#12:第3日 (7) もう一人の錠前師

どうだったコメェ・アンダート?」

 アルビナの、あまり期待していなさそうな顔に向かって、アロイスは苦り切った声で答えた。

「体よく逃げられた」

 金庫破りの男には、ソレントに滞在している間に一度声をかけることにしていたが、常に誰かが彼の横にいるために――カプリ島でもそうだったのだが――、うまいタイミングを作ることができなかった。市民公園から港へ降りる階段のところでようやく呼び止めた。

 しかし、カプリへ行く船がもうすぐ出るというので仕方なく付いて行き、船の中で交渉をすることができた。

 色々と事情を聞きたがるので、ぎりぎりのところまで話をしたのだが、船がカプリへ着く直前に「全く興味が湧かない」とさらりと言い放ったのだった。

 アロイスは一人でソレントに戻ってきて――満員で危うく乗り逃しかけた――、港で出迎えたアルビナに渋い顔を作って見せざるを得なかった、という顛末だ。

「奴め、俺が尾行していることに、どうもかなり早くから気付いていたらしい。バスに乗ったりするのがいつもぎりぎりなんだ。俺が慌てて乗り込むのを、面白がっていたに違いない」

あらまあカスピタ! やっかいな奴だったのね。アンナの話じゃ、かなり頭が切れるみたいだったけど、性格が悪いのかしら」

「性格なんかどうでもいいんだ、金庫さえ開けられるのならな。車は?」

「こっちよ」

 アルビナが港の駐車場の方へ案内する。金庫破りのスカウトはうまくいかなかったが、准教授を連れて行かなかったせいというわけではない。彼女は、自身が直接交渉するのは却って相手を警戒させると言っていたのだ。

 それに、スカウトはアロイス自身の役目でもある。自分がスカウトできないのなら、統率もできない。もっとも相手は、指示を受けるのを好まないというタイプに見えたが……

「おい、あれは誰だ?」

 車に、見慣れぬ女が乗っているのを見て、アロイスはアルビナに訊いた。レモン色のつば広帽をかぶり、車の中だというのにサングラスをして本を読んでいる。それともあの車は、色と型が同じだけで、別人の物だろうか。

「あれ、アンナ」

「彼女だと?」

 まさか、という感じだった。

「黒い髪のウィッグをかぶって、化粧品で肌の色を少し変えてるだけだけど。変装もできるらしいわよ」

 車の真横に行って、アロイスは助手席の窓から覗き込んだ。女がサングラスを取ったが、まじまじと見て、ようやく准教授と同一人物であることに気付いた。化粧品で鼻や顔の形が変わるのか?

 もちろんそんなはずはなく、陰影の錯覚でそう見せているのだろう。胸は矯正下着で押さえつけているのだろうということくらいは解るが……しかし、アメリアよりも化けるのがうまいじゃないか。アロイスは感心したが、嘆息は押し殺した。

「あんた、本当にキエフ大学の准教授なのかね」

「他の肩書きは持ってないわ」

 准教授の澄まし顔の返事に、アロイスはため息をついた。現時点では彼女のことを信用するしかないが、もう一度経歴を洗わせないといけない、と考える。

 そして後席に乗った。アルビナが運転席に乗り込む。

「あなた、ずっと車にいた?」

「いいえ、上の公園に行って、少しだけ回廊キオストロを見ていたわ」

「また写真を撮られてたんじゃないでしょうね」

「そんなことしている人は、誰もいなかったと思うけれど」

「周りを観察するのも得意なのかしら」

「目立たない行動を取っていれば、注目を集めることもないわ」

 アロイスは後ろで聞いていて、そんなわけがあるか、と心の中で反論した。現に一昨日は、普通に歩いているだけで人目を集めていたではないか。それとも、あれは目立つように計算していたとでもいうのか。

 確かに、菓子を無闇に喰うという行動が注目を集めて、その流れで声をかけられていたとも言えるが。

「とにかく、今日は失敗だ。もう一度説得に行ってもいいが、難しそうだ。金庫破りが見つからない以上、アルマンに期待するしかないな」

「もう一人、心当たりが」

 准教授が呟くように言った。

「何?」

 アルビナが車をスタートさせる。電気自動車なので、エンジン音で会話が邪魔されることはない。むしろ、窓から入ってくる風の音の方がうるさいくらいだ。

「そいつはどういう経歴の人間だ? いくら腕がよくても、お偉いさんペッツォ・グロッソじゃあ扱いにくくて仕方がない。今日のようにすげなく断られるのが落ちだ」

「腕はいいけれど、肩書きは何も持っていないと思うわ」

「ほう、それで、そいつはどこにいるんだ? また居場所が判らんのじゃないだろうな」

「泊まっているホテルに、心当たりが。それに、私が交渉に行けば、素直に応じてくれるはず。ただ、セニョリータ・アルビナも一緒に来てもらえると助かるけれど」

「セニョリータは付けなくていいって言ってるのに」

「好きにしてくれればいいが、今から行くのか?」

「いいえ、夕食の後で」

「なぜだ」

「彼、今頃、船に乗ってると思うから」

「じゃあ、別荘に戻るわね。夕食楽しみー!」

 アルビナが食い物で釣られるとは、アロイスの思いもしないことだった。そんなにうまいのか。いや、うまいものに弱いのか。

 しかし、アルビナに嫌われるようでは一緒に仕事はできない。その点では准教授は及第点というところだ。アントニーは辟易していたようだが、我慢してくれるだろう。

 だが、アメリアはどうかな、とアロイスは考えた。彼女も好き嫌いが激しい。まだ一度しか顔を合わせていないが、そのうち別荘に戻ってこさせて反応を伺った方がいいだろう。どのタイミングにするかが、考えどころだ。



 サレルノへの帰り、景色を眺めながら、インド人の様子も観察する。彼はポジターノでもアマルフィでも降りなかった。船はもう途中でどこへも止まらない。つまり、サレルノまで乗るということだ。

 ずっと他の客と話をしている。それも女ばかりだ。正確には、中年の夫婦も何組か混じっていて、主に夫人の方に話しかけている。言っては何だが、彼はそうハンサムとは思わない。俺と比べてもそう変わらないレヴェルだろう。

 もちろん、比較自体が難しいし、意味ないことかもしれないが。ただ、学者のような風貌で、温厚で誠実で知性的に見える。俺よりも10は年上だろうが、年齢相応に落ち着いた雰囲気だ。言葉遣いも丁寧だし。

 従って、彼が女性に人気があるのを見ていても、別に不思議に思わないし、羨ましいとも思わない。もっとも、俺の方から話しかける気も起こらない。

 サレルノの風景が近付いてきた。定時に到着しそうだ。

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