#13:第1日 (7) 身体を鍛える女

 拍手の音が消えたので、論文の説明を始める。

 複数のプレイヤーが行動し、平衡状態が保たれている系があるとする。そこへ新規プレイヤーが参入する。各プレイヤーは新規参入者の行動を学習し、自らの行動を一部修正して、系を再び平衡状態へ戻そうとする。

 ところが、新規参入者は一つの行動パターンではなく、複数の行動パターンを持ち、パターンを周期的に変える性質を持っているとする。その時に、各プレイヤーは系が平衡になるまでにどのように学習し、学習が完了するまでにどれくらい時間がかかるか?

「ポイントは、各プレイヤーの学習進捗にばらつきがあることだ。学習が速いプレイヤーと、遅いプレイヤーがいること。さらに、学習する機会が多いプレイヤーと、少ないプレイヤーがいること。後者の方は、現実世界だと例えば平日に毎日会社で顔を合わせる人と、週末しか顔を合わせない人とを想像すればいいだろう」

「解ります。そしてその二つの掛け合わせによって、学習が終わるまでの時間に個体差が発生するということですね」

「そう。そしてもう一つ考慮する必要があるのは、いくら学習が速くて機会が多いとしても、すぐに学習が終わるわけではないということだ。そういうプレイヤーは、学習が遅い他のプレイヤーの行動に影響されて、学習の中間段階で長くとどまらなければならなくなる場合があるんだ。つまり、邪魔をされるんだな。そのために一直線に学習が進まず、迂回したり、前の段階に戻らざるを得なかったりする」

「面白いですわ。そうすると中には、自分の学習に悪影響を及ぼしそうなプレイヤーを避けたり、あるいは先回りして相手の学習を補助したりといったこともあるのでしょうね」

「まさにそのとおり。そして論文では、プレイヤーの関わり方を変えて、最も速く平衡状態へ戻るのはどういう場合かを論じている。もちろんいろんな関わり方があるが、例えば会社のような階層構造では、各階層の比率がどうなっているときに速かったり遅かったりするのか、とかね」

 色々な関わり方について、それぞれどういう特徴があるかを説明する。また、これは特徴を見出すことが目的であって、これによって社会構造をどう変えたらいいかを論じているのではない、ということも強調しておく。論文の最後にそう書いてあったからだ。

 それはそうだ。世の中がシミュレーションどおり動くわけはなし、ダメだったからといってやり直すわけにもいかないんだから。

 話が終わる頃にちょうど食後のコーヒーが来た。

「とても面白い研究だと思いますわ。思い切ってお伺いして良かったと思います」

「さて、この後、君の話をどこで聞くかだが」

「できれば二人きりになれるところがいいですわ」

 そういうことを女の方から言われると少し戸惑う。俺の場合、「じゃあ、俺の部屋へ来ないか」ということにはならない。

「じゃあ、外で海岸を歩きながらというのでは?」

 日が長い季節なので、8時を回ったがまだ外は明るい。あと小一時間は保つだろう。映画の構想の要旨を聞くだけなら30分もかかるまい。

「それで結構ですわ」

 レストランを出る。支払いがどうなっているのかはよく判らない。テーブルは同じでも、食べたものの精算は別々であると期待したい。

 ビーチは、空の明るさに比べて暗く感じた。西側が台地で、既に陽が届かなくなっているからだろう。もちろん、歩くのに支障はない。人はほとんどいないので、密やかな話をするにも都合がいい。

「解離性同一性障害、いわゆる多重人格を扱おうとしているんです。映画の題材としてはたびたび取り上げられていますけど、私の作品の場合、多重人格の主人公よりも、その周囲にいて対応する人たちの方にスポットを当てたいと思って」

 主人公は七つの人格を持つ女性。日曜日から土曜日まで、日ごとに性格が入れ替わる。子供の頃は七つの性格が似通っていたため、単なる“気分屋”で済まされていたのだが、長ずるに従って各人格の個性が際立ってきて、周囲と問題を起こすようになってしまった。毎日大きく性格が変わるせいだ。

 さらに八つめの人格“ターティル”が誕生する。最初は祝日ターティルに現れて勝手に人格を支配していたが、次第に祝日とは関係なくランダムに現れるようになり、他の七つの人格も周囲の人も大問題に巻き込まれていく、というもの。

「祝日に現れるというけれど、そんなに祝日が固まっている時期があるのか」

「トルコでは4月から5月にかけて、4週間の間に祝日が3回ありますから、その頃の話にしようと」

「君、トルコから来たのか」

「はい。あら、言ってませんでしたか?」

 ここでは、ウクライナ語が自動翻訳されていると思っていて、彼女のしゃべりには妙な訛りも入っていなかったから、ウクライナ人かと思っていた。そのわりに、他の女とは顔の造作がだいぶ違うなと感じてはいたが。

