#13:第1日 (6) 多重人格?

【By 主人公】

 レストランへ行ってメニューを見ると、地中海料理とか黒海料理とかいう言葉が並んでいる。ここは地中海と関係ないはずだ。

 美人のウェイトレスに黒海料理とはどんなのかを訊くと、トルコ料理に近いとのことだった。せっかくウクライナに来たのだから、ウクライナの料理を食べたい。しかし、ノルウェーのステージでマルーシャからウクライナ料理の名前を色々と聞いたはずなのに、すっかり忘れてしまっている。

 メニューに書かれた説明を見ながら、ボルシチとヴァレーニキを注文した。ウェイトレスが「お飲み物は」と訊くので、迷わず「オレンジ・ジュース」と答える。

 料理を待っているうちに、ピアノの音が聞こえてきた。レストランで音楽を流しているわけではないだろう。そういえば、エントランスのロビーにピアノが置いてあった気がする。誰か弾いているのか。

失礼しますプロバチュテミスターパン・ナイト」

 レストランの中なのに、モトローナが来た。受付の時と同じく、とても気持ちのいい笑顔をしている。思わずこっちも笑顔になる。

「何?」

「一緒にお食事をしたいとご希望の女性がいらっしゃるのですが、いかがいたしましょうか?」

 誰だよ。そんな奴、いるはずないだろ。そりゃ、今日の昼に何人かの女から声をかけられたが、俺は名乗ってないし、ここに泊まることも言ってない。

 いや、待て、一人だけ、その両方を知っている女がいる。観光案内所のタチアナだ。でも、まさかなあ。

「外から訪ねて来た?」

「いいえ、当ホテルにお泊まりのお客様です」

 違ったか。じゃあ、誰だろう。

「名前は」

ミスパンナ・ラーレ・ギュネイです」

 全く知らない名前。さて、どうするか。

「ひとまず、テーブルまで来てもらおうか」

「では、ご案内します」

 モトローナは優雅にレストランを出て行き、すぐに女を連れて戻ってきた。背が高く、やせていて、吊り目で、丸い眼鏡をかけて……待て待て待て、カメラ女じゃないか? 昼間と表情はまるっきり違うけど。あと、服もインフォーマルのドレスを着てるけど。

 まずいな、俺がこのホテルに入ったのを見てたのか? いや、でも確か、ホテルの宿泊客と……

「初めまして、ドクター・アーティー・ナイト。ラーレ・ギュネイと申します。あの有名な財団の研究者と伺いました。もしよろしければ、お食事に同席させていただいて、お話などお聞かせいただけますか?」

 カメラ女と気付いた瞬間、立ち上がって「帰れ」と言いそうになったのだが、昼間とは別人の雰囲気だし、物腰も柔らかい。

 落ち着いてもう一度よく見てみる。確かにあのカメラ女だよな、外見は。でも、「初めまして」って言ったし、俺の顔を見てるのに、昼間会ったことに気付いてそうにないんだが。

 いったいどうなってんの。君、もしかしてカメラ女の双子の妹とかじゃないよな?

「一度会ってるよな?」

「そうでしょうか? 申し訳ありません、憶えがなくて……」

「昼過ぎに、君はプリモルスキー通りにいたはずだが」

「……ええ、そうです。ずっとその近辺にいました。その時、私のことにお気付きになったのですか?」

「君に声をかけられて、ヴィデオ・カメラで撮られたんだ」

「…………」

 ラーレが固まってしまった、横にいるモトローナも、去るに去れない状況になっている。

「あの、二人だけでお話をさせていただけたら……」

 しばらくして、ラーレがモトローナに言った。モトローナは当惑していたが、そこは一流ホテルの受付係、曇りのない笑顔に戻り、「ご用がありましたらお呼びください」と言ってレストランを出て行った。

 さて、ラーレは二人きりになって何を言うつもりか。

「あの……昼間のことですが」

「うん」

「私、ヴィデオ・カメラを持って撮り始めると、夢中になって、自分が何をしたか憶えていないときがあるんです。もしかして、あなたにその、大変失礼なことをしたのでしょうか? そうでしたら、まずお詫びを申し上げたいと……」

 モトのハンドルや車のステアリングを握ったら性格が変わる、って奴は何人か知ってるが、カメラを持つと性格が変わるなんてのは初めて聞いた。

 戦場カメラマンはファインダーを覗いていると自分に弾が当たらないと信じることができるらしいが、それとは全然違うし。

 で、カメラを構えていると、ああいう偉そうな性格に変わるのか? 今の状態を見ていると、真面目な高校教師くらいにしか見えないが。

「君が撮った映像には……そうか、君の姿は映ってないんだな」

「ええ、カメラが回っている間はしゃべりもしませんから、声も……それに、今日撮った映像はまだ見ていないんです。頭の中にイメージはあるんですが、構図とか動きは憶えていても、詳細な部分までは……それで、あの、私はいったい何を……」

