#13:第1日 (5) 乱れる心

 密輸博物館を出て、さらに北へ歩くと、見たような銅像が建っている。エカテリーナ2世像。快活な少女に声をかけられた地点に戻ってきたわけだ。

 つまりここから西へ行けば観光案内所がある。そちらへ行く。しかし、案内所には寄らず、ゴーゴリャ通りを南へ向かう。突き当たったところに歴史博物館がある。

 クリーム色の壁の建物で、学校のように見えなくもない。展示品は約12万点で、ウクライナで最大のコレクションと言われているらしいのだが、入るかどうか迷う。

 こういうところは学校教育の一環として来るものだろう。あるいはオデッサのことを研究しに来た歴史学者とか民族学者とか。

 リーフレットに書いてある主要な展示品を見ても、有名な王族や政治家が署名した文書とか、街の設計図とか地図とか、地元の芸術家の絵画とか肖像画とか、家庭用品とか、そういうものだ。だから、旅行者兼泥棒は、そのうちに必要があれば入るということにして、今日のところは通り過ぎる。

 さて、後は公園をいくつか見ながら、ホテルへ向かうことにしよう。歴史博物館から少し南へ行ったところに市立公園がある。横長の長方形の、右下と左下を切り取られているので、"T"の形に見える。

 真ん中に花壇と噴水、その少し北側に“ロタンダ”という正12角形の四阿ガゼボがある。日曜日なので子供がたくさん遊んでいる。銅像がいくつか置いてあるが、どれも謂われがよく判らない。

 時計の周りで子供が踊ったり楽器を弾いたり、大道芸人のような男が立っていたり、中年の男がベンチに座っていたり、背もたれに絵を描いた椅子がぽつんと置いてあったり。これら全てが銅像。

 特に何も調べず、公園を出て、ランヂェロニフスカ通りを東へ行く。オペラ・バレエ劇場の手前にパレ・ロイヤル公園がある。パリのパレ・ロワイヤルのように、近くにショッピング・モールを作る計画を立てたので、そういう名前になったとのこと。しかし、噴水以外、特に何があるわけでもない。

 オペラ・バレエ劇場は少女たちの団体がいなくなっていたので、改めて建物を眺めておく。1810年に建てられ、いったん火災で焼失したが、1887年に再建された。ロココ様式。ウクライナで最も古い劇場で、最近まで大規模改修中だったが、一部を残してほぼ完了とのこと。

 オペラ劇場というのは観客席が馬蹄形をしていても建物自体は四角いものだが、ここは建物も馬蹄形をしている。だから正面から見ると円筒に時計塔がくっついたような形をしている。もちろん、裏から見ると四角柱だろう。

 改修が終わったということは記念公演があったりすると考えられて、ファサードに掛かっている垂れ幕がその案内だと察するのだが、キリルで読めない。ホテルに行ったら訊いておいた方がいいかもしれない。

 ランヂェロニフスカ通りをさらに東へ行くと、車は行き止まりになるのだが、歩行者用には狭い下り坂があって、ポルスキー通りに出る。それを横断して、カランチュニイ坂を登っていくと、タラス・シェフチェンコ公園に出る。

 オデッサで一番広い公園で、縦横とも半マイルくらいあり、中に陸上競技場もある。ただし競技場はかなり古く、建て替えが計画されているそうだ。

 ホテルへ行くには、この公園の北西から南東へ遊歩道を通り抜ければいい。

 競技場の近くを通るので、見ていく。ブラック・シー・スタジアムという名前だが、古い上に観客席も少ない、貧相な競技場だ。合衆国なら高校のフットボール・スタジアムでももう少し立派なのがある。横にこれまた古い体育館が付属している。

 そこにまた少女たちの団体が……うーむ、見かけたことがあるようなのが混じってるぞ。

「ヘイ、あんた!」

 また聞いたことある声。カメラ女! どうしてここに。

「ちょうどいいわ、そこからこっちへ歩いてきて!」

 さっきと同じこと言ってんじゃねえよ。

「もうお役御免ディスミッサルになったと思ったんだがな」

「何ですって?」

 女がカメラから目を離して言った。俺の顔、憶えてないのかよ。本当に身体のサイズだけで判断してた?

