#13:第1日 (2) 恋のハート

 階段の上はちょっとした広場になっていて、そこに銅像が建っている。誰の像かは、銘板がキリルなのでやはり判らない。観光客がたくさん群がっている。少女の団体? 大人の女がその団体に何か話しているが、引率かな。

失礼しますプロバチュテ、写真を撮ってもらえますか?」

 大人の女に頼まれた。顔つきとしゃべり方から見て、この国の女ではないように見える。でも、美人の方かな。君、もしかしてキー・パーソン?

「いいけど、どこからどこまでが全員?」

 ここからここまでが入るように、と言われて、適当な距離まで下がってその全員と銅像が入るように構図を取る。2枚撮って、カメラを女に返す。

ありがとうスパシービ

 女はすぐに振り返って、少女たちに声をかけている。こら、どういたしましてくらい言わせろ。

済まないがキューズ・ミー、観光案内所がどこにあるか知ってる?」

 去って行こうとする女に強引に話しかける。女は笑顔を崩さずに答える。

「ああ、えーと、あっちの方」

 あっちってどっちだよ。指だけ差されても判らんって。地図を見せてもらう。階段の正面にあるこの道を真っ直ぐ行って、銅像がある広場のところを西へ折れて、突き当たりね。

「ありがとう」

どういたしましてユア・ウェルカム

 どうして突然英語に変わってるんだよ。まあ、いいか。

 教えてもらった道はカテリニンスカ通り。ヴィデオ・カメラを持った怪しげな女が、周りの景色を撮りながら歩いている。カメラに映り込まないように避けて歩く。

 150ヤードほど行くと確かに広場があった。立っているのはエカテリーナ2世像。聞いたことある名前だが、何をしたかは知らない。

 その近くに立っているプロポーションのいい美人に、男が話しかけている。そういう女に目が行くのは、マルーシャを警戒しているだけであって、他意はない。広場から西へ行くと、

失礼しますプロバチュテ! 失礼しますプロバチュテ!」

 突然少女に声をかけられた。少女? うん、少女だよな。背が低くて、痩せていて、胸はほとんどなくて、黒髪を肩まで伸ばしていて、くっきりとした眉にぱっちりとしたブラウンの目が可愛らしい。間違いなく少女。

 美少女と言うには清楚さが少し足りない。つまり、快活な少女。

何か用ワッツ・アップ?」

「あー、あー」

 何だ、焦ってるな。頭を抱えてる。しゃべりたいけどしゃべれないのか。外国人? さっき似たような感じの少女たちを見かけたが。

「英語、しゃべれるか?」

「ああ、はい! 私と同じくらいの年の女の子たちを見ましたか?」

「見たよ。この通りを真っ直ぐ行ったところに階段と銅像があるが、その辺りにいた。少女が10人くらいで、大人の女性が2、3人一緒に」

それザッツ・イット! ありがとう!」

 少女は跳ねるように走って行った。君、キー・パーソンじゃないのか。話しかけられやすいのはいつもの仕様だが、すぐにどこかへ行ってしまう。

 そうだ、観光案内所。広場から西へ、サバニエフ・ミスト通りを300ヤードと少し。なるほど、観光案内所があった。

 入ったら地図があって、ここがどこの国か判った。ウクライナ。東ヨーロッパ。台形のような形をした黒海の――やっぱりあれは黒海だった――、北西の角のところがオデッサだった。ただし、その角は少し入り込んだ湾になっていて、埠頭は北東へ突き出している。俺は最初、そこにいたわけだ。

 係員もすごい美人。ウクライナの女って、みんなこんななのか。しかもどうしてそんなに嬉しそうな顔するんだよ。

 地図と、観光案内のリーフレットをもらって、ついでに例のクレジット・カードを見せながらホテルを紹介してもらう。

「あら、財団の! 指定のホテルがあるんですよ」

 女がひときわ嬉しそうな顔をして、リーフレットを出してきた。こんなに笑顔の美人が多いと、誰もがキー・パーソンに見える。

 ホテルはずっと東側の海岸沿いにあり、ランジェロンという名前だった。リゾート・ホテル仕様らしく、テニス・コートやプールやジムも揃っている。

 早速、宿泊の手続きをしてもらう。もちろん、部屋はあった。

「今からすぐに向かわれますか? それならタクシーを呼びますよ」

「いや、この辺りを少し観光してから、夕方に行く」

「じゃあ、荷物だけ先に送りましょうか?」

 そんなことまでしてくれるのか。やっぱり財団の肩書きを使うと極めつきのVIP待遇だなあ。ありがたく鞄を送ってもらうことにする。ついでに美人の名前を訊く。

「タチアナ・リアブコワです!」

「ありがとう、タチアナ。道に迷ったらまた来るよ」

「お待ちしてます!」

 本当に来てしまいそうな気がしてきた。

 バウチャーをもらって日付を確認する。2007年7月1日、日曜日。あれ、確かこの前のステージの最終日は6月30日だったんじゃないのか。しかし、年は違うし、曜日も連続してないから、つながりはなさそうだ。単なる偶然かな。

