#11:第3日 (12) ナイト・キャップ

 とりあえず、受付に行って、蔵書のリストがあるか訊く。あるにはあったが、グリーグの伝記の英訳版はあっても、ヴェルゲランの詩集の英訳版はないと言われた。伝記はどこの本棚にあるかも尋ねたが、「たぶんあの辺り」と言われた本棚に行って探してみても、なかった。借りた奴が、元の本棚に戻すとは限らないからな。

 結局、一つ一つ本棚を見ていくことにした。カーリも消極的ではあったが、ちゃんとついて来てくれた。そして本棚の前に立つと、俺よりも真剣に本を探している。本に集中すると周りのことが気にならなくなるのか。

 それで、失礼かとは思ったが、彼女にどこまで近づけるかを試してみることにした。最初の本棚では1フィート離れて立っていたが、本棚を移動するごとに1インチずつ近くに立つ。しかし、半フィートまで近付いたときに察知されてしまい、なぜか彼女の方が「ごめんなさい……」と謝って離れていった。

 もし身体に触れるところまで近付いていたら、大慌てで飛び退いたか卒倒したかのどっちかだろう。一夜にしてそれを克服できるのかどうか。いや、そこまでする必要はないのか? 気兼ねなく話せるようになればいいだけだろうからなあ。

 結局、英訳版伝記は見つからず、あきらめて談話室へ行くことにした。歩くとき、横に並び掛けても嫌がらない。だいぶ慣れてきたようだ。

「遅かったわね、二人で夜の湖でも見に行っちゃったのかと思ったわ」

 俺の姿を見て、ニーナが言った。俺の斜め後ろで――二人に近付く直前、カーリが一歩退いたのだ――また「ひうっ」という音が聞こえたが、向こうの二人にはたぶん聞こえなかったと思う。

「やあ、待たせたな。全部の本棚を見たんだが、読みたいと思ってた本が見つからなくてね」

「あら、そうだったの。他の本にすればよかったのに」

 暇つぶしならそれでもいいんだが、こっちにも一応狙いがあるんでね。

「そうだな、じゃあ、後でもう一度探しに行こう。ミス・ノールマン、また手伝ってくれると嬉しい」

 ニーナの隣に腰掛けながら、カーリに言う。カーリは立ったまましばらく固まっていたが、しばらくして小さく頷くと、俺の向かい側に座った。

「あなたたちも何か飲む?」

 ニーナたちはビールを飲んでいるらしい。

「そうだな、買ってこよう。ミス・ノールマン、君の分も買ってくるよ。何を飲む?」

「あ、いえ……私が、買いに行きます……」

 俺が腰を浮かすよりも先に、カーリがバネ仕掛けのように立ち上がった。こんな素早く動く彼女を見たのは初めてだ。胸が重くて、身のこなしが悪いのかと思っていた。

「そうしてもらったら?」

 ニーナが平静な顔で言う。早く俺と話の続きがしたい、と思っているのだろう。

「じゃあ、オレンジ・ジュースを頼む」

 悪いと思ったが、カーリに山カードを差し出す。カーリはそれを受け取ると、そそくさと談話室を出て行った。

「飲まないのね、あなたは」

「標高が高いところで飲むと、頭がくらくらするからな」

「ここはそれほど高くないわよ。1300メートルくらいじゃないかしら」

 10倍して3で割る。4300フィートほどか。

「十分高いよ。俺は海面とほとんど同じ高さのところに住んでるんだ」

「あら、私たちだってそうよ」

 俺の話ばかりするのは疲れるので、ニーナたちが港湾局で何をしているか訊く。「いろいろ」だそうだ。その間にカーリが飲み物を買って戻ってきた。グラスを受け取ろうとしたら、テーブルに置かれてしまった。俺と手が触れることを恐れたのだろうか。

 港湾局の話題はすぐになくなり、再び俺の研究の話をさせられる。仕方なく、例の男女比率と虚勢ブラフのネタを話す。ニーナが右、ヘイディが右斜め前にいるので、正面に座っているカーリの方に目をやる機会がほとんどない。横目で見る限り、彼女も俺の話に聞き入っているようだ。俺が見ないときは、こっちを見つめてくれていると思うんだがなあ。

