#13:第1日 (3) カメラを構える女

 “恋のハートザコハネ・セルツェ”の先の、ティオシュイン橋を渡る。歩行者専用の橋で、ヴィイシュコフ通りの上に架かっている。

 越えたところにヴォロンツォフ宮殿がある。19世紀に、オデッサ総督でロシア皇太子であるミハイル・ヴォロンツォフのために建てられたもの。20世紀になってからは工学学校になったり、ロシア赤軍の本部に使われたりした。宮殿にしてはあまり大きくない建物だが、一部が取り壊されたためらしい。

 宮殿の南から、プリモルスキー通りを南東へ進む。左手は斜面を切り開いた公園になっている。

 250ヤードほど行ったところに、見たことのある銅像が建っている。リシュリュー公爵像。大階段の上に立っていた像だ。つまり、一周して大階段のところへ戻ってきた。

 その大階段は、リーフレットによれば正式名称をプリモルスキー階段、通称をポチョムキン階段という。映画『戦艦バトルシップポチョムキン』の一シーンとして使われたからだ。そんなタイトルの映画だったかなという気がして、しっくりこないのだが、俺の記憶力が悪いせいだろう。

 で、その近くにヴィデオ・カメラを構えた女がいる。カテリニンスカ通りで見かけたときから1時間以上経っているのだが、まだ撮ってたのか。こら、俺を撮るな。避けてやる。

 プリモルスキー通りをさらに歩く。左手はやはり公園になっていて、もう300ヤードばかり行くと、アレクサンドル・プーシキン記念碑があって、

「ヘイ! 待って、あんた!」

 また声をかけられた。振り返ると、ヴィデオ・カメラを構えた女だった。追いかけてくるんじゃねえよ、わざわざ逃げてるのに。

何か用ワッツ・アップ?」

「あんた、そこからこっちへ歩いてきて!」

 女はそう言いながら後ろ歩きバック・ペダルで退いていった。何をさせるつもりだ。10ヤードほどバックしたところで、女が手招きを繰り返す。

 仕方がないので、やる気がなさそうな感じで歩いてみた。女が「そんな歩き方をするなら断る!」と言うことを期待したのだが、女は何も言わず、カメラを構えながら下がっていく。

 向こうから来る奴が、慌てて女を避けている。他人に迷惑かけてるぞ、お前。

 とうとうリシュリュー公爵像の前まで戻ってきた。女がバックをやめる。俺も立ち止まる。しかし女はさらに手招きする。

 仕方なく歩いていって、1ヤードまで近付いたら女が“待て”のハンド・サインをしたので止まった。

「もう行っていいか?」

「あんたの身長と肩幅がちょうどいいのよ。もう少し歩いてもらうわ」

 俺の都合を聞けよ。女がようやくカメラから目を離し、こちらを見た。まあ美人の方だが、“ウクライナ系美人”には見えない。

 背が高く、やせていて、吊り目で、丸い眼鏡をかけていて、目は黒。髪も黒くて長い。笑顔はない。俺より年上なんじゃないかなあ。30を越えたくらい?

「俺は俳優アクターじゃないんだが」

「知ってるわ、そんなこと。次は普通に歩いて」

 だらだら歩いてたのを気付いてたのかよ。

「なぜ俺がそんなことをしなきゃならない?」

「それが私にとって一番都合がいいからよ。今度はこっちへ歩いてきて」

 俺の言うこと聞けよ。しかし、女はまた素早く後ろ向きに歩いていく。何か言うには追い付かなければならない。「ヘイ!」などと大きな声を出しても立ち止まったりしないだろう。

 仕方なく、女の方へ歩く。女はどんどん下がる。ちょうど俺の行きたかった方へ向かっているので、一応都合はいい。

 周りの連中は女を避けながら、俺の方を訝しそうな目で見ている。何かの撮影をしているにしては、被写体は冴えない男だと思っているに違いない。俺だってなぜこんなことをさせられているのか知りたい。脇見をしたら女が何か文句を言うかと思ったが、それもない。