 さて、観光というか街中の調査だが、主な施設はこの観光案内所から東側に点在している。

 しかし、一つだけ西にあるのがオデッサ美術館ファイン・アート・ミュージアムだ。ここから北西に半マイルほどのところ。真珠のネックレスを付けた女の絵なんてのが飾ってあるかもしれないから、見に行った方がいいとは思うのだが……これまでの経験を踏まえると、美術ファイン・アートを見に行っても大して役に立ないという傾向があるのは確かだ。

 美術以外に、遺物や珍品を展示している博物館ミュージアムは有力。現に、そこに展示されていた物を盗んだことが何度かある。ただ、建物くらいは見に行ってもいいだろう。美術館の建物はそれだけでも見る価値があるものが多いから。

 北へ少し歩いて、ネクラソワ通りを西へ行き、ソフィイフスカ通りを北東へ10分ほど歩いて美術館に着いた。ブラウンの壁の荘重な建物で、入口の前にはお定まりの白い円柱が6本立ち並んでいる。19世紀に建てられたポトツキ宮殿を使っているらしい。

 中を見ない代わりに、一応どんな絵をコレクションしているのか確認すると、イヴァン・アイヴァゾフスキーの作品を多数と、ワシリー・カンディンスキーの初期の作品ということになっている。残念ながら、二人とも知らない画家だ。

 カンディンスキーには『オデッサ港』という代表作があり、サムネイルがリーフレットに載っている。帆船が描かれているが、俺が見た港の風景とは全く違っていて、参考にもならない。

 その他に列挙されている画家の名前はほとんどロシア系――"v"で終わっている名前が半分以上ある――で、いずれも知らない名前だ。だからやはり、中を見ないでおく。

 美術館の左手からジュヴァネツコホ通りへ入る。これを南東の方へ歩いていくと、町の中の見所をいくつか見ることができる。

 まず、オレクサンドル・ヌデリマン記念碑。オデッサ生まれのソヴィエト連邦の――当時、ウクライナは連邦の一員だった――工学者で、兵器デザイナー。デザインしたのは主に大砲。胸像の胸には勲章がたくさんぶら下がっている。

 次に現れるのはオレンジの記念碑。色じゃない、果物のオレンジだ。上に建物が載っていて、4分の1が切り取られてそこに人が立っていて、馬車に引っ張られている。

 何を記念したのかよく判らないのだが、リーフレットによると、1796年、オデッサ港の建設費25万ルーブルの貸し出しを皇帝パヴェル1世に求めるために3000個のオレンジを贈り、貸し出しが認められたことによってオデッサの経済が復興したことを記念したもの、ということだ。

 オレンジを贈ることを提案した人物でなく、オレンジを記念碑にするところが変わってるな。2004年にできたということは、この仮想世界の中でつい3年前、ということになる。

 続いて見えてくるのがブジョゾフスキー宮殿。通称“シャーの宮殿”。19世紀に建てられたネオゴシック様式。ブジョゾフスキー家が住んでいたが、後にペルシアのシャーであるムハンマド・アリに貸し出されたことからシャーの宮殿と呼ばれる。

 ソヴィエト連邦時代には政府機関の建物として使用されていた。連邦解体後の20世紀末には荒廃していたが、2000年から04年にかけて修復された。これも、つい3年前ということになる。

 そして観光案内所のあったゴーゴリャ通りと交差して、その先にあるのが“恋のハートザコハネ・セルツェ”。ハート型をした鳥カゴのような立体オブジェに、数え切れないほどの南京錠がぶら下がっている。いわゆる“愛の南京錠ラヴ・パドロックス”だ。

 元々は、南京錠に恋人たちの名前またはイニシャルを書き込んで橋の欄干にぶら下げ、鍵を川へ投げ捨てる、というものだったはずだ。そうすれば錠は二度と開けることができなくなり、“壊れない愛アンブレイカブル・ラヴ”の象徴となる。

 で、どうしてこんなオブジェがこんなところにあるかというと、この先に橋が架かっていて、そこの欄干に愛の南京錠ラヴ・パドロックスを掛けることが流行したのだが、それでは橋の補修に差し支える――つまり欄干が錆びてしまう――ので、という顛末だ。

 しかし、俺はこういうのを見るとどうしても片っ端から開けてみたくなる。恋人たちの邪魔をするつもりはないが、変わった形の錠を見れば開けたくなるのがさがだからだ。

 現に、ぶら下がっている鍵はどれも形が違っていて、おそらくは簡単なピンタンブラー式ばかりだろうが、時間の許す限り開け続けてみたいと夢想してしまう。

 もっとも、俺が開けなくても、オブジェに錠を掛けるスペースがなくなってしまえば、オブジェを設置した当局が、古い錠のツルシャックルをスチール・カッターで切断して撤去してしまうに違いない。

 可哀想な錠たちだ。恋人たちは撤去されたことなんて気付きもしないだろうから。

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