#12:第4日 (9) 食事とデザート

 ホテルのロビーに入ると、ベアトリーチェが俺の顔を見て飛んできた。

「こんばんは、シニョール・ナイト。昨夜はお部屋にお戻りにならなかったようですが」

「ああ、他のところに泊まったんだ。連絡しなければいけなかったか?」

「いえ、そういうわけではないのですが、宿泊のお客様が夜にお部屋をご利用にならなかったら、次の日にお声がけするという決まりがございますので」

 何だ、その決まりは。事故に遭うとか誘拐されるとかを心配してくれてるのかな。

「じゃあ、次から夜に部屋を開けるときは、君か別のスタッフに声をかけてから出ることにしよう」

「ありがとうございます! ただ、その場合でも翌日にはこちらからお声がけしますので、ご承知おき下さい」

 それではベアトリーチェに声をかける意味がないが、気にしないことにしよう。

 部屋に戻ってシャワーを浴び、着替えてから降りてくると、マルーシャの車は既になかった。ギンザーニへ向かう。

 店に入ると、クラウディアはまだ来ていなかったが、厨房に乗り込む。ウェイトレスは心得ているのか、邪魔をしない。シェフ姿が麗しい女に、後ろから声をかける。

「やあ、デメトリア、今夜も君の料理を食べに来たよ」

「今、忙しいの、入って来ないで!」

 振り向いて怖い顔をしているが、本気で怒っているようには見えない。むしろ、照れ隠しかな。こういうのを表すいい日本語があったんだけど、さて何だったか。

「俺に怒ってもいいけど、食材や調理器具に罪はないから、優しくしてやってくれ。それじゃ、テーブルで君が作ってくれる料理を待ってるよ」

 これで、注文しなくても料理が勝手に出てくるだろうと思う。テーブルに着いてしばらく待っていると、最初の皿が運ばれてきたのと同時に、クラウディアがやって来た。「とてもおいしそうだとシェフに言ってくれ」とウェイトレスに伝え、クラウディアに「やあ」と挨拶する。

「こんばんは、アーティー。デメトリアにも挨拶しましたか」

「もちろん。ところで、今日は帰る前にデメトリアをデートに誘うことになっていたと思うが」

「そうですよ」

「明日は都合が悪くなった。明後日でもいいかな」

 明日はエロイーズを優先することにしたい。あちらの方がせっつかれている感じだし、デメトリアは逆にすぐに誘いを受けてくれそうに思えない。

「私が休みじゃないので、少し心配ですね。同僚に、休みを代わってくれるか訊いてみましょう」

 何が心配なのかはよく解らないが、クラウディアはすぐにモバイルフォンで誰かと話を始めた。その間に次の皿と、クラウディアのワインが来た。俺の飲み物が来ないのでウェイトレスに頼む。飲み物はどうやらデメトリアの扱うところではないらしい。当然か。

「代わってもらえました。相手には色々と貸しがあるのですよ」

「前に代わってやったのか」

「いいえ、色々と不正を見逃してあげているだけです。定員超過でお客さんを乗せたりとか、いい加減な航海日誌を提出しているとか、不倫をしているとか」

 最初の二つは仕事のことだが、残りの一つは全くの私事だな。しかし、他人の弱みを握っていることをさらりと言うなんて、マルーシャに通じるものがあるぞ。

「ところで、あなたに英語を教えてもらったおかげで、今日はお客さんから英語の発音を褒められましたよ。聞き取りやすいって」

 そりゃ、他のイタリア人に比べてっていう評価だろうな。しかし、本当に3日で矯正できたな。今までうまく発音できなかったのが不思議なくらいだが。

「良かったな。じゃあ、今日もやろうか」

「はい、やりましょう」

 発音が良くなってくると、今度は文法の間違いが気になってくるのだが、それを矯正するのは数日では不可能だろう。

 しばらく話をしていると、デメトリアがパスタの皿を持って来た。実に曖昧な表情で、どんな顔をすればいいのか判らないと思ってるんだろうな、という感じがする。それを立ち上がって迎え、皿を手で直接受け取る。

「やあ、デメトリア、アンティパストはとてもおいしかったよ。これは何て料理?」

マッシュルームとエビのタリアテッレタリアテッレ・コン・フンギ・シャンピニョン・エ・ガンベレッティ……」

「食べた感想は君に直接言いたいから、後でもう一度来てくれる?」

「え、あ……でも、いつ来たらいいのか……」

「この後、野菜料理が出るんじゃなかったっけ」

「あ、ええ、コントルノ……」

「じゃあ、その時に」

解ったヴァ・ベーネ……」

 どうして言いなりになってるんだろう、とでも言いたげな表情のまま、デメトリアは厨房へ戻って行った。俺もどうしてこんなことをしているのか、よく解らない。

「アーティー、あなたは慎重ですね」

 クラウディアがエビを横取りしながら言う。英語で言え。俺もエビをフォークで突き刺し、口に入れる。身に適度な張りがあって、噛むと弾けて口の中が旨味のスープでいっぱいになる。

