#12:第4日 (10) 休憩させて
ケーキが全てなくなる前に、話しておきたいことがある。
「どうして昔の名前に戻ってるんだ?」
「少し、調べ物をしていたから。そういうときは、このステージで全く知られていない名前を使った方がいいと思っただけ」
マルーシャは食べてすぐ話すのに、口の中にケーキがない。噛まずに飲んでいるのだろうか。
「レストランから俺にメッセージを出すときに、その名前を使わなくてもいいだろうに」
「メモに残る可能性もあるから」
用心深い。
「で、その名前は本名なのか偽名なのか」
「後で言うわ。ここでは人目がありすぎる」
本名を教えてくれるのか。今まで教えてくれなかったのに。
「じゃあ、ここでは何の話をするんだ」
「明日、ナポリで何を見るか」
「君と行くんじゃないんだけど」
「もちろん。ただ、ぜひ調べてきて欲しいことがあって」
「ターゲットに関係ある?」
「ええ」
ガエタノ・フィランジエーリ通りとミッレ通り、それからできればマルティーリ広場に行って、その周辺の宝飾品店で、“有名な指輪のレプリカ”の展示が行われているかを見てくる……
「その指輪に嵌まってる石が“レモンの
「もしかしたら、あなたを誘ってきた女性が、それを見に行くのを目的にしているかもしれない。そうなら、あなたも余計な手間がかからなくて済むと思うけれど」
確かに。普通は男から宝石店へは誘わないよな。後で電話を架けようと思っているが、その時に探りを入れてみるか。
「他には?」
「特に何も。カポディモンテ美術館にもヒントがあるけれど、私が行ったから、あなたは行く必要がないと思うわ。誘われたら、行けばいいんじゃないかしら」
「後で詳しく聞かせてくれ」
「もちろん」
「ところで、君はナポリで観光したことがあるのか?」
「ええ、何度か」
もちろん、現実世界でのことだろう。
「その時点で、君と差を付けられてるよな。俺は、どこに何があるかを探すところから始まる。君は、それを最初から知っている。ターゲットとのつながりも“おぼろげながら”最初から気付いてるんだろう。今回だって、二日か三日分くらいの差が付いてる」
「そのために1週間という期限があって、ターゲットを得る機会は最後の方にしか設定されてない、ということだと思うわ。私はいつも、あなたとの差が縮まってくる脅威しか感じていない」
「それも後で検証しよう。ノルウェイの件で」
「ええ」
そして相変わらずマルーシャはデザートを食べるのが速い。パスティエーラは10分もしないうちに彼女の
「車は?」
「中庭。でも、まだ運転できない」
「どうして?」
「食事中にワインを飲んだから。1時間ほど、あなたの部屋で休憩させて」
いや、運転するのが判ってるんだから、飲むなって!
それにしては酔ってるようには全然見えないし、なのに俺の部屋で休憩ってどういうこと? 店は空いてたんだから、酔いが醒めるまであそこで粘ってりゃいいじゃないか。ただ、人目がないところで話すことがたくさんあるから、断れないんだけど。
エレヴェイターを待っていると、ベアトリーチェがまた驚きの目で見ていた。だから、彼女を泊めるつもりはないんだって、信じてくれ。
部屋に入るとマルーシャが「バス・ルームを借りる」と言う。
「まさか、シャワーを浴びるなんて言うんじゃないだろうな」
「シャワーは食事の前に浴びたわ」
どこで? まさか、ここで? あああ、どうして俺の見憶えのない鞄が置いてあるんだよ! 勝手に入ったのか?
この部屋のドア、電子錠なんだけど! 俺でも解錠できないんだけど!
じゃ、バス・ルームで何するんだよ。着替えるのか? クローゼットから服を取り出したから、そうなんだろうな。いや、この部屋、俺のなのに、クローゼットを勝手に使うなって!