「普段はイスタンブールに住んでいます。夏場は時々、ひどく暑くなるときがあるので、オデッサへ避暑に来るんです。黒海に船の直行便があるんですよ」

 映画の話が終わったので、ホテルの方へ引き返す。しかし、トルコ人がキー・パーソンというのはどういうことなんだろう。条件を満たしたら、イスタンブールへ行けたりするのだろうか。

「この後、バーでお酒でもいかがです? 研究や仕事以外の話もしたいですわ」

「申し訳ないが、アルコールは苦手でね。それにこのホテルにはジム設備があるから、トレーニングをしようと思ってる」

「あら、そうでしたの。トレーニングということは、アスリートでもいらっしゃるの?」

「アメリカン・フットボールのプレイヤーだ。プロではないがね」

 アリーナ・フットボールなんて言ってもどうせ通じないのでやめておく。

「道理で鍛えられた身体つきと思いましたわ。歩くときの姿勢も素晴らしいですし」

 横を歩いていてそんなのが見えるのか。ちょっと失礼、とラーレが言って、俺の前に走り出る。歩く姿を見るつもりのようだ。というか、さんざん撮ったじゃないか。憶えてないのかよ。

「身体のバランスも歩くリズムも理想的ですわ! 私の映像に使いたいくらい……ああ、そういえば、あなたのことを撮ったのでしたね。その時の私も、きっと同じことを考えたんだと思いますわ」

 そんなこと言ってると、君自身が多重人格なんじゃないかと思いたくなるんだけど。

「歩く後ろ姿のスタンド・インが使いたかったら呼んでくれ」

「あら、後ろ姿だけなんて。身のこなしが滑らかに見えますから、演技もきっとすぐにできるようになると思いますわ。俳優になられたらいかがです? ああ、そう、身のこなしといえば、ジムへ行って、あなたがエクササイズをしているところを撮ってみたいですわ。次の作品にはある程度アクションを盛り込みたいと思っていて、躍動感のある映像も研究したいですから」

 撮るときにまた性格が変わるんだったらやめて欲しいな。あれをしろこれをしろと言われながらトレーニングはやりたくない。

「ホテル内で撮影をするなら、ホテルの許可が必要だと思うが」

「言われてみればそうですね。撮るなら、ちゃんとホテルに確認してからにします」

 ホテルに戻ってラーレと別れ、部屋でトレーニング・ウェアに着替えてジムへ行く。俺の時代よりも50年前の設備だが、十分使える。

 ホテルにこういうジムがあったのはいつ以来だろうか。アントワープだったかな。となると、もう4週間近くもまともにトレーニングしていないことになる。その間にしたのはランニングと、部屋でできる基礎運動だけだ。

 他に誰もいないかと思ったら、女が一人いた。アスリート系の身体つきに見える。肩から二の腕にかけてと、太股にいい筋肉が付いている。濃い金髪ブロンドのショート・ヘアで、切れ長の目で精悍な顔つき。ウクライナ系ではないが、美人だ。

 どうしてウクライナ系でない美人を、こうもたびたび見かけるのだろう。それが観光客ならまだ判るが。それとも、オデッサはいろんな人種が住んでいるところなのか。

 女はチェスト・プレスで胸の運動をしている。あれは俺も使いたいのだが、二人きりしかいないのに近くへ行くと気を遣わせるだろうから、別のことをする。

 まずは大きな鏡の前でスローイングのフォームのチェック。これはアントワープでもやった。しかし、ボールを投げたのは? ポート・ダグラスで、メグに向かってだ! だから5週間も前だ。

 その間、ボールを持ったり、スローイングの振りだけジェスチャーをしたりしたが、こんなに長くボールを投げなかったのは、QBにコンヴァートされて以来、初めてじゃないだろうか。

 ここではボールを投げられる広い場所がたくさんあるので、投げる練習もしたい。できれば受けてくれる相手が欲しいが、ビーチなら一人でも投げられる。明日の朝だな。フォームにおかしいところはないようだ。

 視線を感じる。さてはラーレが来たか。振り返ったが、誰もいない。いや、さっきの女がいるだけだ。いつの間にかラット・プル・ダウンをしている。

 チェスト・プレスが空いたのでそっちへ行く。女の温かみを残すシートに座る。やっていると、また視線を感じる。振り返ったが、やはりあの女だけだ。彼女が俺を見張っているのか。まさか。だって、俺よりも先に彼女の方がいたんだから。

 レッグ・カールを使いに行く。女はレッグ・プレスの方へ行った。マシーンを間に二つ挟んで、横並びになる。今度は視線を感じなかった。

 次はショルダー・プレスへ行く。女は何のマシーンを使ってるか見えない。すると今度は視線を感じる。あの女に見られているのは確定したが、理由は不明。十分にトレーニングして、ジムを去った後も、女はまだいたようだ。

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