#13:第4日 (7) 研究の協力

「あら、そうだわ、パン・ナイト、今週末、交響楽劇場で、二人でミニ・コンサートを開く予定なので、ぜひお越しになってください。それに、ティーラはこのところ毎晩、ランジェロン・ホテルのロビーで7時からピアノを弾いてるんです。お近くにお泊まりならぜひお立ち寄りになってください」

 マリヤが嬉しそうに言う。待て待て待て。まさか、あのピアニストがエステルだとは思わなかったぞ。毎晩聞いてたのに。いや、昨夜は聞き逃したか。

「実はそのランジェロン・ホテルに泊まっている。ピアノの音は何度か耳にしていたが、まさかミス・エステルが弾いていたとは思わなかった。今夜は必ず聴きに行くよ」

「まあ! では、やはり運命的なものがあったのですね!」

 マリヤは運命と言って無邪気に喜んでいるが、言いすぎじゃないのかなあ。単なるシナリオだよ。エステルの方が若干冷静だが、ある種の期待を込めて俺の方を見ているのが判る。

 しかし、なんだかややこしいことになってきたぞ。こんなに次々に女と出会うシナリオなんて……初めてでもないか。モントリオールではもっとたくさん女がいたし、ノルウェーの山でも毎晩違う女と会ってた。

「そうだ、一つ訊きたいことがある。ニュシャという名前に心当たりは?」

「ニュシャというのはアントニーナの愛称で、ありふれていますから、それだけでは何とも言えませんわ。私の友人にも何人かいますし、ティーラの友人にも……」

「ええ、何人かいます。お知り合いですか? 何か特徴は?」

 長い金髪ブロンドと顔の形とつぶらな瞳を何とか言葉で説明する。胸の大きさは言うべきか迷ったが結局言わなかった。

「マルーシャ、もしかしたらニュシャ・エイヴァゾワのことじゃ……」

「ええ、私もそう思ったわ。最近オデッサでお会いになったのですか?」

「そう、考古学博物館の近くで道を訊かれてね。この近くに友人がいて、チョコレート博物館で会うことになっていると言ってたんだ」

「日曜日の2時頃ですか? それでしたらニュシャ・エイヴァゾワに間違いないと思います。でも、何てことでしょう、待ち合わせしていたのは私ですわ! やはり運命だったのですね」

 マリヤがまた感激している。いやあ、運命どころか本当に作為的だと思うよ。じゃあ、君たちはキー・パーソンズなんだな。そしてニュシャ・エイヴァゾワもキー・パーソンか。

 それにしても、アヴァターや競争者コンテスタントにそっくりのキー・パーソンってのは調子が狂いそうだなあ。

「そうすると、そのニュシャもピアニストか声楽家?」

「声楽家で、オペラ歌手です。次の日曜日からのオペラのために来たんです。今週は休養と言っていました。もしお会いになりたいのであれば紹介しますが……」

 いや、エステルを前にしてそれは言えないな。しかし、どこかでもう一度会う必要があるだろう。エステルのいないところでマリヤにこっそり教えてもらうか。それとも、ここにもう一度来ることにして、その時に呼んでもらうのが確実か?

「機会があれば、俺が名前をちゃんと憶えてたってことだけ伝えてくれればいいよ」

「そうですか。でも、もしかしたら他にも私たちに共通の友人がいるかもしれませんね。ああ、そうだわ、財団のオデッサ研究所にも私たちの友人……というか知り合いが何人かいるんです。私たち、研究に何度か協力したことがあるんです」

 ほう、ノルウェーのヴァイオリニスト姉妹のようなことを言い出したぞ。あそこでは音響関係の研究をしていたはずだが、ステージごとに研究所の場所が異なるらしいから、おそらく同じような役割の研究所だな。きっと設定の使い回しだ。

「俺はこの月曜日に研究所を見てきたから、名前を憶えているかもしれないな」

「確か第3研究部の……ああ、せっかくですから、その時の研究論文を持って来ます。少しお待ちになって。ティーラ、あの時のお話を始めておいてくれる?」

 マリヤは応接間を出て行った。エステルは俺のカップに紅茶を注ぎながら話し始める。

「ところで、今朝、シェフチェンコ公園にいらっしゃいませんでしたか?」

 研究の話じゃないのか。むむ、もしかしてエステルもあの時公園にいた? 気付かなかった。

「行ったよ。ランニングしていたんだ。朝の習慣でね」

「シモナ・スタネスクという少女とお会いになりましたか?」

「会ったというか、その子もランニングをしていて、靴紐が切れたから助けしてやった。ホテルに行って予備をもらったんだ」

「靴紐……ですか」

 むむ、まさかあの場面を目撃していた? それにしても、その安心した表情は何だ? もしかして、俺があのガキブラットを誘拐して何かしたとでも思った? いや、そんな嗜好、全くないから。

「その後、一緒にランニングしたいと言うから少し一緒に走って、それだけで帰って行ったが、それが何か?」

「いえ、別に何も……」

 そんなこと言いながらうつむいて幸せそうな表情しないでくれるかな。研究の話はどうなったんだよ。

「お待たせしました。論文を持って来ましたわ。ティーラ、どこまでお話が進んだの?」

「ああ、いいえ、これからするところだったの」

「あら、何か違うお話をしてたのね。いいえ、いいのよ、二人で説明しましょう」

 論文は二つあった。一つは、意図的に調律を狂わされたピアノをピアニストが弾くときにかかるストレスに関するもので、もう一つは、その音を聞きながら歌う声楽家のストレスに関するもの。もちろんそのピアニストはエステルで、声楽家はマリヤだ。

