#9:第6日 (9) レモン・パイのかけら

 いったん宿泊室へ戻り、さっとシャワーを浴びてからキャバレーの楽屋に向かう。10時35分。こちらが指定した時刻を過ぎてしまったが、たまには構わないだろう。それに先客がいるに違いないし、そいつらが時間どおり帰るとは限らないから、少し遅れて行くぐらいがいい。

 エレヴェーター・ホールと舞台裏を隔てるドアの前に来ると、ちょうどドアの向こうから何人もが連れ立って出てくるところだった。教授とジャンヌの姿はない。他にもマルーシャを訪問していた客がいたようだ。今日が最終日だから、特別サーヴィスかな。

 ドアを通り抜け、楽屋の前へ行くと、いつものようにフロア・マネージャーがいた。お待ちかねです、と言ってドアを開けようとしたが、それを制して訊いてみる。

「さっきまで、他の客が何人も来ていたようだが」

「はい、さようです」

「もし、その客の相手で疲れているようなら、今夜は遠慮してもいい、と伝えてくれ」

「かしこまりました」

 そう言ってフロア・マネージャーは楽屋に入っていったが、やはり10秒もしないうちに出て来て「お気になさらず、ぜひお会いしたいとのことです」と言った。中に入るとマルーシャが、花束の積まれたテーブルの前に座って、口をもぐもぐと動かしている。普通なら行儀が悪いと思える所作が、どうしてこんなに美しく見えるのか、不思議でならない。

「やあ。疲れてないと言ってたみたいだが、本当に大丈夫なのかね」

お気遣いありがとうサンクス・フォー・ユア・コンサーン。こちらこそ、遅い時間を指定してごめんなさい。30分繰り上げた事情は理解するわ」

 なるほど。愛情のこもった言葉を掛ければ、愛情のこもった返事が来るって訳だ。たとえ相手が俺でも。2、3歩、テーブルの方に寄ったが、数ヤードの距離を保ったまま、彼女を見る。テーブルの上に、菓子の空き箱がいくつも開いている。その中に、見覚えのある箱も。

「俺の差し入れを食べてくれたのか。それとも、客に振る舞った?」

「いいえ、あなたの分は全部私が食べたわ。ありがとう。とても美味しかった」

「二つとも?」

「ええ」

 昨夜差し入れたレモン・パイはお気に入りだったようなので、今夜は二つにしてみたのだが、それも全部一人で食べたと。もう驚くまいとは思っていたが、オペラを唄った後ってのはそんなに腹が減るものなのか。まさかね。

「俺も一口、食ってみたかったんだがな」

 そう言えばマルーシャが驚くかと思ったが、表情も変えず、じっと俺の方を見つめている。しかし、黙ったままでいられると困る。食べ物のことで困らせるようなことを言うと、機嫌を悪くするのだろうか。

 諦めて、今夜呼び出された理由を訊こうとしたとき、奥のドアにノックがあった。ウェイターが現れて、応接テーブルにケーキの皿と飲み物を置いて出て行った。マルーシャが無言でそちらへ移動する。そしてソファーの脇に立ったまま、俺の方を見る。その視線が「こちらに来て座って」という意味だとはっきりと解った。

 誘われるままに、しかし少しは警戒しながら、ソファーに近付き、マルーシャと向かい合って座る。どうして彼女は目だけで俺に意志を伝えて、従わせることができるのだろう。

 目の前にはレモン・パイの一切れと、オレンジ・ジュース。いや、もしかしたらフロリダだろうか。どうしてレモン・パイを俺が食べたがることを知っていて、どうして俺の好みの飲み物まで知ってるのか。

「これが、今夜俺をここに呼んだ理由?」

「ええ、それともう一つ」

 レモン・パイをフォークで切り取りながら、マルーシャが答えた。さっき食ったのに、まだ食うのかよ。

「ハロルド・ザ・スリムの動向に注意して、と伝えたかったの」

「奴なら、昨日の夕方から見かけないが」

「だから注意して欲しいの」

「それは君のため? それとも俺のため?」

「ジャンヌ・リシュリューのため」

 なぜ君がジャンヌのことを気にする。そもそも、ジャンヌとカウボーイ・ハットの接点が全く判らない。あの二人が、どこかで会ったことがあるのか?

