#11:第7日 (9) 氷河とクレヴァス
稜伝いに15分ほど下ると、広い雪原に到達した。あるいは、雪に覆われたなだらかな斜面か。これが氷河だろうか。俺がイメージしているものとちょっと違う。
その斜面に、足跡によって作られた道がある。これを踏み外さずに進めば、氷河を横断できる……のかもしれない。
しかし、道ができているとはいえ、氷の上なのだから、滑って転びそうな気がする。
リュックサックを開け、金具類を取り出す。
靴に装着し、いざ氷河を歩き出す。ざくざくと音がするが、積雪は深くないし、足が沈み込むようなことはなかった。歩幅を小さくし、足裏全体で着地させる。少し進むのにもとても時間がかかる。
よく見ると、横に二条の滑り跡がついている。幅が広いから、スノー・モービルの跡だろう。俺も使わせて欲しいくらいだ。ところどころ、滑り跡が重なっているところがあるので、上りに通った跡を踏みつぶしながら下っていったに違いない。
空がますます暗くなってきて、風も強くなってきた。何ていやなシナリオだ。
10分ほど下ると、足跡がやけに乱れているところがあった。何かトラブルがあったらしい。よく見ると、“道”から右の方へ逸れていく足跡もある。それが一人分とは思えないほどたくさんあるが、何人分かは判らない。
スノー・モービルの跡は止まった様子もなく、逸れた足跡の方へ行くでもなく、元の“道”に沿って坂を下っているようだ。乗っていた奴は、歩いていた誰かがここで道を外れたのに気付かなかったのか。先に行った、ということかもしれない。
誰が道を踏み外したのかは判らないが、俺の想像では“黄金の林檎”を持っていた泥棒がいるはずなので、捕まっていたがここで逃げ出した、ということが考えられる。乱れた足跡は、そいつを護送していた連中のものだろう。もちろん、逃げた泥棒を追いかけていった奴もいるだろう。
あるいはマルーシャかエルラン教授がターゲットを奪って、ここから逃走したのかもしれない。そんなことを氷河の途中でやる意味があるのかどうかは判らないのだが、何か不測の事態が起こったのは間違いないだろう。
とにかく、ターゲットを持っている奴が道を踏み外したわけだ。もちろん、俺もそっちへ行ってみる。足跡がついている限りは、俺だって行けるはずだ。
足跡は、4人分か5人分か。“道”にはなっていなくて、歩幅も大きいから、ばらばらに走り出したということだろう。滑ったり転んだりした跡もある。
しばらく行くと、足跡が少なくなった。一人が、あきらめて引き返したのかもしれない。そこから先の足跡は、3人分か。一人が逃げて、二人が追いかけた? 足跡の追跡方法を研究していれば、もっとよく判ったかもしれないが、今さらだな。とにかく、もう少し追うことにする。
3人の足跡は延々と続いているが、ところどころに踏みとどまったような跡があるから、誰かが時々立ち止まっていたのだろう。まさかとは思うが、逃走者が銃で追っ手を威嚇して、立ち止まらせたりしてたのかねえ。まあ、俺は銃声は聞かなかったし、想像が過ぎるだけだろうけど。
さらに歩くと、足跡が大きく乱れたところに出くわした。そして、前方の雪原には段差。いや、段差じゃないな。穴だ。そうするとこれが本物のクレヴァス?
おそるおそる、近寄ってみる。といっても、ものすごく危険な気がするので、穴からは1ヤード以上離れたところまでにする。
クレヴァスは雪上の亀裂のことなのだが、亀裂と言うよりはまさしく穴で、横長の楕円を少し角張らせたような形をしていて、長さは5、6ヤード、幅は1ヤードほどだろうか。
裂け目自体はもっと長く続いていると思われるのだが、表面は雪で覆われて隠されているのだろう。そして、誰かがその雪の薄くなったところに乗ったせいで、穴が開いた……いやいやいや、まさか、本当に誰か落ちたのか?
足跡はというと、穴の手前にたくさん着いていて、穴の向こう側にもいくつか着いていて、誰かが向こうに飛び越したのは確実なようだ。向こう側の足跡が何人分かはよく判らない。
しかし、向こう側へ行くのはあまりにも危険だ。飛び越した奴は、よく行く気になったなと思う。まあ、逃げてるんだから、引き返すわけにはいかないのは解る。
「ヘーイ!」
どこからか、声がした。周りを見回す。広すぎて、どこからの声か解らない。が、前の方、100ヤードか、いやもっと向こうの方に、黒い人影が立っているのが見えた。
氷河に踏み込んでから、足下の方ばかり気にしていて、前や周りを見るのをすっかり忘れていた。不用心この上ないが、足下のクレヴァスを見逃す方がもっと危ないから仕方ない。
「ヘーイ!」
もう一度声がした。こちらも「ヘーイ!」と声を返す。
「
確かにそう聞こえた。なぜ俺の名前を知っているのか。なぜ俺であることが判るのか。
「
「
何と、エルラン教授!? こんな近くにいたのか。いつの間にか追い付いていたということか?
「
「クレヴァスに気を付けろ! それから、あの女を救うな!」
「どういうことだ?」
「彼女は危険な女だ! 必ず君を騙す! 絶対に信用するな!」
今さら言われなくても、何度も騙されてるって。我ながら、学習能力がないのかと思うほどな。
だが、解ってても彼女の不思議な強制力にはどうしても抗えないんだよ。彼女の言うことに従ってる方が、どういうわけか安心感があるんだ。そこが危険たる所以であることも解ってるんだが。
「気を付ける!」
「彼女はターゲットのためなら、人の命でも犠牲にする! そのことを忘れるな!」
かなり強い口調だった。怒っているのだろうと思う。
さすがにそこまでやっているのは見たことがない。しかし、見たことないからといって彼女はそんなことしないだろうとも言い切れない、というのは解る。俺はまだ、彼女の本性が解っていない……
「もう一度言う! 彼女を救うな! それがこの仮想世界のためになることだ!」
彼女を
黒い人影は手を上げて2、3度ゆっくりと手を振った後、振り返って氷河の中を歩いて行った。
ダメだ、頭が混乱しているせいか、目の焦点が合わなくなってきた。マルーシャがクレヴァスに落ちただと?
近付きかけたが、思い直してリュックサックを下ろし、四つん這いになってそろそろと進む。クレヴァスのことはよく知らないが、亀裂の縁に乗ったらそこだって崩れていくかもしれないし、そうなったら俺まで穴の底に真っ逆さまだ。
穴の1フィート手前まで来たら、腹這いになって首だけ穴の上に出す。表面は結構な大きさなのだが、すぐ下から急に狭くなっていて、中の方は全く見えない。それでも、人が落ちそうな大きさくらいあるのは解る。
「ヘーイ!」
中に向かって呼びかけたが、返事はない。もう半フィート近付いて、顔を動かしながら奥を覗こうとしてみたが、3フィートくらい下のところで穴が曲がっているようで、
いや、待て、少し下に、何か見えている。おそるおそる手を突っ込んで、それでは届かないので顔まで少し突っ込んで、指先に引っかかった物を引っ張り上げた。ニット・キャップだった。蛍光イエローに白で雪の結晶とトナカイの模様が……待て待て待て、蛍光イエローのキャップはマルーシャがかぶってたはずだが!?
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