ステージ#13:第1日

#13:第1日 (1) 海の癒やし

  第1日


【By ピアニスト】

 モーレを眺めると、心が癒やされる。

 私の心には癒やしが必要だった。私はまたコンクールコンクルスで入選できなかった。だから私はこの景色が見たくなった。

 私は『熱情』を弾いた。しかし、審査員は、心の中に熱情が足りないと評した。弾き方ではない。私の心に。

 弾き方には私の心が表れる。それは解っている。私は『熱情』を理解しているつもりだった。

 けれど、私の気持ちがそれには及ばなかったのだろう。私の心は“熱情”を理解していなかった。私は“熱情”を知らなかった。

 熱情とは、燃え上がるような激しい感情のこと。熱心に思うこと。情熱。血がたぎるほどに、物事に思いを寄せること。それは愛に近いだろう。

 私はピアノを愛している。ピアノ曲を愛している。誰にも負けないほど強く愛している。そう思っていた。けれど、それは足りなかった。入選者に比べて、はっきりと判るほどに。

 つまり、私はまだ知らないのだろう。本当の熱情を。本当に愛するとはどんな気持ちかを。父を愛し、母を愛し、姉を愛し、祖父母を愛し、国を愛し、故郷を愛し……そう、それだけではないことを、私は解っていた。

 それらは元々、私が初めから手にしていたものなのだ。たとえ奪われたとしても、私はそれらを愛し続けることができる。愛し続ける自信がある。奪われたとしたら、その苦しみは大きいに違いない。何日も泣き続けるかもしれない。けれど、私はその悲しみに耐えて、愛し続けるだろう。

 それ以上に私が愛するものがあるだろうか。愛よりも激しく私の気持ちをたぎらせるものがあるのだろうか。あるのに違いない。そして私はまだそれを知らないのに違いない。私はそれに巡り会えるのだろうか。もしその間を引き裂かれたならば、命を落とすよりもつらい思いをしなければならないものに……

 この階段を上り下りする人々は、そのような熱情があることを知っているだろうか。熱情を持っている人はいるだろうか。

 娘の手を引く母親、手をつなぐ恋人たち、抱き合う恋人たち、こちらへカメラを構える男性、階段の脇に座る女性、犬と散歩をする男性、階段を走って上り下りする女性、父に手を振る少年、少女が落とした帽子を拾って渡してあげる男性……

 あれは……あれは、誰だろう。私の知らない人。いいえ、私は知っている。知っている気がする。どこで会ったのだろう。憶えていない。思い出せない。それなのに、私は知っている。この感情は何だろう?

 私は恐れている。この感情を恐れている。私の心の中にある、私の知らない感情。私はそれを見出すべきだろうか。見知らぬ扉を開くべきだろうか。未知の世界へ踏み出すべきだろうか。

 けれど、私は恐れる。この感情を知ることを、恐れる……



【By 主人公】

 目を閉じていても、潮風の香りは判る。また海の近くへ来た。もちろん、山よりも海の方が好きだ。山へ行くのは5回に1回くらいでいい。

 目を開けると、どうやら海に突き出した埠頭の上に立っているようだ。今回は山を下りずに済んだ。太陽があるのは右手の少し後方。今は12時1分。つまり俺は北東を向いて立っているというわけだ。

 目の前にはヨットをもやった突堤、少し先に防波堤、そして彼方の水平線に陸が見える。

 振り返るとコンテナ・クレーンに貨物船に客船。そして15階建てくらいのガラス張りの建物。近くには看板が立っていて……ありゃりゃ、読めるような、読めないような。キリル文字だな。"ОДЕСА"。

 "Д"は思い出せないが、"С"は"S"のことだったはずだ。結局読めない。まあ、そのうち判るだろう。

 で、要するにここはロシアなのか? ロシアで北向きの海岸というと北極に近いところしか思い浮かばない。しかし、そんな場所は夏でもこんなに暖かくないだろう。華氏70度はあるぞ。

 それに太陽の位置も高い。アマルフィとまでは言わないが、それに近い緯度のようだ。そんなところ、ロシアにあったかなあ。

 まあ、そのうちに判る。まずは周囲の探索から。先ほどは気付かなかったが――左側に振り向いたせいだ――右手に教会のような建物がある。俺から見えているのはその屋根。つまり、俺は突堤上の建物の屋上にいるということだ。

