#11:第3日 (10) 夕方の合唱曲

「ハイ、ミスターヘル。写真を撮ってくれないかしら?」

 風景を見るもなしに見ていると、後ろから女に話しかけられた。聞き覚えのある声だ。振り返ると、見覚えある3人の姿。受付で、俺に声をかけてきた。そうか、やっぱり君らがキー・パーソンズなのか。

 それにしても、架空世界のシナリオってのはよくできてるな。もし俺が外に出ずに山小屋の中をうろついてたら、どうせ君らも山小屋の中で俺に声をかけてくるんだろ。

「ああ、もちろん」

 映画女優のような顔をした女とカール・ヘアの女から携帯端末ガジェットを受け取り、湖と山をバックにして3人の写真を撮る。眼鏡の女は携帯端末ガジェットをどこかへ忘れてきたらしい。写真を撮り終えると、映画女優がまた親しげに話しかけてくる。

「実はあなたを探してたのよ」

「どうして?」

「彼女があなたに……ヘイ、カーリ、こっちへ来なさいよ」

 どうやら呼ばれているのは眼鏡の女らしい。カール・ヘアの後ろに隠れるようにして立っていたが――背が高いので隠れられてないが――、渋々という感じでこちらへ進み出てきた。しかし、俺の方を見ずに下を向いている。目を合わせられないせいか、つい防寒着の胸元に目が行ってしまう。うむ、確かに大きい。

「彼女と、図書室でぶつかったんでしょう? その時に、本を拾ってもらったお礼が言いたいらしいのよ」

 礼なんて言われるほどのことではないと思うが、このカーリという女は、友達に付き添ってもらわないと男に話しかることもできないのだろうか。単に恥ずかしがり屋なのか、それとも男性恐怖症か。いや、マルーシャならそういう演技もできるように思うのだが、もう少し観察してみないとよく判らないな。

「ヘイ、カーリ、早く言いなさいよ」

 カール・ヘアが後ろからせかす。カーリは時々顔を上げて俺の方を上目遣いに見ているが、なかなか口を開こうとしない。男が苦手な女によくある態度なのだが、もしこれが演技だとするとちょっとすごい。

「あー……んん……」

「ヘイ、ちょっと待って、カーリ。ミスターヘル、名前を教えてくれないかしら?」

 せっかくカーリが口を開きかけたのに、映画女優がそれを遮ってしまった。

「アーティーだ。アーティー・ナイト」

初めましてヒゲリ・オ・ムーテ・ダイ、ニーナ・エリクセンよ。彼女はカーリ・ノールマン。後ろにいるのはヘイディ・イェンセン」

初めましてヒゲリ・オ・ムーテ・ダイ、アーティー」

よろしくナイス・トゥ・ミート・ユー、ミス・エリクセン、ミス・ノールマン、それからミス・イェンセン」

 カーリよりもカール・ヘアのヘイディの方が先に挨拶してきたが、カーリはまだ口を開かないし、こちらを見ようともしない。息が苦しそうだが、高地だからというわけではないだろう。

 1分ほど辛抱強く待っていると、ようやくカーリの口から言葉が漏れてきた。

「あー……ヘル・ナイト、本を、拾って下さって、ありがとうございましたトゥーセン・タック……」

「どういたしまして。しかし、あのときは俺の避け方が悪くてぶつかったんだから、礼を言われることじゃないし、もう一度謝っておくよ」

「あー……んん……いえ……」

「ヘイ、カーリ、満足した? そう、よかったわね。もう少し湖を見ていく? もういいのね、じゃあ、山小屋に戻りましょうか。アーティー、あなたも一緒に山小屋へ戻る? あの有名な財団の研究員なんでしょう。お話が聞きたいわ。この後、一緒に夕食をどうかしら」

 ニーナがそう言って俺の肘の辺りをつかみながら、山小屋の方へ歩き始める。俺の意向を訊いておきながら、断るなんて許さないわよという感じにも思える。イェンデブのアストリッドの役が、ここではニーナなのだろうか。いきなり唇を奪われないように気を付けておいた方がいいかもしれない。

「財団の人ってことは合衆国市民なの? ノルウェーには休暇、それとも仕事?」

 左側の肘をニーナに取られたと思ったら、右肘にはヘイディが取り付いてきた。そして二人で俺を山小屋の方へ引っ張るようにして歩く。女が二人いると俺を挟んで歩くのがこのステージの仕様らしい。カーリは後ろから付いてきている、と思う。足音すら聞こえないが。

