#11:第2日 (4) チェスの棋譜

 山小屋に戻り、他の4人は出発準備のために部屋へ。俺はもちろんリヴィングで荷物のまとめ……はせずに、そこら辺の本を物色する。何かしらヒントがあると思われるのに、昨夜はチェックが全くできなかったからな。

 ただし、ノルウェー語の本が多いので、全く読めない。英語、フランス語、ドイツ語の本はまれにしかない。固めて置いておいてくれればいいのに、バラバラに置いてあるから厄介だ。ジャンルに分かれているせいだ。

 山の写真集や観光ガイド・ブックが多いので、それならノルウェー語がわからなくても何か判るか、と思って探していたら、ゲルハルセン夫人がやって来た。手にはマヤがメモに使った紙。俺の方を遠慮がちに見て、しかも話しかけにくそうにしている。こういうときはこちらから声をかけてやらねばならない。

「やあ、ミセス・ゲルハルセン、そろそろ出発? ほとんど話はできなかったが、会えてよかった」

 彼女の目を見ながら――もちろん“催眠術”を意図しながら――話しかけ、手を差し出す。彼女は少し戸惑っていたが、俺が差し出した手を弱々しく握った。細くてきれいな指をしている。しかし爪を伸ばしていないのはなぜだろうか。

「あの、私も、あなたにお会いできてよかったです……それで、あの、これはどこから出してこられましたか?」

 もちろん、メモの紙のことだ。さて、どこだったかな。マヤは確かサイド・ボードの、チェス盤が置いてあった棚の横の抽斗から出してきたように思ったが。

「確か、ここの……」

 抽斗を開けると、同じような紙がいっぱい詰まっていた。いや、ただの紙じゃない。チェスの棋譜用紙スコア・シートだ。それが判ったのは"white"と"black"という英語が併記してあったからであって、記号ノーテイションそのものは全く読めない。なるほど、裏紙バックサイドを使ったのか。

「じゃあ、それも抽斗に戻しておこう」

 手を出して紙を受け取ろうとしたが、彼女は逆に手を引っ込めた。

「あ、いえ、その……他のも、見せていただけますか?」

 別に俺の所有物って訳でもないので、許可を求める必要もないと思うが、とりあえず抽斗の中の棋譜を取り出して、彼女に渡す。100枚以上はあっただろう。底の方には未使用の用紙が束になって入っていた。どうして過去からの棋譜が、こんなに残ってるんだか。こういうのは捨てないものなのか?

 で、彼女はというと、その棋譜を次から次へとすごいスピードで見ている。しかも笑みまで浮かべて。そんなにチェスが好きなのか。

「もしかして、グランド・マスターだったかな」

「……いえ、そんな、まだFIDEマスター……」

 彼女は言いかけた言葉を飲み込むと、紙から顔を上げて、驚いた表情で俺のことを見た。いや、別に不意打ちで聞き出そうとしたわけでもなくて、単にそう思っただけだったんだけど。しかし、さっきまでの態度と違って、いやにまじまじと見るんだな。そんなことしてると催眠術にかかるぜ。

「ヘイ、愛しい人エルスケリーグ、どこにいるんだい。そろそろ出発の……やあ、ここにいたか。おや、何を見てるんだい?」

 ゲルハルセン氏がリュックサックを二つ抱えてやって来た。“愛しい人ラヴァブル”が俺と一緒にいるのを見て、少し驚いているらしい。もっとも、俺はソファーに座っていて、彼女は立ちっぱなしで、2フィートは離れているから、誤解されるおそれはない。

「ごめんなさい、イェンス、棋譜を返しに来たのに、つい夢中になって他のも見てしまって……」

「ああ、そうだったか。いや、別に構わないんだよ。まだ時間はあるからね。ああ、アーティー、彼女はチェスが趣味でね。こうして山歩きに来たときでも、チェスを見つけると喜んで飛びついてしまうんですよ」

