#11:第7日 (10) 救出? 脱出?

「ヘーイ!」

 もう一度、クレヴァスの中に呼びかけてみる。ややあって、下の方から「ハーイ」という気のない声が返ってきた。10フィートもないようなところから聞こえるような気がする。が、それはまさしくマルーシャの声だった!

「どこにいる!? 浅いのか?」

「40フィートくらい下。穴の口が、ほんの少しだけ見えてるわ」

 いちいちフィートで言ってくれることないって! しかし、40フィート先からの、こんな力のない声がはっきり聞こえるとは、やはりオペラ歌手だけあって声の通りがいいのだろうか。感心するようなことでもないが。

「そこが穴の底か?」

「いいえ、少し狭くなったところに引っかかってるわ。底は見えない」

「怪我は?」

「右足首骨折、左足首捻挫、左肩が脱臼していたけど、脱臼はさっき自分で治したわ」

 こんな窮地なのに脱臼を治す余裕があるのか。いや、他にどうしようもないからできることをやったってところか。

「装備は? 上がってこられそうなのか?」

「リュックサックは背負ったまま。そのおかげで引っかかってるわ。だから、中からは何も取り出せない。ピッケルを持っていないから、上がるのは難しそう」

 ピッケルを持ってなかったのか。俺だって持ってないし、レスト・ハウスに置いてあったかどうか。

 さて、どうする。ユーヴァスヒッタに応援を求めに行くとなると、下りるのに1時間、上るのに1時間半はかかるだろう。今、2時半だから、5時になる。日が暮れ始める時間だぜ。

 いや、天候が悪くなってきてるから、戻ってきたらかなり暗くなっているに違いない。そこから救助作業なんてできるのかよ。

 かといって、明日まで待つわけにもいかないだろう。夜の間に凍死するかもしれない。

「ザイルを下ろすから、君がそれに掴まって、俺が引っ張れば、上がってこられそうか?」

 40フィートというと、共同住宅テネメントの4階のヴェランダよりもまだ上の高さだ。しかし、両側が壁なのだから、ロープ一本で登るよりは簡単だろう。ただ、両足を使えないのが難点か。

「あなたが危険だわ。ロープを引っ張っている時に落ちてきたら、受け止められる自信がないから」

 俺の心配してる場合かよ。しかし、俺はどうして彼女の心配をしてるんだ?

 エルラン教授は、彼女を救うなと言った。彼女は危険な女だと。俺も、彼女の粗暴な振る舞いをいくつか知っている。

 オックスフォードでは、俺を気絶しそうなほどぶん殴っただけでなく、他の2人の競争者コンテスタントを陥れて怪我を負わせた。

 アカプルコでは妹を守るためとはいえ、マジシャンを狙撃してやはり怪我を負わせた。

 モントリオールでも、もしかしたらギャンブラーをひどい目に遭わせたかもしれない。

 そしてここではエルラン教授が激怒するようなことをした。たぶん、前にもあったんだろう。なるほど、確かに危険な女だ。

 だが、俺は彼女に、俺を今後危険な目に遭わせないことを約束させた。彼女はそれを守ってくれている。それどころか、俺にヒントを与えようとすることもある。ターゲットを譲ろうとしたことすらある!

 もっとも、それは俺に利用価値がある、利用できると思っているからだろう。その思惑どおり、利用されてしまっているけれど。

 とにかく、他の登場人物も危険な目に遭わせないよう、説得することはできないものか。

「助けなくてもいいと言うつもりか?」

「いいえ、もう少し経って、足の痛みが引いたら、横に移動するか、下に降りるかして、出口を探すわ。クレヴァスの端に、浅くなっているところがあるかもしれないから」

 そういうものか、という気もするが、それは賭けみたいなものだよな。ゲームの世界だからって、何かしら助かる方法があるものじゃないんだろ。

 仮想世界でクレヴァスを再現することの意味はわからないが、単純に過去のある日の地形データをそのまま使っているだけかもしれない。トラップとしてわざと用意しているんだったら、クリエイターに怒りたくなるが。

