#12:第3日 (3) 崖を巡る観光
さて、ここでは景色だけを見ずに、他の観光客も見ることにしていた。車で来られないことから敬遠されているのだろうが、人は少ない。若いペアや中年のペア、若い女二人組と、彼女たちと話をする中年の男。
この中年の男は白いスーツを着ていて、数少ない観光客の中でもひときわ異彩を放っている。顔を見ると南アジア系で、おそらくインド人ではないかと思う。
しかし、流暢なイタリア語を話している。自動翻訳で内容は解るが、ローマ史を語っているようだ。
女二人が熱心に聞き入っている。もちろん、ここへ見に来る人はローマ史に少しでも興味があるからであって、当然のことだろう。俺のように高いところが好きだというだけで来るのは少数派に違いない。
若いペアも一緒になって聞き始めた。俺から声をかける雰囲気にない。ここにばかり時間を取るわけにはいかないので、諦めて次のところへ行くことにする。
ヴィラ・ジョヴィスを出てすぐのところに、“ティベリウスの
次はアウグスト庭園。そこへ行くには、今来た道を4分の3ほど戻らなければならない。
下り坂なのでどんどん足が進む。こちらへ登ってくる連中とすれ違う。思わず声を掛けたくなる美人もいるが、それではガール・ハントと変わらないので、控えておくことにする。
ティベリオ通りからクローチェ通りに入り、複雑に入り組んだ通りをいくつも渡り歩いて、フェデリコ・セレナ通りと合流したら、その先がアウグスト庭園だ。
妙なところにチケット売り場があって、また細い道を歩いて階段を上がるとやっとそこが庭園の中心。しかし、さほど広くはなく、植物も多くはなく、来ている人の目当ては崖の上の展望台だろう。
先ほどのビラ・ジョヴィスの高さとは比べるべくもないが、島の南側の明るい海を眺め渡すことができる。そこに浮いている船の何と多いことか。ヨットの競技会でもやっているのかと思うくらいだ。
崖の右下を覗くと、蛇がのたうっているかのように曲がりくねった道が見える。クルップ通りといって、庭園から崖を下りて、マリーナ・ピッコラ――崖で死角になって見えないが、ビーチがある――へつながっているのだが、残念ながら落石の可能性があるため、だいぶ前から通行止めになっているらしい。もっとも、そこへ下りていく時間はない。
崖の上に目を転じると、そこにはホテルがあるはずなのだが、木々に隠されていて見えない。
庭園内を歩き回り、ナカムラ氏の姿を探したが、いないようだ。庭園を上から俯瞰できるところにいて、そこで描いているのかもしれない。もっとも、見かけたからといって声をかけるつもりもない。
しかし、ナカムラ氏の代わりに、先ほどヴィラ・ジョヴィスで見かけたインド人らしき男の姿があった。また観光客を相手に何か説明している。歴史だけでなく、庭園にも詳しいらしい。
それにしても、俺は大急ぎできたはずなのに、いつ追い付かれたのだろうか。
庭園を出てカプリの中心街へ戻り、ウンベルト1世広場の近くからバスに乗る。ほとんど待たずに乗れた。
西へ向かい、途中でスウィッチバックを2回繰り返して高度を稼ぐが、その2回目を過ぎたところで右下の崖を覗くと、フェニキアの階段がある。
港のあるマリーナ・グランデとアナカプリを結ぶ古代の階段道で、フェニキア人が作ったと思われていたことからその名がついたのだが、実際は紀元前7世紀から6世紀頃にギリシャから入植してきた人によって作られたらしい。
階段は道路の下をくぐり、今度は左側の崖を駈け上がっていって、見えなくなった。
バスはようやく崖を這い上がり、終点までは乗らず、手前のヴィットリア広場でバスを降りる。ソラーロ山へ登るチェアリフトがあるのだが、これがスキー場にあるような一人乗りのものだ。
バスを一番に降りて素早くダッシュしたので、待たずに乗ることができた。今日はとにかく待ち時間を減らすことがポイントで、そうすれば見たいところを全部見た上で、ソレントにも行けるだろう。
