#9:第6日 (8) お願いを一つ

 フロア・マネージャーにマルーシャへの伝言を託した後で、本館3階の、中空のバーに行った。カウンターに座ろうとしたら、ジャンヌがペア・シートがいいと言って聞かない。そこに並んで座ると、ぴったりと身体を寄せてくる。カティーじゃあるまいし、何の魂胆があるのかと思う。

 ウェイターが注文を取りに来て、ジャンヌがライ・アンド・ジンジャーを頼み、俺がフロリダを頼もうとすると、「同じのにしてよ」と言う。どうやら、ちょっとしたわがままを言ってみる方が女らしく思ってもらえる、と勘違いしているのではないかと思う。

 どうにも、外面と内面が釣り合ってない。外面的には、恐らく今このカジノにいる全ての女の中で、マルーシャの次に美人であると言い切っていいと思うが、内面的には子供のようなものだ。レースの駆け引きは知っていても、男女の駆け引きは全く知らないのだろう。

 もっとも、俺だって彼女に教えられるほど知っているわけではない。何しろ、マルーシャに簡単に手玉に取られるくらいだからな。

 それはさておき、ジャンヌはバーで大人の女が話すような話題にも事欠くらしく、さっきのコンサートからの芸術つながりで、「高校時代の美術の成績はどうだったの?」などと訊いてくる始末。だが、話題がそちらの方へ行ったのを幸いに、スチュワート博物館の方へ振ってみる。

「君も今日は博物館に呼ばれてたんじゃないのか?」

「ええ、そうよ、父さんと。でも、父さんは行かないって言うし、私もラフトレースに出場しなきゃならなかったから、行っても途中で抜けたりするのは申し訳ないからと思って、断ったの」

「何を見せてもらえるかも知らないのか」

「知ってるわよ、過去の特別展って言ってたと思うわ。案内があったのはずいぶん前だけど、私はスペインに行ってて、父さんにしか連絡が取れなかったらしいの。その時点で父さんは既に断ってて、私がこっちに帰ってきたときに改めて博物館から案内があったんだけど、内容を聞いてもあまり興味が湧かなかったし、さっき言ったような事情もあったから」

「今はジル・ヴィルヌーヴの特別展をやってるが、それにも行ってない?」

「それは行ったわ。展示が始まる前に、特別に呼ばれたから。3月の頭だったかしら。ジルは私が最も尊敬するドライヴァーで、だから彼が最初に付けていた12番を、今私が付けてるのよ。その時はジャックも呼ばれていて一緒に展示を見たから、とっても楽しかったわ!」

 ジャックって誰だ、と訊こうとして、慌てて口をつぐむ。たぶん、F1ドライヴァーだろう。おそらくジルの息子に違いない。そっちに話題を振ると、ジャンヌはレースのことしか話さなくなってしまう。過去の特別展にはどんなものがあったかを訊いてみる。もちろん、俺は知っているのだが、ジャンヌに何か話させなければならない。

「よく憶えてないわ、何だったかしら。ナポレオンの何か? それから……そうだわ、博覧会EXPOの何周年か……50周年じゃなかったかしら」

「君のお祖父さんは博覧会EXPOに行ったことがあると言っていた気がするが」

「そんなこと言ったかしら。ああ、でも、思い出した。確かその記念展に、祖父が保存してたチケットとかリーフレットとかを貸したのよ。展示が終わった後で返してもらったらしいけど、その時に、同じように貸したり寄贈したりした人が呼ばれたんだと思うわ。祖父は最近脚が悪いから来られなくって、代わりに父さんと私が呼ばれたの。ああ、祖父の脚は心配しないで。私、月曜日にここへ帰ってきたとき、お見舞いに行ったの。散歩していて、ちょっとしたはずみで転びそうになって、その時に筋を違えたけど、治るのに少し時間がかかってるだけだから」

 いや、そこまでは心配してないけどね。ただ、ジャンヌは恐らく身内思いで、身内のことを気遣ってくれる男に惹かれやすいだろうから、「早く治るといいな」と言っておく。打算的で心苦しい。