 300ヤード延々と歩いて、アレクサンドル・プーシキン記念碑まで来た。女がようやく立ち止まる。

「今の歩き方はまあまあ良かったわ。横を見るタイミングもそれなりに適切だったし。じゃあ、今度はこっちの方へ」

「おい、待て」

何か問題でもシュチョ・ネ・タク?」

「俺になぜこんなことをさせるのか理由を言え」

「さっき言ったじゃないの。私にとって一番都合がいいからよ」

「俺の都合も訊けよ」

「都合が悪かったら言いなさいよ。何かあるの?」

「街を観光中だ」

「観光なんていつだってできるじゃないの。急を要する用件はないんでしょう? だったら私の言うことに従う方が、時間の使い方として有用だわ」

 話しながら思ったのだが、この女はきっとキー・パーソンだ。付き合っていればそのうち有用な情報が得られるに違いないが、一方的に言うことを聞かされているこの状況はどうにも腹立たしい。というか、俺が気弱な自分に腹を立てているような気がするけれども。

「じゃあ、君は誰で、何を目的にこんなことをしているのか聞かせてもらおうか」

「名前なんかどうだっていいし、目的ははっきりしてるでしょう、歩いている男の撮り方を研究しているのよ」

「仕事は何だ」

「んん。そうね、ヴィデオグラファー」

 一瞬考えたな。実際は違う仕事か。しかし、詳しく突っ込んだら俺の仕事を訊かれるかもしれんし、そうなったら面倒なことになりそうな気がする。

「撮る対象が俺でなくてはいけない理由は何だ」

「それも言ったじゃないの、あなたの身長と肩幅がちょうどいいって」

「じゃあ、あいつならどうだ?」

 近くを歩いている、俺と同じくらいの背格好の奴を指差す。こら、迷惑そうな顔でこっちを見るな。

「全然バランスが悪いわ。身長が1インチ低いし、肩幅も2インチ狭い」

 おい、どうしてインチを使う。合衆国民でもないくせに。

「じゃあ、あれは?」

 3人、4人と次々に指差してみたが、女は首を振って文句を付けるばかりだ。

「私が朝から何人の男を見たと思ってるのよ。あなたより他に適当な男がいないの」

「今まで見た中にはいなくても、これから見る中に適当なのがいるかもしれないだろ」

「そんなことをしていたら私の時間が無駄になるじゃないの。これ以上無駄にできないのよ」

「だからって俺の時間を無駄にすることはないだろ」

「無駄にはならないわよ。あんたの歩く姿が、いずれ私の作品に活かされるんだから」

「その時にお前は名声を手に入れるのかもしれないが、俺は何を得るんだ?」

「私に協力したという満足感」

「それだけ?」

 それに、俺はお前の作品とやらを見る機会があるのか? この仮想世界がクローズするまでに作品が完成するのかね。

「他に何があるというの? ああ、こんなに時間を無駄にして! さあ、こっちの方へ歩いて」

 いくらキー・パーソンでもいい加減にしろよ、と言いそうになったとき、女はカメラから目を外すと、驚愕の表情になって、今来た道を走っていった。いや、“こっちの方”って言いながら、西のチャイコフスコホ通りの方へ行こうとしていただろうが。

 どこまで行った? 何かその辺で、女に――セクシーでプロポーションのいい女に――話しかけている。俺のことなどすっかり目に入らなくなったようだ。いきなり無視されるとなると拍子抜けだが、これは逃げるチャンスじゃないのかなあ。よし、逃げよう。

 チャイコフスコホ通りへ行くと、手前に海軍博物館、向こうにオペラ・バレエ劇場がある。そして二つの間には噴水広場がある。

 海軍博物館というのは珍しいので、少し覗いてみようかと思ったが、日曜日と土曜日は休館日となっていた。

 オペラ・バレエ劇場へ行ってもいいのだが、隣の噴水広場が少女の団体で雑踏している。劇場を観覧するために待っているのではないかと思う。

 大階段を登った直後に見かけた団体かと思ったが、少し違うようだ。華やかだが、近付くと居心地が悪くなりそうなので、避ける。

 少し南へ行くと、考古学博物館と文学博物館がある。考古学はともかく、文学はいったい何を展示するのだろうか。オデッサに縁の深い文学者のこうぼんとか、執筆に使っていた机とか道具とか、書斎の再現とか?

 リーフレットを見る。だいたい当たっていた。あと、自筆原稿か。そりゃ、昔の作家は紙にペンで書くもんなあ。 

 ゆかりの作家は、ついさっきそこに記念碑のあったプーシキンと、他にはマクシム・ゴーリキー、イヴァン・ブーニン、レーシャ・ウクラインカ、アダム・ミツキェヴィチ……知らない名前ばっかりだ。おっと、なぜここにヘンリー・ロングフェローの名前が。

 しかし、興味が起こらんな。とりあえず、建物くらいは見に行くか。

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