「イタリアの男はどうして女を褒めるのがうまいんだろうな」

「子供の頃からずっと女性を褒めることを心がけているからですよ」

「料理も?」

「もちろんですよ」

 外見を褒めるだけかと思ってた。

「そのわりには、料理を褒めてもデメトリアは喜んでるように見えないなあ」

「それでも、何度でも褒めてあげて下さい。そのうち変わってきますから」

「しかし、それも火曜日までだぜ。いいのかな」

「いいですよ。彼女も解ってます。デートでいい思い出を作ってあげて下さい」

 本当にそれでいいのか。そりゃ、シナリオがそうなってるのなら、別に構わないんだけれども。

 しかし、デメトリアはもうあと一押し、何かが必要な気がするなあ。何だろう。デートの前に、彼女のことを調べることはできないだろうか。


 帰り際、デメトリアに「明日、デートを申し込む」と宣言し、困惑の極みに陥れてからプラザ・ホテルに戻ってきた。ロビーでマルーシャを探すが、いない。ベアトリーチェが駆け寄ってきた。ほんと、見張られてるな。

ご友人トゥオ・アミーカが、リストランテでお待ちです」

 俺が食事して戻ってくるの知ってるはずなのに、どうしてレストランで待ってるんだよ。ロビーで待ってると言ってたのは、彼女自身だろ。それとも、別の奴か。

「そいつの名前は?」

「あら、他にもご友人とお約束が? マルーシャ・チュライとおっしゃってました」

 ここではアンナ・ジェレズニャクだったはずなのに。どっちが偽名なのかなあ。なぜかベアトリーチェがリストランテまで先導してくれる。

「とても素敵な方ですね! 婚約者ですか?」

「いや、本当にただの友人だ」

 イタリアの女性は褒められるだけではなく、褒めるのもうまいらしい。俺もベアトリーチェを褒めた方がいいだろうか。

 店に着くとなぜか支配人が出てきて、恭しく挨拶した後で、ウェイターにテーブルまで案内させた。デザートだけを付き合うことになっているらしい。そんなイレギュラーなことをしてもいいのか。

 彼女はこの世界ではオペラ歌手の名声は使えないはずだし、何の権威でこんなわがままが通るんだろう。

 しかし、テーブルで待っていたのは、マルーシャじゃなくて……いや、やっぱり彼女か。髪型も違う、化粧も違う、おまけに服装も違うんで、別人かと思った。

 ここに来るときはもっと地味な感じだったのに、今はまたいつもの“周囲を圧する美”を振り撒いている。店の中で、このテーブルだけ光の当たり方が違うようにすら見える。

 そのドレス、どこに用意してたんだ。車のトランクの中? 俺の服装が、すごく見劣りするんだけど。

「今夜は何を喰うんだ」

「パスティエーラがおいしかったから、一緒に食べてもらいたくて」

居酒屋オステリアでデザートも喰ってきたんだけどな」

 リモンチェッロのグラニータ。レモンのリキュールで作ったシャーベットだ。甘すぎず、さっぱりした酸味がうまかった。ただし、デメトリアが作ったのではなかったので、彼女を褒めることができなかった。

「ほんの少しでいいわ」

 彼女はこうしてたびたび俺にデザートを喰わせようとするのだが、その目的が全く解らない。賄賂ではあり得ないし、食べながら重要な話をすることもない。一番多い話題は、他の競争者コンテスタンツのことかな。それだって、名前が出るくらいだ。

 直径8インチくらいのケーキが運ばれてきた。俺が来たのを見計らって出してきたものと思われる。彼女が注文するデザートはこうして丸ごと一個のことが多いので、今さら驚かない。

 表面にはチーズらしきもので網目模様が作られている。白い帽子をかぶった男――おそらくこのケーキを作った職人パティシエ――が、六つに切り分ける。大きいって。八つ切りでいいよ。

 それから一片ずつ、俺とマルーシャの前の皿に置く。飲み物はエスプレッソ。

 マルーシャが食べたのを見てから、ケーキを小さく切り取って、口に入れる。タルト生地の中に、麦を牛乳で煮たような物が詰めてあって、たぶん何かのチーズも混ぜてあって、オレンジとレモンとシナモンの香りがして……俺に解るのはこの程度だな。

 うまいかと言われればうまいが、感激のあまり立ち上がるようなものでもない。マルーシャも淡々と食べて……早いな、もう一切れ食べ終わってる。当然、次の一切れを皿に載せて、ああ、すごい速さでケーキがなくなっていくなあ、とただただ見守るばかりだ。

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