#13:第3日 (6) 美の意識

【By 体操競技者ジムナスト

「じゃあ、質問を変えます。体操における美は、どんな動作と考えられますか? あたしは正確な動作だと思ってます」

「正確な動作であるのは、そのとおり。そしてその動作を実現するのに、常に美を意識することが必要なんだ。それなら解るかな?」

 やっぱり解らない。もちろん、演技の時の動作は、“どうしたら美しく見えるか?”っていうところから考えられたものだけど、演技中は美しさよりも、正確に動くことに意識を集中してる。

 正確に動けば、それが美しく見えるはずだから。もしそう見えなかったら、身体の動かし方が間違ってるっていうだけ。あたしがちゃんと身体を動かしてないのか、考えられた動作が間違ってるのか、どっちか。

 前の方はあたしの責任だけど、後のはあたしの責任じゃない。だからあたしは、美しさを意識することができない。

 もちろん、こうしたら美しく見えるはずって信じて演技することはできるから、意識する必要がないとは思わないけど。

「……解りません」

「そうか。でも、今はまだ解らないだけなのかもしれないから、憶えておくことはできるよね。じゃあ、他の質問をしていいかな」

「はい、ドクトル・マルティネス」

「体操を続けていく上で、不安に感じていることはある?」

「怪我が心配だから、怪我をしないように注意してます」

 ドクトルの質問の意図とは違ってるかもしれないけど、不安なのはそれしかない。続けられなくなったら困るから。

「じゃあ、そのために心がけていることとは?」

「基礎体力を付けたいです。そのための設備が欲しくて」

「ほう、何か足りていないことがあるんですか?」

 ドクトルはプルガル・コーチに訊いた。設備のことだから、コーチが知ってると思ったんだと思う。

「足りないことはないと思います。他のクラブと比べても、それほど遜色があると思っていませんし」

「なるほど。ドムニショアラ、全ての人が、全ての満足を得られるとは限らないことは解ってるね。人間は常によりよい環境を求めるし、誰しもそうなんだけれど、満足とはいえない環境でも成果を挙げる人はたくさんいるよ。まさか、上達しないのは環境のせいだと思ってはいないだろうね?」

「そんなことありません。でも、もっといい環境が欲しいって思ってるだけです」

 このドクトルも、そんなこと思っちゃいけないって言うのかな。

「そうすると、今の環境でも練習を続けていく意思はあるということだね。いいことだ。僕としては、君が今の環境で最大限の努力をすることを願うよ。その上で、どうしても環境を変えたい、変えざるを得ないというときにはコーチや周りの人と相談することだね」

 そんなの、ずっと前から解ってる。でも、早く決めなきゃいけないのも解ってるのに。体操競技は、そんなに長く続けてられないから。思想家の人は、ずっとずっと考えてられるから、時間の概念があたしたちと違うのかな。

「僕からの質問は終わりだ。貴重な時間をありがとう、ドムニショアラ」

 お話をした時間は15分くらいだったけど、ドクトルは何分だと思ったんだろう?



【By 主人公】

 オテル・ド・パリ・オデッサは、大階段の上のリシュリュー公爵像から、カテリニンスカ通りを南東への100ヤードほど行ったところにある。

 まだ日は暮れきっていないが、独特の装いをした女たちが周辺にたむろしている。誰も彼も美人だが、誘ったらいったいいくら取られるのだろうと心配になる。もちろん、誘わない。これから女と夕食だから。もっとも、それがどんな女かも知らないのだが。

 ホテルへ入り、レストランで名前を告げる。「ようこそいらっしゃいました」と丁寧に迎えられて、テーブルまで案内される。女はまだ来ていなかった。待たさなかったようで何よりだ。

 それでどれくらい待たされるのかと思っていたら、意外にも5分ほどで済んだ。それはいいが、フォーマルではなくサイバー・パンクじゃないのかと思うほど装飾の多い黒のドレスに、右側を編み込んで他を左に流した銀色のショート・ヘアという、ど派手なファッションの女だったのには少なからず驚いた。一応、表情には出さなかったと思う。

 女は黒のサングラスを少し外して下にずらしなら「ハーイ!」と声をかけてきた。外に立ってる商売女と何ら変わらない気がする。

「ドクター・アーティー・ナイト?」

 声はとても綺麗だ。嗄れ声ハスキーはそれはそれで魅力があると思うが、どちらかというと彼女のようなクリアな声の方が好みだ。

「ドクターは余計だ。君がミス・ナターシャ・クトー?」

「そうよ。本名はもう少し後で教えてあげる」

 一応、エスコートして座らせる。ナターシャはサングラスを外して、ドレスの胸の谷間にぶら下げた。それほど深くはなく、サングラスをぶら下げるには困らない程度だ。

 素顔は意外なほどの美形。少し気になるのはアイシャドウと口紅が濃いめなのと――そのせいで逆に元々の造形の良さが損なわれている気がするくらいで――、笑顔が作ったように整っているところだ。

