#13:第4日 (5) 階段の上の美女

【By 主人公】

 昼までリハーサルを見てから、食事へ行く。埠頭の突端にあるディ・マーレというレストランをナターシャが予約していたらしい。劇場の前から徒歩20分で行けるのに、タクシーに乗った。

「リハーサルを見た感想は?」

「特にないな。俺にバレエは解らんよ」

 バレエというのはストーリーがあって、もちろん途中に何も解説はないけれど、見ていれば何となく進行が判る。しかしリハーサルというのはその中のある場面を断片的に踊るだけだから、それが何かを知らなければやってることが全く解らない。

「プリマ・ドンナの二人はどうだった?」

「どうっていうのは踊りのこと?」

「もちろん。他に何を見るの?」

 顔と身体だな。

「名前を忘れたが、金髪ブロンドの方が……」

「ラヤー・ボルクヴァゼ」

「その方が、態度も表情も自信たっぷりで、活き活きと踊っているように見えた。それから、ブルネットの方」

「ケテヴァン・バティアシュヴィリ」

「彼女の方が基本的にはうまいと思うんだが、動きに切れがなかった。自信を喪失しているのか、体調不良か」

「そうね、私の見立てとほぼ同じ。演出家とも同じね。でも、うまいのに動きに切れがないっていうのは、評価として変ね。動きに切れがあるから、うまく見えるんでしょう?」

「言い方が曖昧だったかな。ブルネットは……」

「ケテヴァン」

「ケテヴァンは動きが正確だ。首の傾け方から手指の伸ばし方まで、おそらく演出家が思い描いているとおりの正しい動きをしている。しかし、全体として精彩を欠く」

「それでもおかしいわ。動きが正しいのに精彩を欠くなんて」

「簡単に言うと、闘志ファイティング・スピリットがこもってない。ゲームじゃなくて練習の動きだ」

「だって、リハーサルだもの」

「今から動きを憶えるわけじゃないんだろ。完成度を高めるためにやっているはずだ。そういうときは本番さながらの闘志で望むのがいいと思う」

「そうね。そうやって説得するのが正しいんでしょうね」

「彼女に何かアドヴァイスが欲しいと言われてたのか?」

「いいえ、何も。本人だってどうせ解ってるのよ。後は気持ちの問題ね」

 解ってるんだったらなぜ俺に訊いたんだ。もしかして、素人の俺でも見抜けるかどうか試したってこと? それほどの不調なのか。

 タクシーは少し遠回りをした気がするが、10分ほどでレストランに着いた。俺のスタート地点のすぐ近くだが、あの時はこの建物の屋上にいたので気付かなかった。海のすぐ近くだけあって、お薦めは海鮮料理だった。

「昼食の後は解放してくれるんだよな?」

「ええ、もちろん。この後、約束があるの。あなたはどこへ行くつもり?」

「まだ見に行ってない博物館をいくつか回る」

 海軍博物館、考古学博物館、貨幣博物館、歴史博物館など。秘密地下道を巡るツアーも本当なら行きたいが、時間があるかどうか。ちょっと変わったところではコニャック博物館というのもある。もっとも、これはターゲットに何の関係もない気がする。

「チョコレート博物館は?」

「それは実は一度行った」

 10分もあれば見終わるぞ。

「君は誰とどこへ行く?」

「公平を期すために教えないでおくわ」

 競争者コンテスタントか、キー・パーソンと会うのかもな。その後は、さっきのバレエの話を聞く。週末の公演は『くるみ割り人形』が演目だそうだ。『アラビアの踊り』や『金平糖ドラジェの精の踊り』『花のワルツ』などの曲はナターシャも子供の頃に習って踊ったらしい。

 曲をハミングで教えてもらったが、有名なだけあってどこかで聞いたような曲だ。でも、きっとすぐ忘れる。

 昼食が終わると、ナターシャは屋上へ行って待ち合わせ。俺は町へ戻る。

 初日と同じように埠頭を歩き、陸橋で道路と線路を越え、大階段を上がる。初日と同じように美人がたくさん行き交っている。美少女の帽子は転がってこないけど。

 階段の横にも美人が座っている。一番上にも美人が立って黒海を眺めている。やはりウクライナは美人だらけ。しかし、中でもひときわ美人なのはあの……



【By ピアニスト】

 まさかあの方が……



【By 主人公】

 あの美人は……まさか、ティーラ!?

 肩に届くシャンパン・ブロンドの髪、貴族を思わせる気品のある顔立ち、良質の美だけを精製したかのような優美さ、そして豊満ながらもどこか可憐さを感じさせるプロポーション。

 間違いなくティーラだ。花柄の刺繍が施された白いブラウスに、風にふわりと翻る緑のフレア・スカート。

 目が合った。俺のことを憶えているのか。いや、そんなはずはない。メキシカン・クルーズの時の彼女は、単なるアヴァターだ。このステージとつながりがあるはずがない。俺のことを憶えているはずがないんだ。なのに、どうして俺から目を離さない?