「あら、もう10時だわ。明日は朝が早いから、そろそろ部屋に戻ってシャワーを浴びなきゃ。楽しいお話をありがとう、アーティー」

「明日の朝も、時間があれば、またお話の続きをしてくれると嬉しいわ」

 ずいぶんとあっさりとしている。いや、これが普通で、下着の話をして俺を困らせたり、ゲームをして粘ったりするのが間違ってるんだ。

 談話室を出て、受付の前辺りでニーナ、ヘイディと別れる。が、どうしてカーリは俺の側に立ち止まったままなのだろうか。彼女たちと同じ部屋じゃないのか。

「あの、私、他の人が同じ部屋にいると、気になって寝られないものですから……別の部屋にしてもらったんですけど、どういうわけか棟まで別になってしまって……」

 二人が行った後で、カーリが言った。さっきから、自然に俺の方を見てくれるようになった。

「こっちの棟か」

「はい」

 俺と同じ棟ということか。そうすると、俺は一番突き当たりなので、必然的に彼女を部屋の前まで送っていくことになってしまうが、警戒されたりしないか心配になる。その前に、本を探しに行くはずなのだが。

こんばんはグ・クヴェル、ヘル・ナイト。これから部屋に戻られますか? もしよろしければ、お飲み物を1杯ご一緒しませんか」

 アネルセン支配人の声がした。振り返ると、カジュアルに着替えた彼女が立っていた。俺が女3人との話を終えたのを見計らって出てきたようにも思える。さて、どうするかな。

「あの、では、私はこれで……お休みなさいグ・ナット、ヘル・ナイト……」

「ああ、お休み」

 俺がどうするかを考えるより前に、カーリの方が素早く態度を決めた。慌てた様子でお休みを言って立ち去る。しかし振り返る瞬間の、寂しそうな横顔が何とも言えない女らしさを漂わせていた。

 おかしい、さっきまでは“惜しい美人”の代表者みたいな感じだったのに、一瞬だけ、いや、あの角度だけが綺麗に見えるのだろうか。

「アルコール抜きなら付き合おう」

 アネルセン支配人の方へ振り返って言う。こちらは実に堂々と俺のことを見つめてくる。

「それで結構ですわ。どうぞこちらへ」

 レストランの、隅の席に案内された。2方向に窓がある。といっても、外は真っ暗で全く見えない。そういう席へ俺を座らせて、“私だけを見なさい”っていうつもりかな。

 あいにく、窓ガラスにレストラン内の光景が映り込んでしまっているので、そちらに気を取られることがあるかもしれない。

「何をお飲みになります?」

「オレンジ・ジュースだ」

 支配人が人を呼び、オレンジ・ジュースを二つ注文する。その間に改めて支配人、改めエリンを観察する。栗色の髪、細い眉、アーモンド型の目、ヘーゼル色の瞳、高い鼻。そこまでは普通の美人だが、自信ありげな笑みを浮かべる口元は、俺の苦手とするところだ。

 女は自然に笑っていてくれればいいのであって、笑顔を作る必要はない。もちろん、俺個人の好みでしかない。

「当館を楽しんでいただけてますかしら?」

「さて、俺が利用したのはレストランと談話室くらいだが、料理はうまかったし談話室は広くて綺麗だった。宿泊室は、まだ寝ていないから判らんね」

「正直な感想をありがとうございます。一晩しか滞在いただけないのが残念ですわ。当館の充実した設備と、周囲の雄大な自然を十分にお楽しみいただくには、せめて4日は宿泊いただきたいです」

 俺も1ヶ所にずっと滞在する方が楽でいいんだけどね。今回も、この後ずっとここにいていいってことにならないのかな。ただ、なぜか次のところへ行かないといけない気がするんだよなあ。

「次のヴァケイションの時には考えよう」

「ノルウェーにはいつまで?」

「日曜日までだな」

 その、正確なところが判らない。初日が、午後からのスタートなら、月曜日の午前中までが期限なのだが、そうでないなら日曜日の夜までだ。ビッティーに訊けばいいのに、もう少し後でもいいと思ってるから、つい忘れる。

「他の場所へ行っても、ノルウェーを十分に楽しんでお過ごし下さい」

「ありがとう」

 さて、こんなありきたりなことを言うために、俺を誘ったわけではないだろう。いったいエリンは何が目的なのか。

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