#9:第6日 (7) 歌は聴かない
「遅くなってごめんなさい。今日も楽屋でメイクアップをしてもらったんだけど、担当の人がやけにこだわって、なかなか終わらなくって」
昨夜と同じく、とんでもない化けっぷりだ。こだわっただけあって、映画女優並みの美貌になっている。この姿でピットに行ったら、誰もジャンヌだと気付かないに違いない。しかし、昨夜のジョアナとは違って、ずいぶんと落ち着いている。たぶん、マルーシャと話をしたことで、気持ちの切り替えが早くなったのだろう。教授、ジョアナと挨拶を済ませ、得意気な笑顔で俺の横に座る。
「あなたも今夜は途中で抜けたりせずに、最後まで全部聴いた方がいいと思うわ。賭場の方が気になるのは解るけど、たまには心ゆくまで芸術に身をゆだねた方がいいと思うの」
何を言ってやがる。マルーシャを君に紹介したのは俺だっての。昨夜は半信半疑で聴きに来たくせに、1回聴いたからってマルーシャの全てが解ったような気になるなって。俺ですら彼女のほんの一部しか解ってないのに。はっきり解ってるのは胸の大きさと柔らかさくらいのもんだ。
「ところで、
「そうだわ、それよ。2位になったの! 最後の方はずっと競り合ってたんだけど、漕ぎ手が一人、落ちちゃって、タッチの差で負けたの。でも、去年までは優勝チームしか表彰されなかったけど、今年は2位も表彰してくれたわ。シャンパン・ファイトもしたの! あれって、とっても気持ちいいわね。明日のレースでも表彰台に上がったらあれを楽しめるんだと思うと、かなりやる気が出たわ」
「
教授がいつもの笑顔でジャンヌに訊く。この話の聞き方のうまさは見習わなければならないだろう。そこからコンサートが始まるまで、ジャンヌはずっと
定刻になってコンサートが始まった。司会者も3日目になって、ようやく慣れたように見える。しかしどうせ客は司会者に何も期待していないだろうから、問題ない。
マルーシャの歌が始まると、会場全体が一体化して惹き込まれていくのが解る。これを耐えるのはかなりつらい。が、一度は全部聴いておいて、それでも彼女のペースに乗らないような精神力を鍛えておく必要があるかもしれない。しかし、どうしても耐えきれなくなってきた。まずいな、何か他のことを考えるのがいいかも。
例えばマーゴとの今までの会話。いや、これは女のことを考えてしまうから、マルーシャに負ける可能性がある。じゃあ、例の論文のこと。でも、あれは俺が書いたんじゃないから、論文を見ながらでないと考えられないし、ここで論文を取り出して読むのも不自然だろう。そもそも、暗くて読めない。
それなら、オレンジ・ボウルの全スナップを思い返してみるというのはどうだ。あれなら今でも鮮明に思い出す自信があるぞ。最初はショットガンで、バックとX・A・Yを左、Zを右に置いて、Aをモーションさせて、フックを走らせたZにパス。次もショットガンでX・Z・Aを左、Yを右、バックは後ろから右にモーションさせて、スナップで戻って来たバックにハンドオフ。
うん、正確に思い出せるな。これならいくらでも時間が稼げる。やはり俺はフットボールが一番集中できる。
30分ほど、ゲーム前半、相手の全スナップまで思い出していたら、不意に肩を叩かれた。いつの間にか後ろにフロア・マネージャーが立っている。気配を消してブラインド・サイドから俺に近付くんじゃない。サックされるかと思ってびっくりするじゃないか。
「メッセージでございます」
他の3人に聞こえないような小声で言い、すぐに出て行った。俺がコンサートを聞いているから、
"Would you come at eleven tonight?"
(今夜は11時にいらして下さる?)