「財団のドクターっていうからどんなおじさんオールド・ガイと会えるのかと思ったら、意外にも若いんで驚いたわ」

 しかも英語しゃべってるし。ロシア系で少し癖はあるが、かなりこなれた話し方だ。

青二才グリーンホーンでは物足りない?」

「あら、そうじゃないわ、正反対よ。夜遅くまで楽しませてくれそうだから嬉しいっていう意味」

「俺について何を聞いてるんだ?」

「名前と財団に所属してる学者ってだけ。あなたも、私の名前しか知らないのに来たんでしょう?」

「ラーレ・ギュネイに紹介されたから信用できると思ってね」

「私も同じ。私の感想はさっき言ったわ。あなたの感想は?」

 早くも前菜が運ばれてきた。料理はあらかじめ注文してあったらしい。どこでも準備が良くて助かる。

「美人であることは期待していたとおりだった」

「ありがとう。他には?」

「陽気な女で良かった。口数が少ないのは苦手でね」

「あら、あなたの話し方次第ではどうなるか判らないわよ」

「気を付けるよ。ところで、君の仕事は?」

「当ててみたら? 心理学者なんでしょう?」

正統オーソドックスの心理学じゃない、数理心理学。集団の行動を、数学モデルを使ってシミュレーションするんだ」

「個人の心理は判らないの?」

「でも、君の仕事は当ててみようか。歌手だな」

「当たった! どうして判ったの?」

「声がいいから。それ以外に理由はない」

「あら、当てずっぽうロング・ショットだったのね」

「それが一番得意だ」

「研究者らしくないのね。あなたの他にもう一人、財団の研究員に会ったことあるけど、それはそれは研究者らしい男性だったわ」

「それはおじさんオールド・ガイだったのか」

「ええ、心理学者で、精神分析の第一人者」

「それで、どっちが勝った?」

あら、まあオー・ディア!」

 声では驚いているが、顔は微笑んでいる。話しながら思い付いたが、彼女はおそらく競争者コンテスタントだ。彼女も、紹介されたのが“財団”の研究員だと聞いて競争者コンテスタントだと察知したんで、どんな男か見てみようとでも思ったんだろう。

「残念ながら、私も彼も負けたわ。もう一人の女性に持って行かれたの。その時のいきさつを話す必要はないと思うけど」

「俺だって過去のことはあまり言いたくないよ」

「ええ、今日はそんなこと話すつもりで来たわけじゃないのよ」

「しかし、どうして財団のことなんて話したんだ。もしかしてヴァケイションか?」

「ええ、そのとおり。でも、ヴァケイションのステージに競争者コンテスタントがいるなんて想定外だったわ」

「俺も以前にそう思ったよ」

「そうすると、もしかして昨日会った男もそうだったのかしら」

「話さなくてもいいよ。公平を期さないとな」

「ええ、そのつもり。でも、一つだけ訊いていいかしら。競争者コンテスタンツは何人いるの?」

「3人だ。ぜひ、あと一人も捜して会って、その上で勝者予想でもして楽しんでくれ」

「それは面白そうね。賭けの胴元ブック・メイカーも探さなきゃ」

 もしかしたら、ラーレは全員に会っているかもしれない、という気がする。何しろ、あれだけ精力的に被写体を探し回ってるし、ヴァケイション中の競争者コンテスタントまで接触してるくらいだ。競争者コンテスタンツとキー・パーソンズを結びつける“ハブ”になってるんじゃないか。

 ただ、彼女からキー・パーソンを紹介してもらうには、しかるべきシナリオを消化しなければならないだろうとは思う。

「そろそろ、君の本名を教えてくれてもいいんじゃないか」

「本名はナタリア・サバレンカ。ナターシャはナタリアの愛称で、クトーは“フー”っていう意味。ベラルーシのミンスク生まれで、歌手としてデビューしてからは主にヨーロッパの各地で活動してるわ。あなたとはきっと時代が違うでしょうから、知らないと思うけど」

「残念ながら知らなかったよ。その服は、ステージ衣装?」

「そのつもりで仕立ててもらったの。もちろん、この世界ではステージで歌うことなんてないから、ただの気晴らしパスタイム

「衣装は常に用意しておく方がいいぞ。歌ってくれと突然頼まれることもある」

「あるかもしれないけど、その時は会場で衣装を借りる方がいいと思うわ。舞台のイメージと合わせないといけないもの」

「それもそうか」

 しかし、マルーシャが船の上で歌ったときは、自分の服だったようだがな。何しろあの胸のサイズに合う貸衣装なんて、そうそうないだろうから。

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