#9:第4日 (11) カウンティング・ミス?
開演時間になって、ブザーが鳴り、客席の照明が落ちる。
司会の男が、今宵のこの場にウクライナの歌姫をお招きするのは大変名誉なことです、などと口上を述べている。いいからさっさとマルーシャを紹介しろ。
「
拍手と共に、舞台袖から白いドレスの女がしずしずと現れる。あの美貌、あのプロポーション。間違いなく俺が知るマルーシャ本人だった。客席からどよめきが起こる。恐らく彼女の美しさに圧倒されたのだろう。隣にいるジョアナも彼女の登場の瞬間に息を呑み、拍手を忘れていたくらいだからな。
実際、今夜の彼女の美しさは、船上のあのステージとは桁違いだった! あの時は余興、今夜は仕事と言ってしまえばそれまでだが、
「マドモワゼル・マルーシャ、ようこそモントリオールへ。この街の印象をお聞かせ下さいますか?」
「モントリオールへ来たのは2度目ですが、以前来たときからとても魅力を感じていて、それは今回も変わりませんわ。美しい風景、美しい建物、親切な人々、美味しい料理に、華やかなファッション。モントリオールは北米のパリと呼ばれるそうですが、私はパリよりもモントリオールの方が好きです。もちろん、カナダの中で最も好きな街ですわ」
会場から期せずして拍手が起こる。教科書どおりの褒め方だと思うが、彼女が言うと心の底から褒めているように聞こえる。
それに、彼女の発音が魅力的だ。俺には東欧訛りの英語に翻訳されて聞こえるが、恐らく“ウクライナ訛りのフランス語”で話しているのだろう。話し方で催眠術をかけているわけだ。
それから司会は彼女のドレスを褒めたが、何ともぎこちない話し方だ。おそらくはこのカジノきってのやり手の司会者だろうに、彼女の前では素人同然だな。船上の司会者の方がいくらかましだったように思えるくらいだ。
「今夜はモーツァルトの7大オペラから選りすぐった名曲を彼女に唄って頂きましょう。それでは最初は『フィガロの結婚』より、『愛の神よ、照覧あれ』です! ……演奏はモントリオール交響楽団です」
緊張のあまり、オーケストラの紹介を忘れて後付けになってしまったようだ。だが、オーケストラ・ピットに立つ指揮者すら緊張しているのが見て取れる。
演奏が始まる。俺が知らない曲だ。マルーシャは悲しげな表情を作った後は身動きもしない、と思ったら前奏が1分近くも続き、ようやくマイクを上げた。そして会場が彼女の歌声に支配される瞬間がやって来た。
"Porgi Amor, qualche ristoro
al mio duolo a'miei sospir."
感動しないように心構えしていたつもりだったが、無駄だった。魂が揺さぶられるというのはこのことだ。歌詞の意味すら解らないのに、愛に苦悩し、安らぎを求める女の気持ちが伝わってくる! もちろん、マルーシャの表情と仕草のせいでもある。
"O mi rendi il mio tesoro,
O mi lascia almen morir."
笑顔を絶やしたことのない教授すら表情が固まっている。ジョアナは息をも止めているように見える。この会場の中で、幾らかでも冷静な心を留めているのは俺だけだろうという気がする。それだって、嵐の中の小舟のように今にもひっくり返されそうなのだが。
3分余りで曲が終わり、オーケストラの音が止んだ。だが、誰も拍手しようとしない。船の時と同じだ! 司会者すら拍手を忘れてるんじゃないか。
動こうとしない手を無理矢理動かして、1度、2度と拍手する。催眠が解けたかのように、教授も拍手する。そして瞬く間に会場全体が拍手の渦に包まれる。そしてそれが鳴り止まない。ほとんどの客が立ち上がっている。1曲唄っただけで!
これはもう、
「ありがとうございます、マドモワゼル・マルーシャ、1曲目から素晴らしい歌声です……」
ようやく役割を思い出した司会者がマルーシャに近付く。その時の、マルーシャの笑顔といったら! さっき唄っていたときの、あの苦悩の表情は何だったのかと思うほどだ。
司会が二言三言話しかけているが、つっかえてしまって手元のメモを見ながらでないと話せない。緊張と感動のあまり、段取りまで忘れてんじゃねえよ!