F MFIDEマスターだと聞いたが」

 FIDEというのは、確か国際チェス連盟のことだったと思う。フランス語の略称で、チェスはEで始まる単語だったはずだが、ちゃんと憶えていない。

「おや、愛しい人エルスケリーグ、そんなことまで彼に話したのかい?」

「ええ、棋譜を見ているときに訊かれたから、無意識のうちに、つい返事をしてしまって……」

 ゲルハルセン氏が気にしているのはおそらく“そんなこと”の方ではなくて、俺と“話したこと”だと思うが、どうでもいいか。“愛しい人ラヴァブル”がまだ棋譜を見続けているので、仕方なしに、という感じで俺に話しかけてくる。

「その、何です、事情を説明しますとね、彼女は仕事の他はチェスにしか興味がなくて、休日はほとんど出歩きもしないくらいなんです。それでは健康に悪いと説得しましてね。あのマグヌス・カールセン、ご存じですか、ご存じないですか、ノルウェー初の世界チャンピオンなんですが、そのカールセンはサッカーが好きで、身体を鍛えるのにも役立つと言っている。チェスには体力が必要だそうだ。だから君も運動した方がいいよ、とね。で、僕の趣味が山歩きだったものですから、こうして休暇を取って連れ出しているという訳なんです。しかし、やはり彼女の方が一枚上手でしてね。明後日はスピテルストゥレンに泊まるんですが、そこにチェスの友達を何人も呼んでいて、対局をするって言うんですから」

 ゲルハルセン氏は言い訳のようにしゃべり、力なく笑った。それにしても、こんなおとなしそうな女がチェスをねえ。チェスを好きになる女は気が強いタイプだと思っていたのに。男では、変人クランクの場合もあるんだけど。

「アマチュアが指した棋譜なんか見て、面白いのかね。疑問手ドゥビアス・ムーヴ悪手バッド・ムーヴばっかりだろうに」

「いいえ、時々ですが、はっとするような好手があるのが面白いんですわ。でも、残念なことに、指し手自身がそれが好手だったことに気付いてないみたいで、直後に悪手を指して台無しにしてしまうのが残念なだけで……」

 “愛しい人ラヴァブル”は嬉しそうな顔でそう言いながらも、相変わらずすごい速さで棋譜を見ている。一枚当たり3秒くらいだろうか。100枚以上あったはずなのに、5、6分で全部見終わってしまった。その間、ゲルハルセン氏は諦めたようにずっと突っ立っていた。俺も何もできないままだ。

「満足したかい? そうか、それはよかった。それで、ええと、その棋譜はどこに置いてあったのかな。おや、あなたが戻してくれるんですか。どうもありがとう」

 “愛しい人ラヴァブル”から棋譜の束を受け取り、元の抽斗に戻す。ゲルハルセン夫妻がリュックサックを背負い、出て行こうとしたところに、ちょうどエマたちがやって来た。笑顔で夫妻を見送ると、マヤが俺の顔を見て話しかけてくる。どうしてそんなに色目を使うんだか。

「アーティー、この後、どこへ行くか決めた?」

 決めるも何も、チェスの棋譜の件で邪魔が入って、調べ物をする時間さえなかったよ。もっとも、あれが今後の展開に何か関係のあるイヴェントなのかもしれないけど。

「まだ決めてないのなら、私たちと一緒にイェンデブに行きましょうよ。3人で行けば、道中がとっても楽しいと思うわ」

 エマまで色目を使い始めた。あいにく、そういう理由で行き先を決めるわけにはいかないという気がしててね。もちろん、キー・パーソンズの意見だから参考にはするけど、まだこの山小屋を調べきってないから。

「悪いが、まだ決めてないんだ。君たちと行くのも楽しそうだが、ここの北にある何とかいう山に登るのもよさそうだと思ってね。とにかく一人で考える時間が欲しいんだよ」

「解ったわ。私たちは1時間後に出発するけど、もし一緒に行く気になったら教えてね」

「出発まであなたとお話でもしようと思ってたけど、考える時間が欲しいのなら、一人にしておいてあげるわ。でも、相談したいことがあれば何でも訊いて」

 そして、「ここの周りの写真を撮ってくるわ」と言って二人で出て行った。物わかりがよくて助かる。あくまでもつきまとおうとするキー・パーソンもいるくらいなのにな。

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