 屋上を少し歩き回る。碇がいくつも置いてある。これは単に置いてるんじゃなくて、展示しているつもりだろうか。ついでに大砲も一門ある。

 柵の際に、女が子供を抱きかかえた像が立っている。子供の足はなんと柵の上に乗っている。二人して海の方を見ているから、船を見送るか出迎えるかしているところだろう。女は少し下腹が出ているので、中に二人目がいるのかもしれない。

 ガラス張りの建物へ行ってみる。"Hotel Odessa"と書いてある。キリルじゃなくて、普通のアルファベットだよ。ようやく読めたな。つまりここはオデッサだ。

 オデッサ。オデッサ。さて、聞いたことがあるんだが、どこにあるんだったかな。まあ、いい。探索を続けよう。

 その前に、ここに泊まれるか確認してみる? いや、どうせあのカードを使えばどこだって思いのままだ。それなら、もっと町の中心に近いところがいいだろう。

 ホテルの裏側へ行く。別の建物があったが、今度は表示がキリルだった。また読めなくなる。

 その建物をすっ飛ばして、どんどん歩く。陸地が見えてくる。正面に見えるのは階段か? これはまた大きな階段だ。

 んん、オデッサ、階段? 聞いたことがあるような気がする。そうだ、確か、映画の。いや、やっぱり思い出せない。でも、とにかくオデッサ階段だよ。今はそれでいいことにしよう。

 その階段をたくさんの人が上り下りしている。観光名所になってるわけだ。そりゃ、俺でも知ってるくらいだからな。

 今いる建物から下へ降りずに、陸橋で道路と線路を越えてその階段のところまで行けるようになっている。そこへ行ってみよう。

 ところで、下の建物は何だったんだろう。まあ、どうせフェリー・ターミナルの旅客施設か、港湾局の事務所に違いない。気にすることはない。

 階段の横にケーブル・カーがある。そもそも、大階段があるということは、港からすぐ台地になっていて、その上に市街地があるのに違いない。ケーブル・カーはその台地の上と下を結ぶ交通手段……であるはずだが、周りを見ても他に建物はない。

 してみると、これは観光用のケーブル・カーではないかという気がする。前回のナポリにあったのとは違って、ヴェスヴィオ山の今はなきフニクリ・フニクラが近いのはないか。

 まあ、そんなことはどうでもいいとして、ケーブル・カーを利用する気はないが、どんな物かを覗きに行く。

 ついでに財布の中も覗く。例によってたくさん紙幣が詰まっているのだが、数字は読めても単位が読めない。単位を表す単語がどれかも判らん。仕方ない。そのうち判るだろう。

 ケーブル・カーは縦型のガラス張りの箱だった。やっぱり観光用だ。しかも“単線で途中に行き違い部分がある”のではなく、複線で二つの“箱”が別々に動いている。ケーブル・カーではなく、斜行エレヴェーターというべきじゃないかと思う。

 階段を登ってみる。立ち止まったりカメラを構えたりしているのは観光客だろう。男女が手をつないだり肩を組んだりしながら歩いている。そういうのはやめた方がいい。片方がつまづくともう一人も一緒に転げ落ちる危険性がある。別に、ひがんでいるわけではない。

 二人組のうち、女は美人だが、男はハンサムではない。というか、やけに美人が多いな。少女から中年婦人までほとんど美人。そうでないのは観光客。いや、それは失礼か。

 女が階段を走っている。急いでいるわけじゃなさそうなので、たぶんトレーニングだろう。身体つきもアスリートだし。いいな、俺もやるかあ。

 おっと、帽子が転がってきた。女物。上から少女が降りてきて……すごい美少女だなあ。君、もしかしてキー・パーソン?

ありがとうヂャークユ!」

 笑顔が可愛い。しかし、「どういたしまして」という俺の言葉を聞くまでもなく振り返って階段を駆け上っていった。そこにいるのは母親? これもすごい美人。にっこりと微笑みかけてきたが、横に四角ばったごつい顔の男が付いている。どうしてこんなに非対称なんだ。

 階段は、20段ほど上ると広い踊り場になっていて、それを10回繰り返すと一番上に着く。振り返ると、さっきいた埠頭が見えるし、ガラス張りのホテルも見える。が、周りにはコンテナ・クレーンが林立していて、あまり風情のない眺めだ。

 で、目の前に見えてるのって、海なのか? もしかして、黒海かカスピ海じゃないのか。それなら緯度の問題は片付くが、ロシアだったかなあ。まあ、もうしばらく置いておくか。

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