#11:第6日 (3) 迎えの淑女

 もう一度外に出る。先ほどより、少しは明るくなったようだ。だが、雲が厚い。朝日は見られないだろう。

 晴れていれば、谷間に朝日が射すところが見えて、絶景だったかもしれない。コーヒーを作って飲みながら眺めたら、満足感に浸れたろう。別に、そんなことはしなくてもいい。後は夜明けを待って、朝食を摂って、8時半にでも出発すればいい。

 スピテルストゥレンへは13マイルほどありそうだ。西へ向かい、最初は上り坂、途中で峠を越えて、そこからは下り坂。南北に走る谷と合したら、そこからは南へ向かってごく緩やかな上り。天気が悪くなるかもしれないが、休憩を含めて6時間半もあれば着くだろう。

 しかし、なぜ思い付いたのだろう。自分の頭から出てきたことなのに、思い付いた過程がよく判らない。

 最初は、白み始めた空を見たときだ。勝手に頭の中に国歌が流れてきた。その後、国旗がたなびいた。それからオルゴールミュージック・ボックスの蓋の模様。ノルウェイの国旗だと気付いた。

 なら、あの音楽はノルウェイの国歌ではないかと閃いた。国歌の演奏中に、途中で止まるなんて重大問題インシデントだなと思ったら、それが問題クエスチョンではないかと気付いた……こんなところか?

 どうなのかな、全てが一瞬のことだったから。まるで数学の問題の解法を思い付いたときのように、天啓レヴェレイションのごとく降りてきた。きっと女がいなくて、余計なことで気をそがれなかったせいだろう。やはり女は敵だ。

 空はなかなか明るくならない。しかし、もうしばらくここにいることにする。湿った風が、やけに心地よい。

 落ち着いたところで考えてみると、次に行くところは判ったものの、ターゲットのことは何も判っていない。もう土曜日の朝だ。ステージの終了まであと52時間ほど。ターゲットは“黄金の林檎”。次に行ったところで何か見つけなければいけないだろう。

 黄金の林檎……思い付くのは、ギリシャ神話くらいだが、ここはノルウェイだ。北方神話にも黄金の林檎が出てくるのだろうか。

 とにかく、スピテルストゥレンへ行くことだ。ここで焦っても仕方ない。少しでも早く着くことは大事だが、夜が明ける前から行動を始めなくても……むむ、あれは何だ?

 谷底で、小さな光が揺れている。揺れているだけではなく、移動している。もしかして、斜面を登ってきている?

 今さらここに人が来るのか。いったい何者だ。外で待っているのは変かな。どうでもいいか。

 少しずつ、少しずつ、近付いてくる。だが、まだしばらくここへは来ないだろう。小屋に戻り、リュックサックの中から双眼鏡を取り出して、また外に出る。薄明の中の小さな輝きを頼りに、双眼鏡を覗き込む。なぜ二日連続して、明け方にこんなことをしているのだろうと思う。

 それはともかく、小さな光はランタンのようだ。そのランタンが、持っている人の姿を照らす。顔は見えないが、服装はドレス。ロング・スカートを穿いているように見える。女! 本当に、今さらだな。

 この小屋を目指しているのか? キー・パーソンなのかな。でも、もう次の行き先は判ったんだけど。いや、もちろんその有力な候補を思い付いたというだけで、確実ではないかもしれないけれども。

 人影を待っている間に、8時になろうとしている。夜は明けたと思うが、空は鈍い灰色の雲に覆われていて、眼下の谷間に日は射さない。

 ただ、人影は目視で女だと判るほどになって来た。懐中電灯フラッシュ・ライトを点けて、その人影に向けて揺らす。人影が立ち止まる。昨日とは逆の展開だな。昨日は俺は人がいると知っていて近付いていったが、そこにいる人影は俺がここにいないと思っているかもしれない。

 しかし、人影はまた登り始めた。ようやく顔まで見えるようになってきた。中年の女……いや、中年と言っていいのか微妙な感じだが、俺よりはたぶん年上で30代前半くらい?

