#12:第5日 (11) 練習は裏切らない

 10時過ぎに、彼から電話があった。プラザ・ホテルから架けてきたのだろう。電話をするならこの番号へ、というメッセージを伝えておいたから。

 もちろん、電話してこなければ、彼はこの別荘へ戻ってくることができない。ソレントの中心街から、ここまでの道順を憶えていないだろうから。

 それとも、彼は本当は憶えてしまっているかもしれない。憶えていないふりをして、私を惑わそうとしているだけかもしれない。彼は地図を見るのがとても好きだから。

 ヘル・マクシミリアンに許可をもらい、車を出した。白のランボルギーニ。ソレントの、以前と同じ駐車場で待つ。

 11時に、彼が来た。出て行ったときと、服装が替わっている。サレルノのホテルで着替えてきたのだろう。助手席のドアを開けて入ってきた。

「やあ、待たせた。迎えに来てくれてありがとう」

 彼はなぜ私に礼を言うのだろう。ヘル・マクシミリアンに言うべき。私は単なる運転手。セニョリータ・ゴディアでもいいはず。

 しかし、ヘル・マクシミリアンは私に行けと言った。私と彼の関係を、調べようとしているのだろう。この車内での、彼との会話は録音される。でも、私が後で消す。それが疑いを招く。

 できれば今日くらいは、余計なことをしゃべらず、残しておければいいけれど。

「さて、これをいつ食べるかだが」

 彼はケーキの箱を持っていた。レモンの香りがするのは、彼が入ってきたときから気付いていた。おそらく、デリツィア・アル・リモーネ。きっと、サレルノのホテルで買ってきたのだろう。私が昨日食べたから。

別荘ヴィラに帰ってからにするわ」

「君の好きにすればいい。ところで、今、別荘ヴィラと言ったが、俺はその言葉を教えてもらってなかったことに気付いた。他に、俺が知らなそうな用語があったら教えて欲しい」

 それくらいなら、問題ないだろう。車をスタートさせ、駐車場から出た。タッソ広場から、西へ向かう。

「車が3台あって、それぞれ色で呼び分けているわ。これは“ビアンコ”。以前、アルビナ・ゴディアが運転して、サレルノへあなたを迎えに行ったフェラーリが“ロッソ”。それから、主にアントニー・ダリーが使っているルノーが“ヴェルデ”。あなたは見たことがないと思うけれど」

「そういえば、昨日“別荘”へ戻ったときには、その車は見かけなかった。どこか別のところに置いてあるのか」

「ええ。でも、たぶん、今夜見られるわ」

「どうして」

「ダイヴィングの訓練へ行くときに使うから」

「ダイヴィングに行くのは、俺とアルビナとマクシミリアン氏だけじゃないのか」

「いいえ、全員で行く。夜だから、あなたたちの安全確保のため」

「つまり今夜は4人乗りの“赤”と、二人乗りの“緑”の出番という訳か」

「どうして“緑”が二人乗りだと思うの?」

「全部で8人に、車が3台。4人乗りは1台でいいはずだからさ。こんな推理が当たっても、褒められたくないがね」

 でも、それは後で重要になる。彼は気付いているだろうか。彼はアントニー・ダリーやアメリア・ローゼンガッターのことをよく知らないから、まだ気付いていないかもしれない。

「そうか、やっと気付いた。車の3色はイタリア国旗と同じなんだな」

「ええ、それに揃えたらしいわ」

「しかし、ルノーだけがフランス車だ。どうしてイタリア車にしなかったんだろう」

「それは聞いていない。おそらく、運転を担当する人の嗜好だと思う」

「運転するのはアルビナとダリー氏と……」

「ヘル・マクシミリアン」

「とはいえ、俺以外はみんな運転できるんだろう」

「いいえ、マドモワゼル・ブランシュは運転しないと思う」

「他には何か」

「屋敷の警備システムを“イソラ”と呼んでいること」

「ほう。なら、金庫のことは何と呼んでるんだ」

「特に何も。イタリア語そのままで“金庫カッサフォルテ”と呼んでいる」

「もっと気の利いた隠語ジャーゴンにして欲しかった」

「あなたは錠前師セッラトゥリエーレで、私は技師インジェニェーラ

「錠前師はいいとして、技師ってのは変だな。わざと解りにくくしてるんだろうか」

「それくらいかしら」

「解らない言葉が出て来たら、また訊くさ」

「そうして」

 それから“別荘”に着くまで、彼は無言だった。なぜ彼は、こんなにも私のことを信頼するのだろう。



 隠れ家改め別荘ヴィラに戻ると、金庫の前のソファーにアルビナが寝転がって、タブレットで何かをしていた。どこから持って来たのか知らないが、枕代わりに小さなクッションに頭を載せ、足はいつものように肘掛けの上。