バス・ルームに入ってしまった。そのドア、錠がかからないんだけど! もちろん、覗かないけどさ。はあ、疲れる。彼女といると、どっと疲れるわ。
5分ほどして、マルーシャがバス・ルームから出てきた。服装がカジュアルに替わっている。化粧も地味に替わっている。変わらないのは髪型だけだ。ソファーに座って、何かを読み始めた。
「ルーム・サーヴィスを頼んでいい?」
いや、まだ喰うのかよ! なぜさっきのレストランで、腹いっぱいにしといてくれなかったんだ。
「ここは俺の部屋だから、俺が注文するよ。何を頼むんだ?」
「デリツィア・アル・リモーネとカプチーノ」
「デリツィア
「一つ」
「それで足りるのか?」
「おいしかったら後で追加するかもしれないけれど」
おいしかったら1ダースでも喰うってのか。まあ、そうなんだろうな。
ルーム・サーヴィスに電話を架けて、デリツィア
「まず、君の本名からだな」
「ハンナ・イヴァンチェンコ」
ノルウェイで使っていたのが本名か。
「マルーシャ・チュライというのは?」
「オペラ歌手としての
「アンナ・ジェレズニャクは」
「
そういうことができるのはCIAとかの
今頃思い出したが、俺が最初に彼女に付けた偽名がアンナだった。
「夕食前に何を調べてたって?」
「他の二人の
「どこで顔を見たことがあるんだ」
「アマルフィの大聖堂の前」
「初日か」
「ええ」
やはりあの辺りにみんな集まっていたようだな。他の奴らはどこからスタートしたんだろうか。もしかしたら、俺一人だけがあの行きにくい場所だったのかもなあ。
「そいつは女?」
「ええ」
「俺は名前を知ってるけど」
ドアにノックがあった。ルーム・サーヴィスだろう。俺の部屋だから、俺が応対しなければならない。
ウェイターが去るのを待たず、マルーシャがケーキにフォークを入れる。欠片を口に入れる前に、俺に訊く。
「何という名前?」
「レベッカ・フォンテイン。職業は宝石商だそうだ。知ってる名前?」
「いいえ」
レベッカの顔つきをマルーシャに説明する。赤毛は説明しやすい。彼女の記憶と一致した。
「で、居場所をくらました奴の名前は?」
「クリシュナン・シュリニヴァーサ。インド工科大学ハイデラバード校情報工学科教授」
また教授の肩書きを持つ奴が出てきたか。前回の数学者といい、俺より頭の良さそうなのばかりだ。どうしてそれがみんな犯罪者なんだろう。
「別のステージで会ったことがあるんだな」
「ええ」
その時はどっちが勝ったのかな。勝つにしろ負けるにしろ、どうせマルーシャはそいつをひどい目に遭わせて恨まれてるんだろうから、訊かない方がいいか。
あっという間にケーキを食べ終わった。俺の方をじっと見ている……ということは、追加注文しろということだよな。
「いくつ?」
「二つ」
ずいぶん遠慮するんだな。またルーム・サーヴィスに電話すると、さっきのが最後の一つだったと言われてしまった。マルーシャにその旨伝える。
「代わりに別のを頼む?」
「いいえ、要らないわ」
電話を切って、またマルーシャの方に向き直る。
「で、その二人を調べてたのは、そいつらが組んでいるかとか、どういう作戦を立てているかとかを知るため?」
「ええ」
「俺もそれを君と一緒に考えたいが、まず、俺自身が作戦の全容を知らなきゃあな」
「私も全容を知らないわ。決行は6月30日未明だけれど、それでは遅すぎるかもしれない」
「先を越される可能性が高いと?」
「ええ」
「あるいは、俺たちが盗んだのを横取りする作戦かもよ」
「そうね、彼は様々な作戦を立てるし、読みにくいから、それも考えないと」
“彼”に対してどういう情報を保持してるのか聞いてみたいものだが、それは後でいいとして。
「カポディモンテ美術館にはどんなヒントが?」
「“レモンの
オークションのカタログをもらったらしい。ということは、その宝石を現在持っている奴の屋敷から盗み出すということだ。オークション会場へ運ぶ間が一番狙いやすいと思うけどなあ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます