#12:第7日 (14) 灰色の霧

 数年前、現実世界の中で、初めてアマルフィ海岸を訪れたときは、楽園のように美しいところだと思った。仮想世界になっても、その美しさは変わらない。

 しかし、今見ている景色は、私の心には響かなかった。仮想世界の再現性のせいではなく、私の心のせいだろう。

 心を無にして見ていれば、初めての時の感動が再び呼び起こされたかもしれない。そうならないのは私の心が乱れているため。私の心は彼に乱された。彼の目の効果が、少し及んでいるのだろう。

 チェターラ、マイオーリ、ミノーリと、泊まる港ごとに、客が入れ替わった。どこでも降りる気にはならなかった。船に乗って、海から陸の景色を見続けていれば、心が晴れるかもしれないと、潜在意識が訴えかけていたからだろう。

 1時間が経過して、アマルフィに着いた。ポジターノへ行くには、ここで船を乗り換えることになっている。

 降りる客が、隣の船に乗り移るのと、町の方へ行くのとで、二つに分かれている。最後に降りようと思っていたのに、不意に誰かに名前を呼ばれた。船長だった。

「シニョリーナ・マルーシャ・チュライ? 私の船にご乗船いただいて、大変ありがとうございます! 先ほど、メッセージを受け取りました。どうぞご覧になって下さい。ポジターノへ行くなら隣の船へ、お早くお乗り換え下さい」

 礼を言って、メッセージの上書きを見る。知らない筆跡で、しかもフランス語だった。"Chere Mlle. Marusia Churai"。"Marusia"の綴りを知っているから、書いたのは彼ではない。


 "En attente a Piazza Flavio Gioia."(フラヴィオ・ジョイア広場にて待つ)


 行くべきなのかどうか、判断がつかない。彼が仕組んだことであって、クリシュナンの罠ではないだろう。

 このステージでフランス語を話すことが判っているのは、アルマン・ラフィー、マドモワゼル・ブランシュ、そしてがナポリでデートした3人の女性。

 手紙の筆跡は男。しかし、アルマン・ラフィーであるかというと、どうか。

 この筆跡には、遊び心というか、余裕が感じられる。芸術的感覚のような。アルマン・ラフィーの筆跡を見たことはないが、性格としてはおとなしくて実直で、この筆跡に該当しない。

 いずれにしろ、ここで船を下りなくてはならない。心がはっきり定まらないまま、ポジターノ行きの船を見送った。この手紙の主に、会いに行くしかない。

 フラヴィオ・ジョイア広場は港から徒歩2分もかからない。私のスタート地点にも近い。

 車待ちの雑踏の中を歩いていると、たくさんの男が声をかけてくる。これも最初の状況に近い。

 すぐそこに、ゲートである“海の門”が見えている。そこまで、50メートルほど。そちらの方に足が向きかけたが、不意に、白いパナマ帽にサングラスの男が、前に立ちふさがった。

 背の高さが私と同じくらい。口元に曖昧な笑みを浮かべていた。アジア人、いや、日本人だろう。

「失礼だが、マドモワゼル・マルーシャ・チュライだね?」

 フランス語で話しかけてきた。瞬間的に、男が私と同類であることを感じ取った。だが、なぜ?

ええウィ・ムッシュー

「僕の友人から、君にこれを渡すように頼まれた」

 優雅な手つきで差し出したのは、船のチケットだった。アマルフィ発、サレルノ行き、4時15分発。

「あなた、名前は?」

「名乗る必要はない、と彼が言っていた。僕もそう思うよ。ただの使い走りだからね」

競争者コンキュランね」

「休暇中なのに、どうしてこんなことに駆り出されなきゃならないんだろうな。彼は人使いが荒いよ。しかも、フットボールの話も聞かせてくれなかった。君、後で彼と会うなら、次は約束を果たせと言っておいてくれ。スタジアムへ連れて行って、ゲームの解説をしろって」

 そのわりには、楽しそうに話す。彼と、他のステージで何度か会ったことがあるのだろうか。

「彼と最後に連絡を取ったのはいつ?」

「一昨日、ナポリだ。僕が最終日に、サレルノへ船で行ってからナポリの空港へ向かうと言ったら、その船のチケットをもう一枚用意して、君に渡すように頼まれた。理由は聞いていない。君の容姿を尋ねたら、詳しく説明しなくても目立つから一目で判ると言っていた。確かにそのとおりだったな。さて、これから船の出発まで2時間あまり、どう過ごそうとご自由に。それでは、さようならオ・ルヴォワール

 帽子に手をかけただけで取らず、去って行った。後ろに立っていた男が声をかけてきたが、無視した。

 彼の意図が本当に解らなくなった。ここで2時間、私に何をさせようとしたのだろう。それとも、教授たちか、クリシュナンの手がかりがここにあるのだろうか。そうだとすると、なぜ彼はそれを知っていたのだろうか。それとも……

 それとも私は、もはや何の意味のないものを追いかけているのだろうか?


