身分は言わないでおく。しかし、二人が俺の前に座ると、合衆国のどこから来たのか、目的は観光か仕事かと代わる代わる質問した後で、「お仕事は何を?」と来た。そうなると財団のことを言わねばならなくなる。

「まあ、あの有名な財団の!?」

「フロリダ研究所というと、本部ヘッドクオーターですね!?」

 エステルは目を見張って驚き、マリヤは目を細めて驚く。

「何の研究をなさっているか、ぜひお聞かせくださいますか?」

 なぜかエステルが積極的。ティーラはかなり控えめだったのに。

 数理心理学という、集団の行動を計算機でシミュレーションしてその傾向を探る研究、といつもの簡略説明をしたが、それだけでは当然許してくれるはずもなく、数学的モデルからこれまでの研究テーマ、それに計算機の性能まで訊いてくる。まさか彼女たちも研究者というんじゃあるまい。

 そもそも、今日は平日なのに、どうして真っ昼間からふらふら出歩いてたり、家にこもって菓子を焼いてたりするんだよ。不労所得者か?

「こんな素晴らしい方とお知り合いになれたなんて、とても幸運でしたわ! それなのに、先ほどは大変失礼しました。あなたとお話ししただけで、気を失ってしまうなんて……本当に私、どうしてしまったのかしら」

「もしかして運命的な出会いを感じて胸がいっぱいになってしまったのでは? そうだわ、ティーラ、私たちのこともお話ししましょう。私たちは姉妹で、普段はここオデッサではなく、ずっと北東のポルタヴァという町に住んでいます。ここは実は私たちの伯母の家なんです。年に2度か3度ほど来るのですが、その伯母が先日から病気で入院してしまったので、私たちは見舞いと留守番のために滞在しているんです。次の日曜日には別の親類が来て役目を変わってくれるので、それまで滞在する予定なんです。私たちの仕事は……あら、私、少し話しすぎたわ。後はティーラからお話しなさいな」

「ええ、そうするわ。私はピアニスト、姉は声楽家です。私はまだアマチュアですが、姉はプロです。マルーシャという名前をお聞きになったことはありませんか?」

「ああ、聞いたことがある。ウクライナの歌姫……すると、君があのマルーシャ?」

 かなり白々しいが、そういう風に答えるしかないだろう。

「まあ、ご存じでいてくださったなんて! 大変光栄ですわ」

「姉は9年前のチャイコフスキー・コンクールコンクルスと7年前のエリザベート王妃コンクールコンクルスで入賞してプロになったんです。私は今年のチャイコフスキー・コンクールコンクルスでも入賞できなかったので、まだプロには……」

「いいえ、ほんの少しの実力の違いしかなかったのよ。審査員の皆さんも大変惜しいとおっしゃってくださったじゃないの。パン・ナイト、ティーラの実力は、キエフのあるレコード・レーベルレベル・ズヴコザペスも認めてくださっていて、今度ピアノ曲集をリリースしようと提案してくださっているのです。それにコンサートの依頼もいくつか入ってきていますし、いずれ有名になると思いますわ」

「まあ、マルーシャ! そんな気の早いこと……」

 マリヤはパン・ナイトと言ったが、同時通訳ではミスター・ナイトに聞こえた。アーティーと呼んでくれと言うべきかどうか。

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