「ああ、あんた、さっきの男じゃないの。どうして逃げたのよ」

「逃げたんじゃない、お前が勝手にどこかへ行ったんだろ」

「あの時はあんたよりもずっと重要な女がいたから、そっちの方を優先したの。待ってればいいじゃないの」

「俺は他にすることがあるって言ったろ」

「彼女は私に喜んで協力してくれたのに、何であんたは協力しないの?」

 どこまでも自分に従わせようとする女だなあ。こら、少女たち、見るんじゃない。悪い大人の女の見本だぞ。

「協力すると言った憶えはない」

「呆れた! そんな自分勝手なことを言うなんて、信じられないわ」

 どっちが自分勝手なんだよ。少女たちが誤解するだろ。

「どうとでも言え。俺はもう行くからな」

「どうしようもない男ね! ヘイ、少女たち、そこを一列になって歩いてみて。あら嫌だ、逃げ出すなんて!」

 少女たちにも逃げられたようだ。いい気味だ。

 公園の東の端に、無名水兵の記念碑があった。合衆国のアーリントン墓地にある無名兵士の墓のようなものだろう。オベリスクのように、先の細った四角柱の形をしている。

 その脇から、黒海がよく見える。崖の縁の石垣に座って眺めている人がたくさんいる。大階段から見るよりもこちらの方がいい眺めだ。

 南東の端へ到達。少し南へ歩き、ランジェロン門を通り抜けて、海岸へ向かって坂を下りると、ホテルがあった。

 リゾート・ホテルといえば普通は壁を白にするところが、黒を基調にしていて、それが逆に高級感を出している。

 入ると内装は現代的でかつ簡素で、落ち着いた機能美を醸し出している。なかなか良さそうなところだ。

 フロントレセプションへ行くと、受付係にしておくには惜しいような美人が笑顔で迎えてくれた。

いらっしゃいませラスカヴォ・プロシモ! ドクター・アーティー・ナイトでいらっしゃいますね。パノラミック・スイートをご用意いたしました。お荷物は既にお部屋に運んであります」

 しかもそんな美人が他に2人もいる。声をかけてくれた美人のフロント係デスク・クラーク、モトローナ・シュシュコに、館内の設備の案内を受ける。

 最新式のマシーンが揃ったジム――もちろん、この時代の最新――に、宿泊客専用のプール――申し込めば一定時間貸し切りにしてもらえる――に、美容サロン。モトのレンタルもしているとのこと。

 ランニングに良さそうな場所を訊くと、先ほどのタラス・シェフチェンコ公園か、ホテル前から南へ延びる海岸か。

「他に何かご不明な点があれば、いつでも私までお問い合わせください」

「ありがとう、頼りにしてる」

 とはいえ、彼女だってたまには休むだろう。前回のベアトリーチェみたいに、俺を見張ってるんじゃないかと思うほどフロントレセプションに張り付いてるフロント係デスク・クラークもいたけどさ。

 そしてそのモトローナの案内で――そんなのは彼女の役目じゃないと思うのだが――部屋へ行く。最上階ではなく、その一つ下のフロアだが、パノラミックという名のとおり、窓から黒海が見渡せる部屋だった。

 居間と寝室の二間続きで、ベッドはダブル。こういう広い部屋に一人で泊まるのはとても悲しい。窓からの眺めを勧めるモトローナの肩を、思わず抱き寄せたくなる。

 名残惜しくもモトローナが去ると、今日の調査結果――というほど見ていないが――を地図に書き込む。

 それから持ち物の確認と整理。頼みもしないのに、ロジスティクス・センターへ預けた荷物まで届いていた。行き届いていて素晴らしい。

 少し休憩したら、夕食へ行くことにする。いいホテルに泊まっているのだから、それなりの服を着なければならないだろう。



【By ピアニスト】

 私の心は乱れている。こんな心で、ピアノを弾いてもいいのだろうか。しかも、今日は人に聴かせなければならない。聴衆を満足させることが、できないのではないだろうか。きっと、気付く人もいるだろう。私が集中できていないことを。

 少しでも心を落ち着けたい。だからまた海を見に来た。記念碑パミャトニクのところから見る海が、一番広くて素晴らしい。左手の、彼方に見えるのはクリミアクリム。右手には陸は見えない。

 でも、本当はその向こうに陸がある。このモーレは本当は広くないのだ。もっと広い海を見てみたい。私は本当の海を知らない。

 私の世界は何と狭いのだろう! オデッサ、ポルタヴァ、モスクワ、そしてワルシャワ。私が知っているのは、その四つの町だけ。

 モスクワとワルシャワは、町のほんの一部しか知らない。ウクライナの外へ出たことはあっても、海すら見たことがない。

 誰か、私をこの狭い世界から連れ出してくれないだろうか。いいえ、そんな人を、待っているだけではいけないのだ。私はその人を、探し出さねばならない。

 いいえ、いいえ、それもいけない。私は一人でこの世界から出なければならないのに。

 海を見ると心が落ち着くはずなのに、今は心が乱れてしまう。私は、余計なことを考えすぎではないだろうか。ないものをねだりすぎてはいないだろうか。熱情を持って、一心不乱に、自分のするべきことに打ち込んでいれば、道が開けるのではないだろうか。私は信じる心が足りないのではないだろうか。

 自分を信じたいのに、信じられないのはなぜだろうか。心の拠り所が欲しいと思っているのだろうか。

 もちろん、心の拠り所は欲しい。私の周りに今はない、新たな拠り所が。けれど、その拠り所に、私の心の全てを奪われてしまうのではないだろうか。他のことが何も見えなくなり、ピアノさえも、家族さえも、人生さえも……

 それとも、一度くらいはそんなことになるべきなのだろうか?

 ただ、そうなったときに、もし戻ってこられなくなったら?

 泳げない人が、一人で海で溺れてしまうと、二度と戻ってこられないように。そう、私はそれを恐れているのだ。

 海をただ見ているだけなら溺れることはない。しかし、水際で遊んでいると思っていても、いつの間にか高波にさらわれてしまうこともあるだろう。その時に、私は戻ってこられる自信がない。私はそれを恐れる。

 私が海を見ていると落ち着くのは、海が静かなときだけだ。荒れた海を、私は見たことがない。そう、私は本当の海を知らないのだ……

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