 聖堂を見て1時間を過ごし、アンドレア・パンサで残りの1時間を過ごした。ここでは、他に行くべきところがあるはずもない。クリシュナンもフォンテインもいなかった。

 サレルノ行きの船には、私にチケットを渡した男も乗っていたが、離れた席に座って、一度も話さなかった。

 帰りは、ほとんど何も考えられなかった。目に映る景色を、ただぼんやりと眺めていただけ。その美しさに対する感想すら心に浮かばなかった。

 サレルノには4時50分に着いた。私はどうしてここへ戻ってきてしまったのだろう。あと7時間でターゲットを入手できなければ、またアマルフィへ戻るしかない。アマルフィへの最終便は6時。もっとも、バスの最終は9時半で、夕食を摂るくらいの時間はある。

 この後、どこへ行けばいいのかも思い付かない。ターゲットにせよ、彼にせよ、たどる手がかりがない。

 いや、まだあった。彼はプラザ・ホテルに電話して――正確には、アメリア・ローゼンガッターが電話して――、12時までに荷物を取りに戻る、と告げた。その時刻は、既に過ぎた。

 彼が現れなければ、荷物は引き取り手を失う。せめて、ロジスティクス・センターへ配送する手続きくらいは、しておいた方がいいだろう。それでも結局、彼の荷物が失われることに変わりないけれど。

 ホテルへ急ぎ、ロビーに入ると、シニョリーナ・ベアトリーチェ・ジャコメッリが、今度は満面の笑みで駆け寄ってきた。本当に、彼女はどうしていつもいるのか、どうして私にこれほど微笑みかけてくれるのか、私の理解を遥かに超えている。

「シニョリーナ・チュライ! 何度もご足労いただいて、本当にありがとうございます。シニョール・ナイトにお会いになりたいのですね?」

 その時、私は、自分がどんな表情をしたのか、判らなかった。彼女に対してどう接していいのかが判らなかったわけではない。自分が、彼に試されたことを、はっきりと悟ったからだった。

 シニョリーナ・ジャコメッリが、手で私の後ろを指した。振り返ると、が立っていた。昨日の夜に、ソレントのホテルで別れたときの姿の、ほとんどそのままで。違いは、左腕を首から白布で吊っていることだけ……


「やはり、あまり驚いてないみたいだな。別に、目の前に灰色の霧が渦巻いて失神する、ってのまでは期待していなかったが」


 いいえ、それに近い状態までは、なりかけた。現に彼の言葉は、エコーがかかっていて聞こえにくい。頭の中の血流が悪くなっている。できれば、その場に膝を突きたいくらいに、気分が悪かった。

「あちらにお座りになっては、いかがかと……」

 シニョリーナ・ジャコメッリの心遣いが、ありがたかった。私の顔が青ざめていたのかもしれない。

 足下がふらつきそうになるのをこらえながら、ロビーのソファーまで歩き、座った。彼が私の前に座る。私は背筋を伸ばして、彼を見つめた。どうして私は、こんなに強がっているのだろう?

「まだ終わってないから、という理由で話すのを拒否したら、どう思う?」

「いいえ、構わない……あなたには、その権利がある」

 きっと私の声は震えていただろう。ようやく、彼の言った「目の前に灰色の霧が……」の出典が解った。コナン・ドイルの『空き家の冒険』の一節だった。

「まあ、それは冗談として、君がまだ俺のことを共同作業者だと思ってるのなら話すよ」

「でも、あなたが撃たれるきっかけを作ったのは、私だった。あなたが海に落ちたのに気付いたときだって、すぐに飛び込んで探すべきだったのに」

「撃たれたのは俺のミスだな。あそこはスクランブルするべきじゃなかった。そうすれば撃たれることも海に落ちることもなかった……というのは成り行きで、実際は、海に落ちるのは予定どおりだった。怪我がひどくなかったのは、運がよかった」

 予定、と彼は言った。つまり、彼はどこかの時点から、独自の計画を立てていたことになる。だが、海に落ちることのメリットとは?

「ああ、そうだ、荷物をロジスティクス・センターに送る手配をしないと。君の、どこかのホテルに置いている荷物は、どうするんだ?」

「手配はもう終わってるわ」

 部屋に置いてある荷物は、全てロジスティクス・センターに送ることになっている。しかし、彼が荷物のことを言い出したのは、私をはぐらかすためだろう。話を小出しにして、私の興味を引こうとしている!

 シニョリーナ・ジャコメッリのところへ行く彼の後ろ姿を、私はぼんやりと見つめていた。まだ、目の焦点がうまく定まらない……

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