 数年前のもので、著者の一人にセルゲイ・アクソノフの名前がある。その他、ラボ・ツアーの時に聞いた名前もいくつかある。その時の裏話をいくつか聞く。

「音のおかしいピアノを弾くだけでもストレスなのに、それを何日間か続けて弾かなければならなくて、それが嫌で研究所へ行くことどころか、朝起きるのがつらいと感じたほどだったんです」

「ティーラは特に繊細なんですわ。私なんて、ピアノの音が変なのが面白かったので、ストレスが少なすぎて、研究員からがっかりされたくらいなんです。それに、後の方になるとティーラが嫌がってピアノを弾いてくれなくなったので、研究者がサンプリングで曲を作ったりしたんですわ」

 対比のためにピアニストも声楽家も複数採用されたが、エステルはピアニストの中でストレスが一番大きく、マリヤは声楽家の中で一番小さかったそうだ。

「カレッジの同期が似たようなストレス実験に参加したことがある。音楽じゃなくて、アメリカン・フットボールだが」

「まあ、それはどんな?」

 QBクォーターバックには“ボールの好き嫌い”がある奴がたまにいる。ボールを持ったときの感触で、“好きなボール”と“嫌いなボール”を選り分けてしまうのだ。好かれたボールはQBクォーターバックの練習とゲームに使われ、嫌われたボールは他のポジションの奴らが練習に使う。

 で、そういうQBクォーターバックに、嫌いなボールを投げさせたときのストレス度とコントロールを調べる。

 50回のパス試投アテンプトのうち、10球が嫌いなボール、20球が嫌いなボール……と割合を変えたりもする。それを好き嫌いのないQBクォーターバックと比較する、という実験だ。そして俺も、好き嫌いのないQBクォーターバックの一人として参加した。

「好き嫌いのある人は、手が特別に繊細なのですか?」

「そうとも限らない。好き嫌いがある場合でも、『何がどうとは説明できないけど、持ち心地がいい』と主張した奴が半分くらいいた。俺はボールを持ったら重心のバランスや空気圧が判るが、だから持ちにくいとか投げにくいとかいうことはない。ピアニストはそういう好き嫌いがある?」

「ピアノに対する好き嫌いですか? さあ、それは……音についてはスタインウェイとベーゼンドルファのどちらが好きかは人それぞれですし、弾き心地は調律で解決することが多いですし……マルーシャ、声楽では何か好き嫌いがある?」

「さあ、強いて言えば隣で歌う男性くらいしかありませんわ」

 それはどこの世界でもある。生理的に受け付けない奴と組まなきゃいけないのはたいへんだよな。

 ふと時計を見ると、もう5時だ。今日も何も調査ができなかった。ここをもっと早い時間に辞去することもできたろうに、俺は何と意志が弱いのか。そろそろおいとますると告げると、二人とも残念そうな顔をしている。

「夕方にホテルで人と会う約束をしているので」

「もっとお話ししたかったですのに。では明日、お時間があればぜひいらしてください。一緒にご昼食かご夕食をいかがでしょうか?」

 このステージのエステルは積極的だな。後で返事をする、と答えておく。

「週末のミニ・コンサートの練習をしなくていいのか」

「練習はいつも午前中にするんです。それに、今回弾くのは慣れた曲ですし」

 二人に見送ってもらって家を出る。今からホテルに戻れば5時半くらいか。イリーナが来てるんじゃないかなあ。



【By 体操競技者ジムナスト

 夕方の練習が終わった。プルガル・コーチに訊いてみたけど、プロフェソルはまだ連絡をくれてないみたい。返事が楽しみでじっとしてられないので、公園へランニングに行こう!

 路面電車の通る道を走って、公園の南側から入る。そこから斜めの広い道を走って、記念碑の塔のところへ来たら左へ曲がって。何周しようか、3周くらいにしておこうかな。

 靴紐を変えたら走りやすくなったなー。ミスター、誰だっけ、えーっと。そうだ、アーティー! 彼にもう一度お礼を言わなきゃ。

 夕方って、散歩してる人は多いけど、走ってる人は少ないよね。あっ、アーティーだ!

「ハイ、アーティー!」

「ヘイ、子供キッド

「子供じゃないよ、シモナだよ」

 声をかけるだけで通り過ぎようと思ったのに、どうしてか立ち止まっちゃった。

「ヘイ、シモナ。夕方のトレーニングか」

「そう。あなたは走らないの?」

「ちょっと時間がない。今から人と会うんだ。夜にジムでトレーニングする」

「そうだ、ジムって言えば、今日、ギリシャから来た偉い人に会って話をしたんだけど、ジムの設備じゃなくて、どこかの研究所で身体の動きとタイミングを詳しく調べる装置を使えるかもしれないって言ってた」

「ほう、そんな装置が。俺の知ってる研究所でも、似たようなのがあるんだがな。もしかして、同じ研究所か?」

「判んない。使えるかどうか訊いて、今日の夜に返事をくれるんだって」

「じゃあ、それがあれば君の問題は解決かな」

「そうだといいなあ。使ってみないと判んないよ」

「それもそうだ。じゃあ、明日の朝はビーチに来ないのか」

「ううん、それは行くよ。一緒に走ってくれるんでしょ?」

「たぶんな」

「たぶんじゃなくて、ちゃんと約束してよ!」

「君の頑張り次第だよ」

「もちろん、頑張るよ! これからどこ行くの?」

「ホテルへ帰る」

「あ、そうだったね。明日は6時でいいんだよね」

「6時10分くらいだな。俺は6時に起きて準備するから」

「じゃあ、その時間に行くね。チャオ!」

「バーイ」

 アーティーって優しいな。明日の朝が楽しみ!

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