#13:第3日 (5) 長い講義

「何か飲みに行きたいわ」

 コニーが笑顔で言う。既に5時前で、コーヒー・ブレイクには少し遅い時間だが、昼食も遅かったので仕方ないか。

「もう2時間もすれば夕食じゃないのか」

「あら、夕食を減らせばいいだけよ。それとも、時間を遅くするか」

「また誰かと会うのか」

「ええ、ラーレが紹介してくるから。誰と会うか、気になる?」

「別に」

「あなたは誰かと会わないの?」

「今のところ予定はないな」

「ラーレに紹介してもらう? 彼女、町の中で撮影して回ってて、興味深い人を何人も見つけたんですって」

 俺もその一人だよ。しかし、あの高慢な態度で撮影してて、よく喧嘩にならなかったものだ。それとも、俺以外にはあんなに高圧的じゃないのか? しかし、少女たちには逃げられてたなあ。

「君も見つかった一人か」

「ええ、そうよ。ただ、お互いに初めて会ったけど、お互いに以前から知ってたの」

 雑誌にでも載ってたんだな。まあ、主要登場人物同士がみんな知り合いだったとしても驚かない。だってここは仮想世界なんだから。

「試しに訊いてみるか」

 今日も調査をした気がしないので、こういうときは合う人間を増やしておく方がいいだろう。もちろんラーレはショッピング・モールを出てからも俺たちの後をずっとつけ回している。全く注文を付けてこないのが不思議で仕方ないくらいだ。コニーと抱き合えと言われたときの心の準備は一応あるのだが。

 立ち止まってラーレに“来い”の合図をすると、“行け”の合図を返されてしまった。どうしても俺たちが歩いているところを撮りたいらしい。

 コニーが軽く笑いながらラーレのところへ駆け寄る。ラーレはカメラを見るのをやめて、不機嫌そうな顔をしたが、コニーが話しかけると急に機嫌が良くなった。人格が切り替わったかのように見える。コニーが“来い”の合図をくれたのでそちらへ行く。

「会うのは女性でいいかしら?」

 ラーレが携帯電話モバイルフォンを出しながら訊いてきた。

「もちろんだ」

 会わせてくれるのならそれはきっとキー・パーソンに決まっているので、男なんか願い下げだ。そういえば今まで男のキー・パーソンというと、アントワープのあいつだけだよな。1日に二度も思い出すなんて、不吉だが。

 ラーレが電話を架けている。1人目は断られたらしい。2人目はどうやら色よい返事のようだ。

「オテル・ド・パリ・オデッサのレストランへ8時に行ってください。入口で名前を告げれば案内してくれます」

「相手の名前は?」

「ナターシャ・クトー。仕事は、自分で説明するって言ってましたわ」

「俺のことは何て言った?」

「名前と、財団に所属してることは言いましたけど、いけなかったかしら?」

 別に悪くはないが、妙な先入観を持たれないことを望む。

 グリェツカ通りには良さそうなカフェがなかったので、ブリストル・ホテルへ行った。今日、動き回った範囲はとても狭い気がする。コーヒーとキエフ・ケーキを注文した後で、コニーに訊いた。

「ところで、買った服はいつ着る予定?」

「週末にバレエの記念公演があるから、あなたがそれに誘ってくれれば着るわ」

 そういえば劇場の公演スケジュールを調べようと思って忘れている。ホテルに戻ったらモトローナに訊こう。彼女はコンシエルジュじゃないけど。

「週末の予定はまだ決めていないな。君に声をかけるのは明日か明後日になるかもしれない」

「構わないわ。私も週末まで何をするか決めてないもの」

「今日の夕食以外はね」

「ええ、そうね」



【By 体操競技者ジムナスト

 長い長い講義が、やっと終わった。連盟ザ・リーグっていう団体に所属する、偉い人の講義。午後の練習時間を削って、聞くことになった。今日になって、突然決まった。

 ヘーゲルっていう哲学者の『美学講義』っていうお話の要約だった。1時間、ずっと聞いてた。寝たら後でコーチに怒られるので、頑張って起きてた。

 終わった後で、ラリサが「すごいお話だったね!」と言った。

「そうかなあ、あたしにはよく解んなかった」

 ラリサはとても驚いた顔をしていた。

「どうして? 美しいっていうのがどういうことかとか、すごく解りやすくお話ししてくれたと思うけどなあ」

「じゃあ、美しいっていうのはどういうことなの?」

「えーっとね、確か、優れた精神の生み出すもの、だったと思うよ」

 ラリサは少し考えた後で言った。あたしも、そこのところは憶えてた。一番最初に言ってたから。

「じゃあ、体操の美しさってどういうものなの?」

「それは説明してなかったと思うよ」

「知らないと、今のお話が体操に活かされないんじゃないかなあ」

「私たちがこれから考えていけばいいのよ。例えば、動きだけじゃなくて、精神的なものを高めていくっていうか、それを普段の練習から意識し続けるっていうか」

「でも、そういうことって、普段からコーチが言ってるよね。もっと解りやすい言葉で」

 コーチから、次に何をするかの指示があったので、ラリサとの話はそれっきりになった。

 練習場に戻りながら、さっきのお話と体操の関係を考えてみた。お話のほとんどは、人間が美というものをどう考えているか、どうやって美という概念が作り出されたか、だったと思う。

