#11:第3日 (9) 湖の景色
さて、調べ物。
今までの例では、本棚にヒントがあった。ここの山小屋は大きいだけに、一晩で全体を調べきるのは不可能だろうし、今回は本だけに絞る。おそらく、談話室にあるだろう。
しかし、今までの例からすると、たぶん邪魔が入るだろうと思う。しかも女の邪魔が。どうすればそれを撥ね付けることができるのか。
とりあえず、談話室へ行く。廊下を延々と戻る。一番端の部屋は静かでいいが、場所的には不便だ。
ロビーを通り抜けるときに気付いたが、早くもレストランが混雑し始めている。また5時過ぎなのに。ノルウェーの夕食時間は早いのだろうか。
談話室には本棚はなかったが、奥に別の部屋があって、そちらに本棚があった。静かだから、図書室かな。
しかし、思っていたほど本の数は多くない。イェンデブよりも少ない。白いセーター姿の女が一人、本棚を見ているが、その後ろに回って俺も本棚を眺める。
大きなサイズの本ばかりだ。図鑑かもしれない。タイトルはノルウェー語ばかりで読めない。別に、ヒントは小説とは限らないだろうから、図鑑でも構わないのだが、それを絞り込むヒントが欲しいな。
前にいた女が振り返った。俺がいるのに驚いたらしく、身体を捻って横をすり抜けようとしたが、あいにく俺も彼女を避けようとして、同じ方へ動いたので、まともにぶつかってしまった。
「あっ!」
女は転びはしなかったが、よろけた表紙に手に持っていた数冊の本を落とした。えーと、この世界で俺にぶつかってくる女はキー・パーソンなんだが、君がそうなのか?
よく見たら、受付のところにいた3人のうちの一人じゃないか。上品な顔立ちだが野暮ったい大きな黒縁眼鏡をかけていて、少々太めの……え、いやいやいや、ちょっと待て。
今は防寒着を脱いでいて、身体のラインが浮き出るぴったりしたセーターを着ているのだが、そのラインが……いやいやいや、これはいわゆる“
要するに胸が大きくて
でも、こういうプロポーションの女はマルーシャの可能性があるので、気を付けなければいけないのだが、じっくり観察するとどう思われることか。
「やあ、すまない」
そう言って本を拾い、女の前に差し出す。女は怯えたような表情をして、俺の手から本を引ったくると胸に抱え、2、3歩下がった。そしてしばらく上目遣いで俺のことを睨み――というほどの強い視線ではなかったが――、何も言わず、振り返って足早に部屋を出て行った。怖がらせたつもりはないのだが、男嫌いなのかもしれない。
そういえば受付のところで見かけたときにも、視線を切られたんだった。マルーシャとは全然印象が違うが、彼女は性格の全く違う人物に化けることができるので、用心しなければならない。
しかし、ぱっと見で同じに見えたのは顎のラインくらいで、目が細かったし、色も違うし、唇が薄かったし、胸も少し、1インチ、いや2インチは小さかったように思う。
そういうところしか見ていない自分に呆れるが、もしかしたらマルーシャならその程度の変装はできるかもしれない。とは思うものの、今のところどちらとも言えないという感じか。もし彼女なら、そのうち俺に接近してくるだろうから、その時に確かめることにしよう。
さりげなく辺りを見回したが、この一連の出来事に気付いた奴はいなかったようだ。俺も、何事もなかったかのように本棚をもう一度眺める。
やはり読めそうな本はない。1冊取って中を見てみたが、どうやら植物図鑑のようだ。この季節に咲いていない花を探して来て欲しい、と言われたらこの本を使うか。
ただ、あまりにも本が少ないので、受付へ訊きに行く。すると、レストランにもたくさん本棚がある、と言われた。
見に行くと、窓と窓の間の壁に本棚が立っている。窓はたくさんあるので、本棚もたくさんあるというわけだ。
ただし、窓際にはテーブルがあり、本棚は椅子の背と背の間にあるので、レストランが満員の時には本が探しにくいように思う。ゆっくり食事している客にとっては、本を探すために背後に立ち止まられたら、気分がよくないだろう。今はほぼ満員だから、夕食時が終わってから本を探すことになりそうだ。
