#13:第2日 (4) 連盟の男

【By ファッション・モデル】

 朝の散歩を終えて、ホテルに戻ってくると、若い男が声をかけてきた。

やあオーラ、美しいお嬢さんパンナ!」

 背が高いがやせていて、ラテン系の顔だちをしている。私の目ばかり見ている。

こんにちはドーブロホ・ドニャー。ご機嫌いかが?」

「とてもいいね! ドクトル・ルイス・マルティネスだ。アルゼンチンから来た。君はもちろん世界的モデルのパンナ・コルネリア・イサクだね? 良かったら朝食を一緒にどう?」

 承諾すると、男は馴れ馴れしく私の腰に手を回し、レストランへ連れて行った。私はブリヌイと紅茶を注文し、男はクロワッサンにハムとチーズを挟んだものとカフェ・ラッテを頼んだ。

「君は本当に美しいね! 君を見ていると、美について考える意欲が刺激されるよ。君は美というものについて考えたことがあるかい? 君自身でもいい、他の人のことでもいい、人でなくても、風景でも絵でも工芸でも、とにかく美というものについてだよ」

「よく判らないわ。常に理想の自分になるように心がけているけど、そういう具体的なことと、あなたが言う美は関係あるのかしら?」

「もちろんだよ! 美というのは概念としても存在し、その具象として君が存在するのさ。君自身が美そのものであり、君自身が理想とする姿も美の一つであり、その美の高みを目指す君の心もまた美だ。美とは心の愉悦であり、人間の根源的な感性の一つだ。つまり君が理想の自分を目指すことは、美について考察していることと同じだ」

「難しいことをおっしゃるのね。美術評論家かしら?」

「思想家だ。あらゆることについて考えることが仕事だ。連盟ザ・リーグに所属している」

 その団体については訊いたことがある。とても有名だけれど、具体的に何をしているのか知らない。それに、思想家とは何をするのだろう。そもそも、仕事なのかしら?

「オデッサへは何のお仕事で?」

「色々なことを考えに。今日は君を見たので美について考えようと思う。ところで君は美術に興味はあるかい?」

「ええ、絵画や彫刻を見るのはとても好きよ」

「美術館は見に行った?」

「いいえ、まだ。今日あたり行こうと思っていたの」

「それはちょうどいい! 僕もこれから行こうと思っている。ぜひ、一緒に行こうよ。美術館で君と美を語らうのはとても楽しそうだ」

 彼はとても楽しそうに見える。私と話をする男性は、おおむね2通りの反応を示す。楽しそうにする人と、恥ずかしそうにする人だ。私はどちらも好ましいと思う。

「ええ、ご一緒したいわ。でも、開館までずいぶん時間があるわね。確か10時頃だったと思うけど」

「10時半だ。でも、僕と一緒に行けばもっと早く入れる」

「あら、そうなの、どうして?」

「僕が依頼するからさ。連盟ザ・リーグは世界に奉仕するし、その見返りとして多くの施設が僕らに奉仕してくれるんだ。今から頼めば、9時には開けてくれるだろう。他に人がいないから、ゆっくり見られるよ」

「それは嬉しいわ。まるで貸し切りのようね」

 そういう贅沢はとても好き。

「それまでの間、美についてもっと語り合おうよ」

「ええ、でも、部屋に戻ってシャワーを浴びないと。浜を歩いたから、髪に砂が付いているわ」

「それは大変だ。君は美しさを保たなければいけないからね。部屋まで送って行こうか?」

「いいえ、結構よ」

「では、シャワーが終わる頃に訪ねてもいいかい?」

「シャワーの後で出掛ける用意を色々とするから、ロビーで待ち合わせることにしたいわ」

「もちろん、それでも構わないよ。では、8時45分に降りてきてくれると嬉しい」

「ありがとう」

 部屋へ戻ってから、彼と美術館へ行くかどうかをもう一度考える。私にはまだ美術品に対する審美眼や教養が足りないと思っている。だから、美術品は見るときに解説があると嬉しい。彼は解説をしてくれるかしら。

 シャワーを浴びてから、着ていく服のことを考える。あまり華美な物を着ていかない方がいいだろう。私が見に行くのであって、私が見られるのではない。

 ただ、それでも私が私らしく見られる服を着たいし、着なければならない。どんな制約があっても、着る物を選ぶのは楽しい。

 しかし、気が付いたら9時を回っていた。約束は9時前だったように思う。

 ようやく決めて下へ降りて行くと、彼はロビーのソファーに座っていた。うつむいて考え事をしているか、あるいは寝ているように見える。私が何も言わずに待っていると、ホテルのスタッフが彼に近付いた。彼が顔を上げて、笑みを見せた。

「失礼、考えていたものだから。ああ! 着替えてきたんだね。その服も綺麗だ。とても美しいよ! まだ早いかもしれないけど、そろそろ行こうか。おや、いつの間にか9時を過ぎているんだね。気付かなかった。まあ、構わないよ。タクシーも待ってくれていたようだし」

 タクシーに乗る前に、彼はもう一度私の着ている服を褒めた。なぜこれを選んだのかは訊かなかった。タクシーの中で、彼は絵画の美とはどういうものだと思うかを訊いて来た。私は正直に解らないと答えた。