 それは、何となく解った。けど、やっぱり体操との関係は解んない。優れた精神を持たないと、体操をしてても美しく見えないの? 何か、違うと思う。

 練習を再開した途端に、プルガル・コーチから呼ばれた。さっきの偉い人が呼んでるらしい。どうしてあたしなんだろう。一人ずつお話をする? みんなとお話ししてたら、すごく時間がかかると思うけど。でも、あたしとのお話は短いだろうから、まあいいか。

 控え室へ行ったら、偉い人がいた。確か、ドクトル・マルティネスだったかな。その人と二人っきりかと思ったら、プルガル・コーチが横にいてくれた。彼女はずっとここにいなきゃいけないのかな。それとも後で誰か別のコーチと変わるのかも。

「やあ、ドムニショアラ・シモナ・スタネスクだね」

「はい、ドクトル・マルティネス」

 ドクトルはアルゼンチンの人だったと思うけど、とても綺麗なルーマニア語を話す。偉い思想家だから、いろんな国の言葉を話せるのかも。そんなにたくさんの言葉を使ってたら、頭が混乱しないのかな。

「君はとても優秀な競技者ジムナストだと聞いたので、話をしてみたいんだ。しばらく時間をくれるかい」

「はい、ドクトル・マルティネス」

 優秀な競技者ジムナストだなんて、誰が言ったんだろう。プルガル・コーチが言うはずはないし、彼があたしを褒めるつもりでそう言ってるだけかも。

「出身は?」

「コンスタンツァです」

「何歳から体操を始めた?」

「6歳からです」

 その後も、色々と経歴を訊かれた。コーチがあたしのを含めてみんなのプロファイル持ってるはずなのに、どうしてわざわざ訊くんだろう。初めに簡単な会話をして気を楽にさせようとしてるのかな。別に、緊張はしてないんだけど。

「君は演技するときに“美”を表すように心がけてる?」

「いいえ、コーチと相談して決めた動きを、正確に再現することを心がけています」

「それはそのとおりだと思うが、その動きの中に“美”があることを意識しているか、という質問と考えてくれていいよ」

 少し考えてみたけど、それって当たり前のことじゃないのかな。

「美しく見える動きだというのは解ってますけど、それを再現するときに、美しく見えるかどうかは意識していません」

「そうか。じゃあ、これからはそれを意識するようにしたらどうかな」

「でも、意識しても動きは変わらないと思いますけど……」

 困ったので、プルガル・コーチの方を見た。彼女はあたしが見ているのに気付いたみたいけど、ドクトルの方に目を向けた。ドクトルの答えを聞きましょう、という意味だと思う。

「意識しているかどうかは、見る人から解るものだよ。同じ動きをしていても、意識していればより美しく見えるんだ」

「そんなことってあるんですか?」

 とても信じられない。

「あるんだよ。さっき、僕が講義の中で、内面的な自由や意識を持たないものには美が成り立たない、といったのを憶えているかな?」

「……忘れました」

 正直に言った。話を合わせるために嘘をついちゃいけないって、父さんが言ってた。

「そうか。僕が他にもたくさん言ったから忘れたんだね。正直でいいことだよ。しかし、これで憶えることができただろう?」

「憶えておきます。でも、信じられません」

「ほう、それはどういう理由か説明できるかい?」

「たとえば、あたしが美しさを意識した演技をしたとします。そして、それをロボットが真似たとします。ロボットは私の動きを完璧に再現できるとします。そうすると、どっちも同じに見えると思いますけど、違うんですか?」

「それは同じものだね。人間の動きをロボットが寸分の狂いもなく真似るというのは、人間の動きを撮ったヴィデオを見ているのと同じことだ。だからそこには人間の意識が込められた美しさがあるんだよ」

「でも、ロボットは意識せずに動いてます」

「全く同じ動きなら、それはロボット独自の動きではなくて、人間の動きだろう? なら、その元になる人間の動きがどうだったかというだけの問題になるんだよ」

「じゃあ、質問を変えます。あたしが二つの演技をします。一つは美しさを意識した演技で、もう一つは意識しない演技です。でも、この二つが同じだったらどうでしょうか。ヴィデオで見ても、位置は1ミリメートルもずれてないし、タイミングは0.1秒もずれてないとしたら?」

「その二つが同じ演技になることはあり得ないよ。人間の動作は常に意識に左右されるからね。もし、無意識の演技が美しいと評価されたのなら、“美”を意識して練習を続けた結果として、それが心の自然な状態になったため、と考えることができる。だからその状態では、もはや“美”を意識せずにはいられないし、意識しないこと自体ができなくなっているんだ。そして、そうなってこそ真の美を表現できたと言えるんだよ」

 とても信じられない。

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