#13:第2日 (2) ラボ・ツアー
小一時間ほどトレーニングを続けて、部屋へ戻ってシャワーを浴び、朝食へ行く。調査へ出掛けるのは9時頃からだな。
「
またモトローナが登場。爽やかな笑顔だ。
「アーティーと呼んでくれていいよ」
彼女にはまだ言ってなかった。
「申し訳ありませんが、ホテル内では
「じゃあ、ホテルの外ではファースト・ネームで呼んでくれるのか」
「ええ、もちろん」
「できれば、俺の部屋へ来たときもファースト・ネームで呼んで欲しいが」
「考えておきます」
「それは嬉しいな。それで、何の用?」
「研究所から連絡がありまして、9時にお迎えに上がるとのことでした」
「研究所って、財団の?」
「はい」
そういえば昨夜ラーレが、ここに研究所があると言っていたような気がする。ウクライナの首都はキエフなんだから、そっちに作ればいいのに。もちろん、モトローナには関係ないからそんなことは言わないが。
「俺がここに泊まっていることを、誰が知らせたんだろう。君か?」
「私ではありませんが、宿泊の手続きをすると自動的に連絡が行くものと理解しています」
クレジット・カードを使うからか。あるいは、観光案内所でタチアナが予約をしたときに、勝手に連絡が行ったのかもしれない。カードの情報を登録していたから。しかし、何のために迎えに来るんだ?
「用件は何か聞いてる?」
「いえ、私は何も。お仕事でいらしたと思っていましたので、それでお迎えが来るのかと」
仕事で来るなら観光案内所から宿泊予約が入るわけがないと思うが、きっとモトローナの勘違いだろう。
「朝食が終わったら部屋へ戻るから、迎えが来たら知らせてくれ」
「かしこまりました」
研究所へ連れて行かれたら町の調査ができないが、こうして勝手に発生するイヴェントにはそれなりの意味があるのだろうから、連れられて行った方がいいだろう。ただし、迎えに来た奴が気に入らなかったら断るかもしれない。
9時10分前に電話があった。もう迎えが来たのかと思ったが、モトローナが「
「ぜひご紹介したい女性がいらっしゃるということで……」
「それはホテルの客?」
「はい。
俺よりもランクが上の部屋の客か。とはいえ、そんなことで人のランクは決まらないし、そもそもランクによって会う会わないを決めるつもりはない。
「急用が入ることもあるから、確約できないと伝えてくれ」
「かりこまりました」
その5分後にまた電話があり、今度こそ研究所から迎えが来たという知らせだった。町を歩くより少しはましな服を着て、ロビーへ降りる。
「初めまして、ドクター・ナイト! 財団オデッサ研究所のイリーナ・メンチェンコです。私用でのご滞在とは伺っておりますが、ぜひオデッサ研究所の成果をご覧に入れたいと思いまして、お迎えに上がりました」
出迎えてくれたのは女で、もちろん美人で、しかもブラウスの半袖から覗く腕の太さや、胸の大きすぎない盛り上がり具合や、ミニスカートに包まれた尻の形が俺の好みにぴったりというおまけ付きだった。
これはどうしても付いて行かねばなるまい。いや、そんなことで付いて行く行かないを決めてはいけないのだが。
「やあ、ミス・メンチェンコ。急な招待だったので驚いた。ぜひ行きたいところだが、一つ条件があるんだ」
「何でしょう?」
イリーナは愛らしい目を2、3度瞬かせながら言った。
「俺のことはアーティーと呼んでくれ。君だけでなく、研究所のスタッフ全員にも伝えて欲しい。ドクターと呼ぶことは禁止する」
「了解しました! 私のことは、もちろんイリーナと呼んでください。それでは、お車へどうぞ」
「助手席に乗っていい?」
「もちろんです!」
見た目が俺好みであるだけでなく、元気もいい。肩くらいまでの長さの
車で走りながら、オデッサ研究所の概要を聞く。元々は音響に関する研究をしていて、そこに動画のデータ圧縮展開方法が加わり、最近ではヴァーチャル・リアリティーも研究しているらしい。
「君の専門は?」
「音声合成です。最近はVR用に最も効率のいい圧縮音声の合成方法を研究しています。でも、まだ一人では研究できなくて、チームの主任の下に就いてやってます」
「俺がオデッサに来たことはどうやって知れたんだろう」
「判らないんです! 人事部から、昨日の夕方に、突然連絡が回ってきたんですよ。でも、あなたのお名前は有名ですから、みんな知ってました。大急ぎでラボ・ツアーの準備をしたんですけど、間に合うかどうか判らなかったから、今朝のご連絡になってしまったんです」
なぜ俺の名前が有名なんだ。俺が研究してる“ことになってる”のは行動シミュレーターで、VRや音声とはほとんど関係がないだろう。しかし、理由を訊いたら長くなるに決まっているので、訊かない。
「君も急に迎え役を言いつけられて驚いただろう」
「いいえ、私が希望したんです! ラボ・ツアーに私のチームの内容を入れられなくて、でも、どうしても聞いていただきたかったので。帰りに、ホテルへお送りする途中で、ちょっとだけもお時間を作っていただけたらって思って」