「モチーフとかシンボルとかアレゴリーとかの用語もよく憶えていないし、私が美しいと思って見ているところが、本当に正しいのか解らないの」

「制作者の意図と、君が見て感じたことが一致しなかったとしても、全く気にする必要はないよ。もちろん、正しい解釈ができるなら、それに越したことはないさ。しかし、そもそも絵に描かれた全ての意図が伝わるか、全ての意図が理解できるかというと、そう簡単じゃない。制作者が全ての意図を表現しつくせていないこともあるだろう。まあ、一流の絵画ではできているに違いないし、美術館に飾られる絵は特にそうだろうね。でも、見る側は違う。一部の審美眼のある人たち、つまり画家や評論家や鑑定家たち、それらを除けば、ほとんどの人には伝わらないと考えるべきなんだよ」

「あなたにはきっと伝わるのね」

「僕に伝わったとして、それを君に言葉で説明できるかというと、それも問題だ。君と僕は感性に違いがあるからね。違いというのは優劣ではない。言葉どおり“差異”のことだ。同じ色を見てすら、僕と君では得る感覚、感情が異なるんだよ。しかし、僕は僕の言葉をもって僕の感性を君に伝えるよう努力するよ」

「期待してるわ」

「僕は君の姿を美しいと言ったけれども、それすらも君自身が考える美しさと異なっているかもしれないんだ。共通の感性を持つことで、君の美しさの全てを共有したいと思ってるよ」

「それも期待してるわ」

 それから彼は、モチーフやシンボルやアレゴリーといった美術用語の説明を始めた。彼の言葉は平易だが、少し長い気がした。解りそうで解らないこともあった。

 美術館に着くと、警備員が門の錠を開けてくれた。警備員は少し機嫌が悪かった。いつもと違うことに納得できないからかもしれない。

 館の入口の扉は開いていて、男が一人立っていて、館長と名乗った。館長は思想家と握手して、連盟ザ・リーグの上級会員に来館いただいてとても名誉なことだという意味の挨拶をした。

 館長は私のことを知らなかったようだけど、思想家が私を紹介すると“あの有名な”パンナ・コルネリア・イサクに来訪いただいてとても光栄だと言った。私の知名度はウクライナではまだ低いらしい。

 ここにはホールが26もあり、1万点以上の作品が展示されているそうだ。館長は一緒に付いて回って解説をしようと言ったが、思想家が断った。

「何なら、今日は一日貸し切りにしてもらおうか?」

「いいえ、全部は見なくてもいいわ。見たい物だけ選んで見るから。お昼までには見終わりたいの」

「では、午前中だけ貸し切りにしよう」

「それも要らない。他のお客に迷惑をかけたくないの」

 早く開けるのは、美術館にとってそれほど大きな負担になるとは思わなかったし、実際に関わったのは二人だけだった。貸し切りにしてもらうと確かに嬉しいけれど、入れなかった他のお客が困るだろう。それに、他のお客がいても作品を見ることはできるのだから、貸し切りにしてもらう意味はない。そういう自己満足は良くない。

 肖像画のうち女性が描かれたもの、風景画のうち人物が大きめに描き込まれたものを見ていく。女性のポーズ、構図、服の描かれ方を見たい。ジナイーダ・セレブリャコワという画家の作品が、特に気に入った。思想家が解説しようとするのを遮って、ゆっくり見る。その他の絵は、風景画だけ解説してもらうことにした。

「手前の水の中にいる二人の子供と4頭の牛が“動”と“明”を表し、奥の山、家、森、草原、そして立ち止まっている1頭の牛が“静”と“暗”を表しているんだよ。特に水の部分は白く明るく、そして波が描かれているね。この領域は狭いけれど、“動”と“明”が強い印象を与えるために、その他の領域と釣り合いが取れている。そこがこの絵の美しいところだよ」

 プィモネンコの『浅瀬』という作品を解説してくれた。彼の解説は正しいと思うけれど、私は手前にいる二人の子供のうちの少女の方が、スカートが濡れないようにさりげなく持ち上げているところ――しかしその手は巧妙に隠されている――に興味が行ってしまう。

 そこを彼がどう思うかを訊いてみたいのだが、ついでにそれ以外の“制作者が意図した点”をいくつも挙げてくるような気がする。そうすると私の発見した部分の印象が薄れてしまうと思って、訊けなかった。

 マコフスキーの『収穫』という作品で、「左下の子供たちの配置や人数に意味はあるのか」「右下の倒れて寝ている犬に意味はあるのか」を訊いてみたところ、19世紀のロシアの農村の家庭事情を交えて詳細に解説してくれた。しかし、それでも子供たちの配置の根拠は解らない! 制作者が「そういう構図がいいと思った」というだけではいけないのかしら?

 見たい物を見終わったら、12時を回っていた。館長に礼を言って外へ出た。館長は入口まで見送りに来た。

「昼食も一緒に行ってくれるね? もちろん、レストランは予約してるよ」

 思想家が言うので、承諾して、タクシーに乗った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る