そしてマルーシャは2曲目、3曲目と唄い上げていくが、会場の感動と興奮がどんどん高まっていくのが判る。それを冷ますためであるかのように、歌を小休止してインタヴューになった。
舞台上の小道具であるソファーにマルーシャと司会が座り、オペラ歌手を目指したきっかけなどを聞いている。まだ20分も経っていないが、これ以上聞いているとあの魔力に取り込まれて最後までここを離れられなくなるに違いないので、中座を決意する。
教授とジョアナに声をかけたが、教授はいつもどおりの笑顔に戻っていたものの、ジョアナは茫然自失といった感じだった。
「残念だね、あの素晴らしい歌を最後まで聴けないとは」
「仕方ない、今日は賭場の見回りをだいぶサボっていたんでね」
二人と握手をして別れたが、教授はやはり
キャバレーを出てフロア・マネージャーを探し、後でマルーシャにメッセージを届けてくれるように頼む。「親愛なるミス・マルーシャ。今夜、公演後、会いたい。君の真実の友、アーティー」。我ながら陳腐なメッセージだ。
それから警備詰所へ行き、映像監視員に、4時以降に来たカウンティング・チームのヴィデオを見せてもらう。
「ずっと来ています。2チームずつです。ディーラーが見つけきれないテーブルもありましたが、映像で顔から割り出しています」
初顔の監視員だったが、昼間の男と違って協力的だ。「マレー主任から、
カウンティング・チームは、昼間と同じく2時間毎に交替しているようだが、昼間と同じ人相の人間はいなかった。8時からは、9チーム目と10チーム目が来ている。9チーム目は男女のペア、10チーム目は女4人組。4人組のうち、テーブルに入っているのは二人だが、4人で相談しながらやっているようにも見える。
「2時台はディーラーが1チームしか見つけられなかったらしいが、もう1チームは見つけた?」
「はい、もちろん。映像を出しましょうか?」
「頼む」
監視員が映像をディスプレイに出す。マーゴのテーブルじゃないか。まさか彼女が見つけられないとは。
「それが、変なんです。映像でカードの配送を確認してコンピューターでチェックしたんですが、最初はカウンティングをしていたようなのに、途中からやめているんです」
「やめてると言うと……」
つまり、カード・カウンティングでは、残りのカードの中の各数字の枚数によって引き方を変えるのだが、映像からは、カウンティング・チームは正しい戦略を採っていないように見える。それは、カウンティングをやめたか、間違い続けたかのいずれかに思える、と監視員は言うのだ。
メンバーはカティーのところにも来た初老の男とにやけた若い男だが、初老の男はやはり落ち着いた態度、若い男はマーゴの気を惹いて笑顔をもらって喜んでいる、というように見える。浮かれたような若い男の方はともかく、初老の男までカウンティングを間違えているとは思えないのだが。
「解った。昼間、彼女に聞いたときは、そんな客はいないと言っていたんだが、彼女が気付く前にやめたのかもしれないな。彼女は明日も来るはずだから、訊いておくよ」
「お願いします。マレー主任も気にしていて、彼女に連絡を取ろうとしたんですが、電話がつながらないそうで」
重役と食事らしいから、と言い残して詰所を出る。賭場へ行って、カウンティング・チームを直接見てみることにする。9時を過ぎたので先ほどとテーブルを変わっているはずだが、監視員がメッセージで伝えてくれることになっている。すぐに連絡が入り、テーブル番号を教えてもらった。
男女のペアの方に行くと、見覚えのある尻が見えた。ミレーヌだな。近付く前に、メッセージを入れて振り向かせる。いきなり後ろから声をかけたら、喜んで大声を出すかもしれないからだ。嬉しそうな顔でミレーヌが近寄ってきて、“元気な小声”で言った。
「アーティー
そんなはずあるか。まあ、賭場を去る前に探して話しかけるつもりだったから、都合がよくもあるが。
「そこのテーブルにカウンティング・チームが来ているそうだな」
「はい、私も見張るように言われています。特に、周りのお客様の方ですが」
うん、それは解る。彼らが偵察に来ているのなら、周りでその情報を共有している奴らがいるかもしれないから、それを探せということだろう。ディーラーも気にしているだろうが、周りの客よりはテーブルの方に集中しないといけないから、それは警備員の仕事ということだ。
「それらしい客は?」
「今のところは見えません」
「F1ドライヴァーはもう全員帰った?」
「いえ、まだ一人だけ残っていて、別のテーブルに入っているようです。あの、アーティー
「何?」
なぜミレーヌは俺のことを“アーティー
「就寝時間と起床時間のことでご相談が」
「後でもう一度来るから、その時に話そう。今はカウンティング・チームの見張りを優先だ」
「了解しました」
「二人で固まって立っているのはよくないから、少し離れよう。しばらくしたら、俺は別のテーブルの方へ行く。10時頃にもう一度会おう」
「了解しました」
ミレーヌはカロリーヌほど敬礼をしない。カロリーヌはやり過ぎだと思うが、どうしてその中間の、程よい感じにできないのだろうか。
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