 美人は間違いなく美人。このステージに来てからはついぞ見かけなかった、母性的な美人だ。暁の女神がいい感じに年を取ったような、と言っては失礼かもしれない。

おはようございますグ・モロン。あなたが小屋に泊まってらした方?」

 そう訊いてくるからには、誰かがこの小屋に泊まっていたのを知っているということだろうな。あの老人が彼女に話したのだろうか。

おはようグッド・モーニング。そして、初めまして。アーティー・ナイトだ。そのとおり、昨夜からここに泊まっていた」

初めましてヒゲリ・オ・ムーテ・ダイ、マリット・ハラルセンと申します。この小屋の管理を任されている家の者です」

 なるほど、ここへ来た理由は解った。しかし、どうして朝から。片付けなら、俺が出て行った後ですればいいんじゃないかと思う。

 それに、この辺りには年寄りしか住んでないんじゃなかったっけ。彼女一人だけが例外なのかな。

「ここに泊まるには君の家に申告しなければいけなかったか?」

「あら、いいえ、そんな必要はありませんのよ。ただ、誰かがここに泊まるのが判ったら、ご挨拶に来ることにしているだけなのですわ。でも、昨日は私、遅くまで出掛けていたものですから、ご挨拶に来ることができなくて」

 挨拶に来るのはいいが、どうして朝から。いや、時間的に遅くはないが、なぜ俺が起きていると思った。小屋の灯りを点けたからか? センサーか何か付いていて、彼女の家に連絡が行くようになっているのか。監視カメラはなかったと思う。

「そういうことなら、こちらも挨拶が遅れて申し訳なかった」

「あら、いいえ、こちらの都合なのですから、お気になさらないで。それで、ご相談なのですが」

 何だろう。宿泊代でも払うのかな。別にぼったくられリップド・オフてもいいけど。

「もうご朝食はお済みですか? まだなら、私の家でお召し上がりになってはとお誘いしに来たのですわ」

 マリットはそう言いながら胸の前でポンと両手を合わせた。さっきまでは優雅なしゃべり方だったが、この仕草だけやけに若々しく見える。

「それは別料金エクストラ・チャージで?」

「あら! いいえ、もちろん我が家のおごりデット・エル・ポ・フセットですわ」

 おごりオン・ザ・ハウスね。何か裏がありそうな気がするけど。

「そういうことなら、ぜひ」

「では、家へお連れしますね。もう一泊されますか? お発ちになるのなら、お荷物をお持ちになった方がよろしいかと思いますわ」

 もちろん出て行くので、荷物を取りに小屋へ入る。マリットも後から付いて来る。しかし、よく考えたら着替えなければならない。トレーニング・ウェアの上に防寒着を羽織っただけだ。それをマリットに言うと、「朝食の後にお着替えになったらいかがですか?」。

 着替える場所を提供してくれるならいいかと思い、リュックサックを背負う。洗面器の水はマリットが外へ捨てた。他に片付けるものと言えば、ベッドのブランケットとシーツくらいで、マリットがそれらを綺麗にたたんで腕に掛ける。持って帰って洗濯するつもりのようだ。

「それでは参りましょうか」

 小屋を出ると、マリットがたおやかに微笑んで手を差し出してきた。何、この手。握手じゃないよな。下りるのに手を引いてくれるとか?

 別にそんなことしてもらわなくても、と頭では思っていたのに、手が勝手に動いてマリットの白い手を握ってしまった。柔らかくて触り心地がよくて……いや待て、何だ、これは。どうなってるんだ。俺が催眠術にかかってるのか。

 マリットはしかし、俺の動揺には気付かなかったかのようにまた優しく微笑むと、斜面を下り始めた。それに付いていきながら、マリットのことを観察する。

 背はそれほど高くない。5フィート2インチくらいか。ライド・ブロンドのロング・ヘアで、ドレス――この寒いのにかなり薄着だと思うが、慣れだろう――に包まれた身体の線は、多少崩れてはいるものの、ふくよかカーヴィーで中年女性としては理想的な体型と言えるだろう。

 胸は今は見えないが、さっき見たときはかなり大きかったはずで……いや、おかしいな、俺は中年女の身体なんて観察する趣味はなかったんだが、これもやはりマルーシャの影響か。あいつのせいで、美人でプロポーションのいい女は、ついつい観察する癖がついてしまった。今のところ、誰からも苦情を言われてないのが不幸中の幸いだ。

「ヘル・ナイトはどちらからお越しになったのですか? まあ、合衆国から? それは遠いところを! この辺りはヨーロッパの他の国から散策にいらっしゃる方すら珍しいところなんです。何もございませんでしょう? それに、取り立てて景色がいいわけでもありませんし、宿泊するところは先ほどの避難小屋と、夏だけ開いているキャンプ場だけですし、美味しい料理や名産品もありませんし……」

 マリットは俺の方をちらちらと見ながら、ずっとしゃべっている。かといって足下が疎かになっているわけでもない。もちろん、何度もここを上り下りしているからだろう。

 分かれ道に来ると右へ行き、林の向こうに見えている家の方へは行かず、少し先へ行って、獣道のような、とはいいつつも車が何とか通れそうな幅の――ちゃんと二条の跡が付いている――道へ入っていった。

 何となく変なところへ連れ込まれそうな気もしてきたが、マリットに手を握られていると“何となく”安心感がある。もちろん、全く根拠はない。

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