「お祖父さんは博覧会EXPOに何度も行ったのか?」

「さあ、それはどうだったのかしら。そういえば10年前の記念展に、私、一緒に行ったんだったわ。その時に、祖父が博覧会EXPOの思い出を訊かれて、何か答えてたような気がするけど、何だったかしら」

 そんな大事なことを、今頃思い出すなよ。いや、違うか。昨日、遊園地で祖父さんと博覧会EXPOの話が出たときに、もっと突っ込んで訊けばよかったんだ。完全な1日遅れだな。

「そうそう、とても楽しみにしてたので、初日の早朝から行ったんだけど、前の日から並んでいた人がたくさんいて、一番には入れなかったって。20人以上並んでたとか……」

 それはそれで面白いエピソードなのだが、ターゲットとのつながりがまだ見えて来ない。博覧会EXPOには確かに外国からもたくさんの客が来るに違いないが、なぜその記念展にパスポートが展示されているんだ? 外国の有名な大使が、カナダに来たときのパスポートを、記念として寄贈したのか? それに何の意味がある?

「お祖父さんが入場したのはその日だけなのか?」

「さあ、それは聞いた記憶がないわ。博物館で祖父がインタヴューされてる間は一緒にいたけど、その後は弟とヴィデオ展示を見てたから。でも、何を見たか全く憶えてないの。興味がある物が、何もなかったからだと思うわ」

 歴史的遺物に興味がないのは仕方ないが、これではキー・パーソンとしてどうかと思う。とはいえ彼女はキー・パーソンであるという自覚がないし、余計なお世話だろうけど。

「ノートル・ダム島だけじゃなくて、隣のサンテレーヌ島にももっと愛情を持った方がいいな。遊園地とレヴィ塔だけじゃなくて、博物館やその他も施設にもね」

「そうね、私もそう思うわ。博物館には少しだけでも、行くべきだったかもしれない。色んな人と知り合いになれるものね。私の知見が広がるだけじゃなくて、他の人が私を知るきっかけにもなるし、それでカー・レースのファンが増えれば、普及活動とも言えるわ。そうそう、昨夜マルーシャに聞いた、その愛情の話だけど、すぐ前の夕食の時に、あなたもほとんど同じようなこと言ってたのよね。後で気付いて、びっくりしたわ。やっぱり一流の人の考えることって、同じなんだなって思って」

 俺が何を言ったって? ああ、プレッシャーを楽しむにはどうするかって話のことか。俺のより、マルーシャの方が数段解りやすかったな。

「だから、俺は実践できてないって言ったろ」

「頭で理解しているだけでも違うと思うのよ。今日は私、フリー走行と予選の時に、コースの景色を意識的に楽しみながら走ったわ。それにコース際にマーシャルが見えたときには、心の中でありがとうメルスィって言ったし、ピットに戻ってからは、スタッフ全員とベクをして。今までの最高順位だったこともあったけど、みんなにお礼を言ったら、ピット内の雰囲気がすごく良くなった気がするの。それからすぐには自分のキャンパーへ戻らずに、モーター・ホームのスタッフや、グランプリの広報担当や医療フィジオ担当、各国のプレスの人たちとか、会う人ごとに挨拶したりお礼を言ったり。今までは、そういうのは余計な気を遣うだけって思って、やらないこともあったけど、私が笑顔で接したら、みんなが笑顔を返してくれて、私のことを応援したり注目したりしてくれる人がこんなに多いって、初めて解った気がする。とにかく、私がほんの少し“愛情”を持っただけで、これほど周りの状況が変わるなんて、とてもすごいことだって感じたのよ」

 そいつは良かったが、礼はマルーシャに言ってくれよ。しかし、ジャンヌをマルーシャに会わせたときには、“キー・パーソン”を横取りされるんじゃないかと心配したが、逆にキー・パーソンとしての情報が引き出せるようになるとはね。俺も礼を言わなきゃならないんじゃないか。今日もレモン・パイを差し入れておいて良かったよ。