リフトのケーブルは様々に傾斜を変えながら、一直線に山の斜面を登っていく。俺の前に乗っている女が、嬉しそうに足をぶらぶらさせている。そのせいでケーブルが振動して、俺の椅子も揺れる。やめろと言いたいが、声は届かないに違いない。
ソラーロ山の山頂に着く。標高1932フィート。南側は崖なので、やはり見晴らしがいい。今日は崖っぷちばかり巡っている。
この後行く予定の青の洞窟も、崖を降りて舟に乗るらしいから、カプリ島の崖を制覇しに来たようなものだ。
それはそれとして、東の眼下にはカプリの町、その先にソレント半島、西を見るとアナカプリ、そして北西にはイスキア島。仮想世界の構成に、膨大な情報量を使っている。
たくさんの観光客がいるが、「ハロー」と声をかけても「ハイ!」としか返ってこない。写真を撮ってくれと言ってくる女もいない。少し虚しさを感じる。
理由の一つに腹が減っていることがあると思う。幸いにもレストランがあるので、入ることにする。何を注文しても高いが、俺の金ではないので気にしない。高いせいで客が少なくて、注文するとすぐに出てくるのがありがたいくらいだ。
パディーニャという、小麦粉の生地を薄く焼いたもので具を包んだもの食べた。イタリア風タコスといったところか。
レストランを出ると、不思議なことにまたあのインド人がいる。またも観光客と話をしていて、今度は地形と地質の講義だ。俺も聞きたいくらいだったが、やめておいて、もう山を下りることにする。
既に1時前で、これから青の洞窟を見に行くとソレント行きのフェリーには間に合わなさそうな気がするが、行けなくても構わないので気にしない。
リフトを降りると、ヴィットリア広場から少し南にあるバス・ターミナルへ歩く。青の洞窟行きのバスはここから出る。チケットを買って"GROTTA AZZURRA"と書かれたバスに乗ると、すぐさま出発した。俺にしては、ずいぶんと効率のいい乗り継ぎだ。
20分ほど揺られると終点で、崖を降りる階段の真ん前に停まる。先頭を切って階段を降りていくと、下に10人ほどいる。海には小舟がたくさん浮かんでいる。あれに乗って洞窟に入るのだろう。
上半身裸の男が上がってきて、何人かと訊く。一人だと答えると、俺の後ろに向かって3人組はいるかと呼びかける。小舟は4人乗りなので、一人だけ乗せるのは効率が悪すぎるからだろう。俺のすぐ後から降りてきた女たちが、まさに3人組だった。
一緒に乗ることになっていいかと男が訊くと、女たちは意味が解っていないようだったが――たぶん、イタリア語が理解できなかったからだと思う――、男が簡単な単語と手振りを駆使して説明すると、ようやく理解したようだった。
しかし、3人のうちの2人が難色を示している。3人だけで乗りたい気持ちは解る。俺はどうでもいい。他に一緒に乗ってくれる二人組か3人組がいればそれでOK。この男がどう捌くかだけだ。まさか、俺を後回しにしてこの3人を先に乗せるということはないだろう。
すると、3人のうちの残りの一人――金髪の前髪を伸ばしたショート・ヘアの美人――が他の2人に何か言っている。何を言ってるかは解らない。イタリア語でないので自動翻訳されないからだ。しかし、言葉の響きとしてはフランス語に聞こえる。それからそのショート・ヘアの美人が俺に向かって言った。
「写真、撮ってくれる?」
片言のイタリア語が、片言の英語に翻訳されて聞こえる。俺が「もちろん」と言うと、美人が男に向かって「4人で乗る」と告げた。その時にはもう既に俺の前には一人しかいなくて、しかもどうやらそれは客を捌く係であるようなので、すぐに舟に乗ることができそうだ。
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