「戻ってきたわね。ダイヴィングの練習に行くからすぐ準備して」

 俺を見て、跳ね起きながら言った。

「もう行くのか」

「別荘地だから、夜の遅すぎる時間だと目立つのよ」

「なるほど。それで、用意って何をするんだ」

ウェット・スーツムータに着替えて。真っ暗じゃ着替えられないから」

「俺のウェット・スーツはどこに?」

「テラスに干してあるから取って来て。あなたの分だけ残ってる」

 言われたとおりにウェット・スーツを取って来て、部屋に戻り、着替えてまた下へ降りてくると、マクシミリアン氏がいた。もちろん、ウェット・スーツに着替えている。アルビナも。

 その横にはアンナがいるが、彼女だけが着替えていない。

「じゃあ、出発ね」

「他の二人は?」

「先に行って準備中。時間は効率的に使わなきゃね」

 外へ出て、“ビアンコ”の後ろに乗り込むと、シートには透明なクロスが掛けられていた。帰りもウェット・スーツのまま乗るので、シートが濡れないようにとの配慮だろう。

 運転席にはアルビナ、助手席にマクシミリアン氏、俺の横にアンナが座り、真っ暗な山道を10分ほど走って、海岸の近くと思われるところに来た。海は見えず、潮の香りがするというだけだ。

 空き地に車を停め――すぐ横に“ヴェルデ”と思われるルノーがあったが、色はよく見えなかった――、砂利道を数分歩くと岩場に出た。波の音がして、遙か向こうの、水平線と思われる辺りに光の島がぽつんぽつんと浮いている。ナポリの灯りか。

 ライトで足下を照らしながら岩場を降りる。前方の地面で小さな赤い光がくるくると回っていて、そこへ行くとダリー氏とアメリアがいた。ダリー氏はウェット・スーツ、アメリアは普通の服だ。

「アントニー、準備はできているか」

「もちろん。あそこが崖の端で、下にはマーカーも置いて来た」

「よし、では、始めよう」

 いきなり崖から飛び降りるのかと思ったら、その横の岩場を降りて、もっと低いところから海に入った。まずは、夜の海に慣れてから、というわけだ。

 アルビナ、マクシミリアン氏だけでなく、ダリー氏も海に入る。そしてダリー氏が、この光に付いて来いと言って、水中ライトを見せた。

 その場で海に潜って、ライトがどう見えるか確認する。それからダリー氏が少し離れたところへ泳いでいき、アルビナ、マクシミリアン氏、俺の順番で、潜ってそのライトのところまで泳いでいく。

 案の定、俺が一番時間がかかる。「手で水を掻きなさい」とアルビナに指導される。こうやって、と実例付きで。泳げる女の教え方はいつも優しくて助かる。でも、いちいち俺の腕を取るのは、きっと筋肉を触りたいからだろうと思う。

 それから距離を少し伸ばして、何度か泳ぐ。10ヤードほどだが、エアー・タンクなしでの潜水だから結構きつい。やはり泳げないせいだ。「あなたのために、超小型のスクーターを用意した方がいいかしら」とアルビナに言われてしまった。

「エアー・タンクは小さいから、それを持ったまま屋敷に忍び込むよ。そっちの方が軽い」

「泳ぐスピードが問題なのに。まあ、いいわ。あなたが飛び込んだ場所に、あたしがスクーターを運んでいく手もあるし」

「ビー、あんまり甘やかすなって。おい、錠前師セッラトゥリエーレ、脱出だって時間制限があるんだ。まさかの時は自己責任だぞ」

 アルビナは優しいが、ダリー氏は冷たい。夜の海水の方が温かいくらいだ。しかし、本番では何とかなるだろう。ちゃんと練習さえしていれば。練習は裏切らない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る