「俺もスタンドで予選を応援すれば良かったんだが、時間がなくてね」

「あら、そんなことないわ。昨日と同じところで見ていてくれたでしょう? 私、ゴールがあそこのつもりで走ってたのよ。あなたの顔を見るのが私の目標ゴール! その直前のストレートを全速力で走って、減速してコーナーを曲がった瞬間、あなたの姿が見えるの! 昨日と違って、あのストレートを走るのがどれだけ楽しかったか、解ってもらえるかしら?」

 解るわけないだろ、そんなの。俺はゲーム中にハドルの中で、エンド・ゾーンの向こうの客席に有名人が来てるぜとか言ったりするが、あれはジョークだし。

「明日もレースの全部を見ることはできないと思うぞ」

「もちろん、解ってる。昼間に1時間半も賭場を離れるなんて、できそうにないものね。スタートの時かゴールの時か、どちらかだけでも見てくれれば嬉しいわ」

 急に物わかりが良くなって、気味が悪い。が、わがままを言ってみたり甘えてみたりしているところを見ると、愛情の注ぎ方を試行錯誤しているのだろうと推察する。

 おかげでターゲットに関する情報のかけらを引き出すことができたが、1日遅かった。たぶん、俺の愛情の注ぎ方が足りなかったのだろう。キー・パーソンを何人も見つければ、それだけ情報を集めるのが早くなるのかと思っていたが、場合によっては誰か一人に絞るというのが得策らしい。

 ジャンヌの場合はどうするのが最善だったのかな。まさか、夜に彼女のキャンパーに行って……いやいやいや、それだけはちょっと勘弁して欲しい。最初の頃のステージみたいに、色恋沙汰とは関係ないシナリオにしてくれないものかなあ。

 30分のはずが40分になり、まだ飲み足りなさそうにしているジャンヌを促して外に出る。カジノの受付が、どこの令嬢が来ていたのかと慌てふためいていた。いつもの小道を通り、金網の切れ目を抜けてコースの中までジャンヌを送る。今夜は、いつも以上に静かな感じがした。

「アーティー、今夜も付き合ってくれてありがとう。さっきも言ったけど、明日、あなたがコースの脇で私のドライヴを見てくれなくても、私、大丈夫よ。だって、あなたがどこにいても、私を応援してくれるのは知ってるもの。父さんや母さんや、弟がここに来てくれなくても、きっと私のこと応援してくれてると思う。私がすることは、みんなの応援を信じてドライヴするだけ。決勝レースの前日に、こんなにすっきりした気分でいられるのは初めてよ」

「それは良かった。俺も、できる限りコース脇まで出て、君のドライヴを見るようにするよ。たとえ1周でもね」

「そうしてくれると嬉しいわ。ところでアーティー、お願いがあるの」

「何?」

「明日のレースで、私は目標の順位があるの。もしその順位になるか、それを上回ることができたら、私のお願いを一つだけ、聞いてくれないかしら」

 酔っているのかもしれないが、言うことが子供っぽい。あるいは酔っているふりをしているのかもしれない。とにかく、飲む前よりも表情が柔らかい。

「その願いってのを先に聞くことはできる?」

「今は言えないわ。でも、あなたなら叶えられるお願いだと思うの」

 無茶なことは言わないから、というほのめかしかな。今までに比べて、ずいぶんと表現がマイルドになったものだ。

「できる限り叶えるようにすると約束しよう」

「ありがとう! じゃあ、お休みの挨拶をして」

 挨拶……いつものベクじゃあ物足りないって意味か? 右の頬に軽くキスをすると、ジャンヌもキスを返してきた。キスをせがむよりも、そう言う方が自然にキスしてくれると思ったようだ。うまく操られている気がしないでもない。

「明日も、レースが終わった後で電話するわ。それじゃあ、お休みなさい」

「ああ、お休み」

 遠く、ピットの辺りにぽつんと光る灯りを頼りに、ジャンヌが暗い道を歩いて行く。キャンパーまで送って欲しいと言われたら、そうしていたかもしれない。とにかく、今夜のジャンヌは昨日までと様子が違っていた。ただ、それが明日のレースにいい影響を与えるか、俺には判らない。

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