 一歩ずつ、階段を登って彼女に近付く。彼女は動かない。ただ、目だけ俺に焦点を合わせて続けている。

 階段を登り切らず、二段ほど下から彼女を見上げる。間は1ヤードほど。静かに、深く息をついているのが解る。俺のことを、見知らぬ男だと思っているようには見えない。

「君は……どこかで会ったことが?」

「いいえ……存じません……」

 その清楚な声も、間違いなくティーラのものだった。しかし、どうして彼女が仮想世界の人物として登場するのか。彼女はオデッサに住んでいるとは言わなかったはず。

「名前は?」

「エステル……エステル・イヴァンチェンコ……」

 エステルはメキシコの時と同じ。ファミリー・ネームがイヴァンチェンコ。マルーシャの本名がハンナ・イヴァンチェンコだったから、ティーラの本名がエステル・イヴァンチェンコであるのは正しい。とすると、いったいどういうことなのか。

「ここで何を?」

「海を見に……」

「海が好きなのか?」

「…………」

 答えがない。身体が少し震えているようだ。俺を見る目が少し潤んでいる。何という愛くるしい瞳。その目が時々遠くを見る。焦点が合わなくなってきた? いや、これはまずい。

 一歩踏み出した瞬間、予想どおり彼女の身体がゆっくりと傾いていった。膝が崩れるが、地面に身体が着く前に何とか抱き止めた。メキシコの時と全く同じじゃないかよ! あの時は周りに誰もいなくて、今は人だらけだけど。

 しかし周りの連中は、寄っても来ない。女が少し悲鳴をあげたくらい。取り囲まれても困るけど、救急車くらい誰か呼んでくれないものかね。

 屋台ストールで土産物を売っていた中年婦人が寄ってきた。「救急車呼んでくれ」と頼んでみたが、首を捻るばかりで電話しようとしない。

 そのうち、階段の横にある建物から男がやって来た。あれ、何だっけ、ケーブル・カーの駅だろ。いや、簡易の観光案内所を併設してるのか。初日には気付かなかったぞ。

 男に「救急車呼んでくれ」と頼んだら、何ごとか呟きながら建物へ戻っていった。呼ぶのか呼ばないのか、はっきりしろよ。女一人くらい抱きかかえることはできるけど、どこへ連れて行ったらいいのか解らんのでは、抱える意味がない。近くの喫茶店にでも連れて行ってみるか?

 しばらくしたらさっきの男がやって来て、「10分くらいで救急車が来る」と言った。10分もかかるのか。レスポンス・タイムって8分くらいだろ。とりあえず、男に礼を言っておく。

「気付け薬は要るかね?」

 男が持っていた瓶を差し出してきた。酒瓶? それ、ウオッカだろ。さすがにやめておいた方が。というか、どうしてウオッカの瓶を持ってるんだ? 仕事中に飲んでるんじゃないだろうな。

「いや、救急車を待つ」

「そうかい」

 男は建物へ戻っていった。しかし、気絶した女を抱きかかえながら衆人環視の中でじっとしているというのはなかなか忍耐力が要る。

 10分経ったら、男が言ったとおり救急車が来た。白い車体にヴァーミリオンの帯を巻いている。降りてきた救急隊員が「どうしましたか」と訊く。

「理由は解らないが、急に倒れたんだ。俺は話しかけていただけなんだが」

「知り合いですか」

「いや、知り合いに似てたが、知り合いじゃない」

 なかなか苦しい言い訳。救急隊員は「ふうん!」と鼻を鳴らすような音を出して、ティーラを見ている。

 救急車から担架が出て来た。救急隊員に手伝ってもらって、ティーラの身体をそこへ乗せる。救急隊員がティーラの身体をあれこれ検査する。

 おっと、意識を回復したようだ。しかし、俺の顔を見てまた気絶したら気まずいなあ。メキシコの時にも同じことを考えたよな。

 救急隊員がティーラに話しかける。まだ頭がぼんやりしているようだ。

「あの方はまだいらっしゃいますか……?」

 あの方って……やっぱり俺のこと? 救急隊員が俺を見る。ティーラも俺を見る。ティーラが苦しそうな表情をする。そういうの、やめてくれないかな。俺が悪人だと思われるだろ。

 救急隊員がティーラに名前を訊く。どうやらちゃんと答えているようだ。救急隊員同士で何か話し合っている。どうやら搬送することになったようだ。

 二人が担架を持ち上げたが、もう一人が俺に「あんたも乗って」と言う。だから、知り合いじゃないんだけど。

「いいから、乗って。あんた、目撃者でしょう。詳しい状況を確認させてもらうから」

 まあ、そうなるか。救急車の後ろに乗るが、まだ走り出さない。階段を上がったら彼女がいて、声をかけたら急に倒れて、と説明したが、救急隊員はなぜそんなことで倒れたのか解らない、という顔をする。俺だって解らない。

 救急隊員がティーラに状況を確認する。ティーラが「そのとおりです」と答える。倒れた理由は「解りません」。つまり、彼女自身も解らないわけだ。しかし、だいぶ意識がしっかりしてきたようだ。

「ひとまず、搬送します」

 救急隊員が言って、救急車が走り出す。サイレンは鳴らさなかった。緊急じゃなくなったからだろう。

 しかし、5分も走らないうちに停まった。こんな近くに病院が、と思ったが、どうも様子が違う。共同住宅テネメントが建ってるだけだ。

 ティーラが担架から身を起こす。救急隊員が手伝って立たせ、救急車を降りる。俺も降りていいんだよな。え、何がダメなんだ?

「料金を……」

 俺が払うのかよ。でも、俺が呼んだんだから仕方ないか。カードは使えないから現金だよな。いくらでもあるけど。そうか、さては取りっぱぐれを防ぐために、俺を同乗させたな。

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