「合衆国だよ。ここに来たのは休暇。以前から、北欧の山に興味があってね。君たちはノルウェー人?」

「そうよ、ベルゲンから来たの。どこにあるか知ってる? ここから200キロメートルほど南西にある、北海に面した港町よ。港湾局に勤めてるの。あなた、いい身体してるわね。何かスポーツをやってたの?」

 腕を持っているだけで判るのか。

「フットボールだ」

「フットボールで腕なんか使うかしら? ああ! 解ったわ、アメリカン・フットボールね。私の知り合いでもスーパー・ボウルを見てる人が何人かいるわ」

 何人か……ノルウェーではそのレヴェルなのか。それはいいとして、山小屋に戻るまで、ニーナがずっとしゃべり続ける。時々、「ヘイディ、あなたはどう?」などと質問すると、ヘイディが答える。

 カーリは一切声を発しないので、本当に後ろにいるのかどうか判らない。しかし、初日は無口な女がキー・パーソン、2日目は饒舌な女がキー・パーソンだったから、ここではまた無口なカーリがキー・パーソンではないか、と思ってしまう。

 もちろん、彼女がマルーシャの変装だったとしても、それはそれで意味がある。なぜなら、彼女が何かヒントを手に入れようとすれば、俺もそれを手に入れられるからだ。

 山小屋に着くとニーナが「ちょっと待ってて」と言って、レストランの方へ行ってしまった。

「席を予約しに行ったのか?」

 ヘイディに訊いてみる。カーリは黙って後ろにいる。

「3人席を4人席にしてもらうつもりでしょ」

 なるほど、予約がしてあったのか。俺は一人だから予約をしなくても席が空いていさえすれば座らせてもらえるだろうが、3人となると予約をしておく方が無難だろう。ニーナが戻ってきた。

「4人席にしてもらえたわ」

 やはりそういうことだったか。

「6時から?」

「ええ、もうすぐだから、ここで待ってましょう」

 レストランの前で立って待つ。他にも同じように待っている客が大勢いる。どうやらもうすぐ客が入れ替わる時間のようだ。防寒服を脱いだが、預けておく場所がないので、手に持っておく。

 やがて6時になると、出し抜けに鐘の音――生ではなく録音――が鳴り始め、レストランにいた客がばたばたと立ち上がった。しかし、誰もその場から動こうとしない。

 入れ替えじゃないのか、と思っていると、いきなり音楽が流れ始めた。クラシック音楽に聞こえたが、合唱が始まった。ノルウェー語で歌っているようで、歌詞は全く判らない。

 いやいやいや、待てよ、歌は同時通訳されないのか? よく見ると、唄っていない人もいるようだ。横にいる女3人は唄っている。有名な歌なのか。ノルウェーの国歌?

 俺一人だけが、何が行われているのか判っていないようで、非常に居心地が悪い。とりあえず、直立の体勢を崩さないでおく。フットボールの試合でも、国歌を演奏している間は、敬意を持った態度で立っていないと、後でリーグから注意を受けてしまう。

 終わりか、と思ったら、まだ2番があった。5分ほどで曲が終わると、レストランの客が帰り始めた。しかし、まだ半分足らずは席に残っている。半分だけ入れ替えというわけだ。案内されるのを待つ間に、ニーナに訊いてみる。

「今の曲は?」

「ヘンリク・ヴェルゲラン」

「それはノルウェーの有名な作曲家?」

「あら、『ヘンリク・ヴェルゲラン』は曲のタイトルよ。作曲はエドヴァルド・グリーグ。ヴェルゲランは詩人で劇作家で歴史家で、ノルウェーの独立に貢献した人。グリーグは『ペール・ギュント』とか『抒情小曲集』の作曲者」

 グリーグの名前は知っている。確かに『ペール・ギュント』の作曲者だな。しかし、その元ネタのイプセンの小説を今朝読んだばかりだぜ。これが偶然のわけないだろう。グリーグはこの山小屋でのヒントだな。

「それは失礼。とにかく、とても有名な曲らしいな。みんな唄っていた」

「ええ、学校で習うもの。独立記念日に彼を記念した式典を催しているところもあるわ」

 そんな重要な人物なら、誕生日を国の祝日にした方がいいんじゃないか。合衆国じゃあ、ワシントンの誕生日は連邦祝日で、イリノイ州ではリンカーンの誕生日も州定祝日だったぜ。

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