 正直に指摘してやるべきか、迷ってきた。カメラを持ってないときはずいぶん気弱なんだな。まあ、持ってるときと持ってないときと、どっちが本来の性格だか判りゃしないが。

 とりあえず、もうしばらく様子を見ようか。何しろ、キー・パーソンらしいから。歩いているときに、撮影させろと強引に声をかけてきた、ということにして、数々の尊大な発言はなかったことにしておいてやる。

「そうでしたか、そんな失礼なことを……」

 実際はもっと失礼だったんだけどね。

「まあ、仕事に夢中になっていたようだから、気にしないでおくよ」

 そして席を勧める。恐縮しながらラーレが座る。ウェイトレスを呼んでやると、チキン・キエフを頼んだ。

「ところで、君の仕事は?」

「映画監督です」

「残念ながら映画はほとんど見ないので、君がアカデミー賞を受賞していたとしても知らないんだ」

「いえ、そんなたいした実績は。小さな映画祭で新人賞をいただいたくらいです」

「監督なのにどうしてカメラを構えてたんだ?」

「映画は切り取った景色だけで全てを表現しなければなりませんから、常にカメラの視野を意識する必要があるんです。その感覚を忘れないために、時間の許す限りカメラを持つことにしてるんです」

 そんなこと言ったって、自分がカメラを持ってる間にしたことを忘れるようじゃあ、意味ないんじゃないか。

「それで、どうして俺がここに泊まっていることを?」

「偶然なんです。オデッサは次の新作の舞台にするつもりで見に来たんですが、財団の映像関係の研究所があるとも聞いていて。それで、そこを取材したくて、色々な人を通じてコンタクトしていたんですが、了解がもらえなくて困ってたんです。それが、夕方ホテルに戻ってきたら、財団の研究員の方が今日から泊まるという噂をスタッフから聞いたので、こうして無理矢理押しかけてきた次第で……」

 なるほど、この状態でも多少強引なところはあるわけだ。まあ、それくらいでもなければ映画なんて撮れないだろうな。

 噂を漏らしたスタッフとは誰だろう。モトローナではないよな。きっと他に口の軽いスタッフがいて、モトローナはその巻き添えを食ったのに違いない。可哀想に。後で部屋に呼んで慰めて……それはさすがにまずいか。

「それで、何を訊きたい? 映画の参考になるような話ができるとは思ってないけど」

「ドクター・ナイトのご専門は数理心理学と伺いました。大急ぎで調べたので間違いがあるかもしれませんが、人間の行動パターンを研究しておられると理解しています。私の次の作品では、人格の差異をテーマにする予定なので、人格による行動パターンの特性についてお話をお伺いできればと思いまして」

 そう言ってラーレは持っていたハンドバッグの中から紙の束を取り出してきた。どうやら俺の論文らしい。『周期的に行動パターンを変えるプレイヤーに対する周囲の学習行動変化と学習度の収束時間について』。今までに見たことがないタイトルだ。でも、要旨アブストラクトを見れば中身はだいたい解るだろう。

 しかし、どうやって彼女は入手したんだ。そう簡単に入手できないことになっているはずだが。

「話すには二つ条件がある」

「何でしょう?」

「一つは、君の次の作品の要旨アブストラクトを話してくれること」

「ええ、もちろん構いません。ただ、周りに人がいないところでお話ししたいですわ。ご存じと思いますが、映画界ではアイデアが漏れると、似たような作品を他の人に先に作られてしまうことがあるものですから」

「では、ここではなくて後で聞くことにしよう」

「もう一つは?」

「俺をドクターではなくアーティーと呼ぶことだ」

 ラーレは少し目を大きくしたが、笑顔に戻って言った。

「肩書きがお嫌いなんですね。解りました、アーティー。では、私のこともラーレと呼んでください」

「そうしようと思っていたよ」

 俺の料理が運ばれてきたが、ラーレのはもちろんまだ来ない。お先にどうぞとラーレが手振りで示すので遠慮なく食べる。

 ついでに「内容を忘れかけてるので」と断って、論文を読む。そんなに難しいことは書いていない。だいたい、この世界で俺が書いた“ことになっている”論文は、理論自体は単純で、予想とシミュレーション結果との比較考察が主になっているのが多い。

 たちまち意味が掴めてしまう。説明しようと口を開きかけたときに、レストランの外から大きな拍手の音が聞こえてきた。思わずそちらに顔を向ける。ラーレも見た。

「ピアノの演奏が終わったのだと思います。ロビーで弾いていた女性がいましたから」

 ライヴ・コンサートでもやっていたのだろうか。

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