待て待て待て、マルーシャは今、舞台の上にいて、歌の合間のインタヴューを受けてるるだろうが! それなのに、どうしてこのメッセージが届くんだよ。最初からこの時間に届けることになってたってのか? しかし、今さら彼女の行動を不思議がっても意味ないし。俺の行動は、全部見抜かれてるも同然だからな。
だが、11時ってのは遅すぎる。いつもなら寝る時間だぜ。嫌なら断りゃいいんだが、逆に向こうから会いに来るために宿泊室に忍び込まれても困るんで、会いに行くことにしようか。でも、時間は繰り上げるぞ。言いなりになってばかりいられない。後でフロア・マネージャーに伝言すればいいだろう。
他の3人は、俺がメッセージを受け取ったことにも気付いてないようだ。もっとも、教授は気付かないふりをしているだけかもしれない。
インタヴューが終わり、マルーシャが歌を再開する。俺の方も、ゲーム後半のスナップを思い出し始める。
最後の逆転ドライヴの所を思い出すのは心苦しい。コーチのデザインどおりのプレイをしていれば、ちゃんと進んだはずなのに、俺がミスばかりして、勝手に苦しくなっているだけだからな。見ていた客は、
さて、
「今夜の歌もとっても素晴らしかったわ。この次はいつ、モントリオールに来てくれるのかしら」
芸術を堪能しきったという満足気な表情でジャンヌが呟く。隣ではジョアナも、同じように満ち足りた感想を教授と語り合っている。他の客も今日はわりあい静かだ。
「君だって世界中を飛び回ってるんだから、行った先で都合を合わせて見に行けばいいんだよ」
「そんなにうまく合うかしら。彼女の場合、私がグランプリで行く国以外でもコンサートをやってるんでしょうし」
「移動の合間に、近くの国でやってるようなら飛んで行けばいいのさ。要は君自身の行動力次第だよ」
「そうね。有能な人は、やりたいことをやるために、暇を探すんじゃなくて、作り出すっていうものね。ところで、あなたは彼女のコンサートやオペラを何回くらい聴いたことがあるの?」
「一度もないな。今回が初めてだよ」
「本当に? じゃあ、今回みたいに偶然一緒の街に来ても、楽屋にメッセージや花束を届けたりするだけ?」
いやあ、向こうからメッセージを送ってきて会うことの方が多いな。俺の方から会いに行ったのは今回が初めてだよ。しかし、そんなことを言うわけにはいかないので、「街で会った時に挨拶するくらいだ」と言っておく。
「そうなの。それはもったいないわね。彼女とお話をするのって、とっても有意義で、楽しそうだけど」
だから、二人きりで会うと、向こうがちっとも楽しそうにしないんだっての。
「ジャンヌ、アーティー、僕とジョアナはこれからマルーシャの楽屋を訪ねるつもりなんだが、一緒にどうかね」
教授が声をかけてきた。「グルドン部長に取り次いでいただいたんです」とジョアナも嬉しそうだ。だが、俺たちは昨日会いに行っているので、ジャンヌが余計なことを口走らなければいいが。
「せっかくのお誘いですけど、今夜は遠慮しておきますわ。彼女、明日のレースにゲストとして招かれているらしくて、その時に少しだけお話しさせてもらえることになってるんです。だから、この後はアーティーと軽く飲んで、早めにピットに戻って、明日のために体調を整えようと思って」
「あら、それは羨ましいことね。私も、明日時間があればレースを見たいと思っていたのですけど、どうしてもケベック・シティーへ戻らなければならない用事があって」
「それは残念だわ。じゃあ、来年はチケットを送付しますから、ぜひ見に来て下さい。私も、あなたの本が出版されたら、必ず読みますから」
それからベクをしてジョアナたちと別れたが、ジャンヌがこんな如才ない挨拶ができるとは思ってなかったので驚いた。俺と話すときと他とでは、ちゃんと使い分けてるんだな。
「アーティー、30分くらいならバーに付き合ってくれるでしょう? それとも、私のキャンパーに来る? 朝まで泊まっても構わないわよ。明日のパレードは昼からだし、決勝レースは2時過ぎだし」
何だ、その似合わない誘い文句は。本番レースの前の晩に男と寝るつもりかよ。それとも、それもレースに関する全てを愛するってやつの一環?
「ジョギングはしないのか」
「あなたがするならするわ。一度くらい、一緒のペースで走って欲しいけど」
色気のあることを言ってはいるが、表情が付いて来ていない。男ならつい釣り込まれそうになるほどの美貌なんだがな。ドレスも、なぜか俺好みの胸元の見え具合で、谷間の深さもそれにふさわしいほどなのだが、今一つ
「レースに勝つつもりなら、規則正しい生活を守った方がいいな。本館のバーに行こう。その服はどうするんだ、着替えるのか?」
「明日まで貸してくれるって。昨夜もそう言われたけど、時間があったから着替えて帰っただけ」
有名人だし、持ち逃げされる心配がないからだろうなあ。それに、着替えたら化粧をし直さないといけない。いつもの服でこの濃い化粧は、さすがにないよな。
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