 で、結局俺は、彼女を救ってはいけないのか? 帝国騎士が、困っている淑女レディーを助けるのはいけないことなのかね。

 もっとも、それが世間的に悪女と認められているようならどうかってことだろうな。『三銃士』の中でミレディーを脱獄させた看守みたいに、非難されるかもしれない。さあ、どうする。

「OK、では、こうしよう。足の痛みが引くまでに、君が下に落っこちてしまわないよう、ザイルで身体を支えておいてやろう。それから、リュックサックの中から装備が取り出せないのなら、必要なものを貸してやろう。どうだ?」

「どうしてそんなことするの? エルラン教授はあなたに、私を救わないように言っていたのに」

 聞こえてたのか。耳がいいな。

「昨日、喰わせてもらったケーキの礼だ。あのエネルギーを、ここで消費させてもらう」

 答えは聞かず、起き上がって後ろに置いたリュックサックのところへ行く。中からザイルと懐中電灯フラッシュ・ライトを取り出す。ピッケル代わりにナイフを渡したいところだが、欲しいと言ってからにしよう。言うわけはないと思うが。

 ザイルの先に大きい輪を一つと小さい輪を二つ作り、小さい輪には懐中電灯フラッシュ・ライトと帽子もくくりつけておく。クレヴァスのところに戻って、ザイルを放り込む。解りやすいように、懐中電灯フラッシュ・ライトはあらかじめ点けておいた。

懐中電灯フラッシュ・ライトが見えるか?」

「ええ」

「君のところに降りていきそうか?」

「少し右へ」

「どっちに向かって右へ?」

「ごめんなさい、谷の方を向いた時に、右へ」

 今向いている方向でいいということだ。身体ごと、少し右へ移動する。「いいわ」という声が聞こえる。

 長さを測りながらザイルを下ろしていったが、彼女の言ったとおり、40フィートほど延ばしたところでまた「いいわ」と声があった。

「ザイルの輪を、身体の一部に、そうだな、右腕にでも通してくれ。肩までだ。間違っても、首にかけるんじゃないぞ。いいか?」

「いいわ」

「電池が無駄になるから懐中電灯フラッシュ・ライトは消しておいてくれ」

「いいわ」

「帽子はかぶった?」

「どうして?」

「落ちた時に頭を打ったら危ないだろう?」

 しばらくして「かぶったわ」という気のない声が聞こえてきた。ザイルを少し引っ張る。重い手応えがあるが、一応訊いておく。

「ザイルの輪を腕に通してるんだろうな?」

「ええ」

「本当に?」

「ええ」

「間違いなく本当だな?」

「ええ、間違いなく」

「よし、準備完了」

 起き上がり、穴の縁から少し離れた場所に膝立ちになった。うまくいけばいいが。

「ヘイ・ビッティー!」

 真っ白な氷河の平原の中に、黒幕が降りてきた。いつになく、幕の位置が遠い。足下の雪が、木の床に変わっていく。幕が下がりきり、真っ暗になった後で、上からスポットライトが降りてきた。

「ステージを中断します。裁定者アービターがアーティー・ナイトに応答中です」

 前方14、5ヤードのところにも、スポット・ライトが当たっている。そしてディレクターズ・チェアに、マルーシャが座っていた!

 他の競争者コンテスタントが近くにいたら、同時にバック・ステージに入れるのは知っていた。しかし、40フィート――13ヤードと3分の1――は離れすぎかと思ってザイルでつながっておいたが、どうやらうまくいったようだ。

 彼女が舞台の床に開けられた穴の底にいるとか、俺が天井近くのキャット・ウォークに登ってるとか、そういうことも考えたのだが、もしかして同じ床の上にいて、横からの声を下からに聞こえさせられてるのではないか、という可能性が一番高いと思っていた。

 仮想世界なら、空間を歪めることだってできるだろう、と。まさにボナンザ。

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