「奴がジャンヌに危害を加えるとでも? それとも、キー・パーソンとしての彼女を奪っていくつもりかな」

「確としたことは言えないし、これ以上言えば共謀になるわ」

「今、こうして会っていることは共謀じゃないのかね」

「いいえ、二人で軽食を摂りながら、ハロルド・ザ・スリムという有名人の噂話をしているだけよ」

 うまい言い方をするものだ。確かに、二人して奴を排除しようという相談でもないし、奴がターゲットを獲得したら示し合わせて奪おうという謀議でもない。そもそも、競争者コンテスタントを探すための協力くらいなら、以前からやっていることだ。

 しかし、彼女がこんなことを言うからには、彼女にとっての利点もあるはずで、それが何かは判らないが、訊いても答えてくれないだろうから訊かない。

 グラスを取り上げて一口飲んでみたら、アルコールが入っているのが判った。フロリダだ。レモン・パイを手で摘まんで、尖った方から食べてみる。甘さが控え目でうまいが、寝る直前に食べるような一品ではない。だが目の前の女はこの16倍食べている。今食べているのが17個目のかけらだ。それだけじゃない、他のケーキや菓子もたくさん食べたはずだ。この締まったウエストの、どこにそんな容量があるのか。

「君が奴を見かけたら、俺に教えてくれたりするのかね」

「もちろん」

「逆に、俺は君に何を教えればいい?」

「彼のことを」

「教えることには何の問題もないが、どうやって教えたらいいのかな。君は俺が、このカジノで何をやっているか知っているようだが、俺は君が、この3日間のコンサートの時以外、どこで何をやっているかも知らないんでね」

「バンケット部門長のムッシュー・ルグランに伝えて」

 なるほど、トレドではパラドール・ホテルが取り次ぎ役だったが、ここではルグラン氏がそれに当たるわけだ。

「ルグラン氏は君のキー・パーソン?」

「いいえ、彼は何も知らないわ」

「じゃあ、他にいるわけだ」

「もちろん」

「それは俺が知ってる人物?」

「それは言えない」

「ハロルドのキー・パーソンは、奴の取り巻きの一人かな」

「おそらく」

「奴はどこに寝泊まりしてるか知ってる?」

「知らないわ。でもたぶん、この島の外」

「やっぱり付き添いがいると出られるんだ」

「ええ、そう。私も食事に出たことがあるし、泊まることもできるはず」

「じゃあ、君も島の外に泊まってる?」

「いいえ、この島のどこか」

「このカジノではない?」

「探してみて」

 肯定も否定もしなかった。が、街の方に泊まっているのではないということだけは判った。そのためにはやはりキー・パーソンを捕まえないといけないのだろう。俺の場合、誰だったのか。エヴィーかカティーだろうなあ。

「この島から出られる条件を知ってるのか」

「部分的には」

「街ではどれくらいの範囲を動けるか調べた?」

「部分的には」

「ところで、もちろん君はターゲットが何だか判ってるんだろうな」

「今までで一番自信がないわ」

 これまでは、ターゲットのことを訊いたら「確証がない」だったんだが、今回は「自信がない」と来た。これまでは4日目あたりに訊いていたんだが、今回はもう6日目の終わり頃だいうのに。

 そもそも、何に対して自信がないのか。目星を付けた物がターゲットであるかどうか判らない、というのならいつもどおり「確証がない」と言うべきだから、ターゲットは判ったが盗みに成功する自信がない、という意味かもしれない。

 ターゲットが博物館にあるとして、彼女があそこに忍び込むのに「自信がないノー・コンフィデンス」なんて言ったりするかねえ。その他の建物だって、同じだぜ。

「君の口からそんな言葉を聞くとは思わなかった」

「いつも成功するわけじゃないもの」

 失敗したことなんてあるのか、と訊こうとして、俺自身が彼女を“半分”失敗させたことがあるのに気が付いた。が、今はターゲットが何かの話であって、盗みが成功するかとか、ゲートから無事に退出できるかとかではない。

「自信を持つために、この仮想世界にもっと愛情を注いでみたら?」

「歌ならそれができるけど、このゲームには通用しないから」

 ごもっとも。さて、俺の方はようやくレモン・パイを食べ終わったが、彼女の方はもちろんとっくになくなっている。フロリダは、ほんの一口だけ残してある。食べ終わってからの彼女の視線は、ほとんど俺の前の皿の上に注がれていたが、まさかまだ食べたいというわけではないだろう。そろそろ退散しようと思う。

「さて、もう寝る時間なんで、お暇しようセイ・グッド・バイ。知ってると思うが、毎朝早起きしてランニングしてるんでね」

「ええ、知ってる」

「走っているところも見てるとか言うんじゃないだろうな」

「ご想像にお任せするわ」

 明日は周りに注意しながら走ろうと思う。

「じゃあ、おやすみグッド・ナイト

おやすみなさいアイ・ウィッシュ・ユー・スリープ・ウェル

 彼女はソファーから立ったが、ドアの外まで見送ってはくれなかった。もちろん、彼女にそんなことを期待しているわけではない。むしろ、彼女に背後を取られる方が気になる。

 さて、ハロルドの動向に動向に注意して、と言われたが、どうすればいいのか。仲良くなったディーラーや警備員を総動員して探すくらいしか思い付かない。そして奴はジャンヌにどう関わっているのか? まるで想像も付かない。

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