じゃあ、ホテルの部屋にちょっと寄って……というのはやめておいた方がいいか。
「もちろん、喜んで聞かせてもらうよ」
「ありがとうございます!」
研究所は町の中心を通り抜けてから、かなり西の方へ行ったところにあった。地図を見ると、サヴィツキー公園の近くのようだ。建物は、研究所というよりは学校を改装したように見える。イリーナに訊くと、当たっていた。
入口でセキュリティー・チェックを受け――といっても俺の場合は例のクレジット・カードを提示するだけだったのだが――中へ入る。
エレヴェーターに乗ると、イリーナが俺の方を向いて立って、これ以上ないくらいに嬉しそうな笑顔を見せる。抱きしめていいのかと勘違いしそうになる。
2階に受付があり、美人の受付嬢が座っていた。イリーナと受付嬢が元気よく挨拶を交わす。もちろん受付嬢は俺にもとびきりの笑顔をくれた。
受付のすぐ横の会議室へ入ると、男が3人待っていた。いずれも30代と思われるが、一人はだいぶ頭が薄くなっている。
「ようこそオデッサ研究所へ、ドクター・ナイト。もちろん、アーティーと呼んで欲しいというのは聞いていますが、最初の挨拶くらいはドクターとお呼びしてもいいでしょう。急にお呼び立てして申し訳なかったですが、ぜひ我々の研究を見てもらいたいと思いました。第1研究部主任のオレクシイ・タラシウクです」
それから第2研究部主任のミコラ・キリウク、第3研究部主任のセルゲイ・アクソノフとも挨拶と握手を交わす。みんな俺より年上だろうに、やけに低姿勢で接してくれる。
「出張でこちらへ来る研究員には部長が挨拶することになっていますが、今回は我々が私的にお呼びしたので、公式な挨拶も歓迎パーティーもできず、非常に残念です」
タラシウク氏はそう言って笑った。どうやらこれはジョークのつもりらしい。ラボ・ツアーの方も短縮版だそうだ。そして後で俺の研究のことも聞きたいと言ってきた。それは一応、覚悟していたが、本物の研究員に質問されるとボロが出るんじゃないかと心配だ。
研究所の全体について、イリーナに聞かせてもらったよりももう少し詳しい説明を受けた後、タラシウク氏に案内されて第1研究部へ行く。後からイリーナも付いて来る。
パーティションで区切られた研究スペースの一角に、男女が4、5人集まっている。説明用のパネルも置いてある。挨拶を交わしてから説明を受ける。VR造形データの圧縮展開ソリューションの研究をしているとのこと。
地図、建物、生物、行動などの色々なデータに対して、その種類ごとに最適な圧縮展開ロジックを作っているらしい。ここで研究した成果を基にして、今いる仮想世界が作られた、という入れ子構造になっている気がする。
圧縮率を優先して全てを非可逆圧縮にすると、仮想世界の中で物が不自然な見え方をする――ぼやけて見える――ため、拡大して見る可能性のある部分のみ可逆圧縮を使用するのだが、その継ぎ目の部分の圧縮方法に効率の良い独自ロジックを適用した、というのが“売り”らしい。売りの部分に質問しても敵うはずがないので、別の方向から質問する。
「リアルタイムで世界を構築するとしたら、今はどれくらいの範囲が作れる?」
「ちょうどこの建物くらいですね。長さ100メートル、幅25メートル、4階建て。しかし、その中に人を置くとしたら12人か13人……一番頑張ったら15人くらいでしょうか。だから、
「そうすると、空を流れる雲や海岸に打ち寄せる波なんかは」
「まだまだですね。舞台の書き割りのように絵に描いてしまって、擬似的に3次元にしたり動かしたりっていうことくらいしかできません」
やはりそうか。俺の時代の処理速度でも無理と思えるもんな。今のこの仮想世界は、かなり未来の時代の技術ということになる。
「データ転送技術は別の部門?」
「そうです。しかし、そちらは最終的に標準プロトコルに従うことになりますので、重要な研究対象にはなっていません。我々の方ではその標準になるであろうプロトコルに合わせたロジックを考えてます」
「しかし、どこからどこへ転送することを考えているのかな。計算機間の転送? 一つの部屋に数千台の計算機を置いて、その中で転送するというのなら独自の転送方式でもいいと思うが」
「将来的はネットワークを通じてグローバルな計算機資源を使うことを想定しているものですから」
「標準プロトコルを拡張するとか、専用のプロトコルを作るとかの想定した方がいいのでは?」
「そういったこともやりたいんですが、今は人的リソースが足りないので、これからの課題です」
うまく逃げられた。礼を言って、次へ行く。イリーナが第2研究部まで連れて行ってくれた。エレヴェーターでなく階段を使ったが、登るときの彼女の脚の躍動は本当に素晴らしかった。
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