となると、これからどうしたらいいのか。キー・パーソンを探すことだな。山小屋の中をぶらついていれば、そのうちまた誰かにぶつかるかもしれないが、少し行動範囲を広げて、外へ散策へ行ってみよう。
夕暮れ時で、宿の周りは既に翳っているものの、東側の山にはオレンジ色の光が当たって、美しい陰影を作り出している。その景色に誘われるかのように、たくさんの人が外を歩いている。
レイルヴァトネット湖や、宿の周囲に三つ四つある小さな沼というか池というか、そういう景色を楽しんでいるのだろう。そこへ行って、写真を撮ってやろうかなどと話しかければ、それがキー・パーソンかもしれないというわけだ。
もちろん、声をかけるのは美人だけに限らない。今までのキー・パーソンはほとんど女だったような気がするが、男だって何人かはいたはずだ。ただ、男の団体にはあまり声をかけたくないけれども。
山小屋を出て、まず正面にある小さな池に行く。短い草の生えた緩やかな斜面だが、ところどころにごつごつとした岩が出っ張っている。
足下を注意ながら池の端まで行くと、男女のペアや、女の二人連れが何組かいて、写真を撮ったり水面を眺めていたりする。近付くと不思議とみんな他の場所へ去って行くので、「ハロー」と声をかけることくらいしかできない。
池は水深が浅く、ボートを浮かべることもできないだろう。ただし、水はとても綺麗だ。おそらく常に流れているからに違いない。池は全て、川とも言えないような小さな流れでつながっていて、最終的には湖の方へ注ぎ込んでいるのだ。
水をすくってみる。冷たい。もちろん、飲めるに違いない。キャンプの炊事にだって使えるだろう。
池の縁を歩き、小さな流れに沿って、別の池の方へと移動する。流れの途中には小さな木の橋が架かっていて、これはさっき俺がここへ来るときに渡った。そのすぐ下流に池があるのだが、さっきの池の10分の1くらいの、ほとんど
女たちがその水たまりの中を覗き込んで何か言っているが、近付いて声をかけても「ハロー」と笑顔で返してくるだけで、俺の方へ注意を払おうとしない。男よりも自然の方に興味があるのだ。キー・パーソンではない、と受け止める。
さらに別の流れに沿って歩き、80ヤードほど行くと、もうレイルヴァトネット湖だ。この湖は、地図を見る限り、この辺りで一番低いところにあり、周囲の全ての池と湖の水がここへ集まってくる。季節によって水位が変化すると思われるが、この架空世界ではどうだか判らない。おそらく、あと数日しか存在しないだろうから。
その湖と、山頂の方だけを赤く染めた山々を背景にして、写真を撮っている人がたくさんいる。声をかけようとしても既に写真を撮り終えていたり、逆に俺のことを写真に撮ってやろうかと言ってきたりする。あいにくカメラを持っていないので撮ってもらうことができない。キー・パーソン探しも難しいものだ。
流れを飛び越えると南の方へ行けるのだが、そちらは誰もいないので、湖岸に沿って北へ歩く。水際にいる連中は、俺が近付いて行くとまるで避けるかのように別の場所へと去って行く。これもシナリオどおりなのだろうか。
俺だって無闇やたらと人に話しかけたいわけでもないので、キー・パーソン以外は俺を避けてくれる、というのが仕様なのであれば、ありがたいと思っていいかもしれない。
再び俺の周りに誰もいなくなったので、あきらめて湖の向こうの山を眺める。右手にあるキルキャ山から、左手にある山々まで、丸くえぐり取られた窪みになっていて、氷河の通り道になっていたことがはっきりと判る。
そしてその窪みのずっと奥に、別の山が霞んでいる。北欧の風景といえばフィヨルドが有名だが、水が少ないとこんな風に見えるのだろうと思う。どの山も頂上付近だけが赤く染まっている。絵にするのにふさわしい風景だが、実は遠くの方は絵なのかもしれない。目に見える風景を全て仮想世界として構成するのは、情報量が多すぎるはず。
やれやれ、なぜこんな余計なことを考えてしまうのだろうか。
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