#8:第5日 (3) モデルの依頼
他にすることがないので昼食にしようと思うが、ホテルに戻るとまたデボラに絡まれそうな気がするので、近くのレストランに入る。今頃になって気付いたが、この辺りはやけにレストランが多い。
適当な店に入ってお薦めの料理を訊いたが、牛肉のビール煮込みだと言う。確か
12時前なのでまだ店は空いているが、他の客はみんなビールを飲んでいる。料理もなしにビールだけを飲んでいる客もいたりして、平日だというのに一体どうなっているのかと思う。ただ、俺が心配するようなことでもないし、そもそもここは仮想世界だし。
料理が運ばれてきた。ストーフヴレースという名前だそうだ。そして例によって、大量のフライド・ポテトの付け合わせ。明日はかなりの運動をしないといけないだろうな。うまい。赤身肉だな。うまくてまた食いたくなるからこういう食べ物はよろしくない。フライド・ポテトもうまい。明日は絶対これを食わないでおこう。
1時まで時間を潰してからデ・ルイエンへ。地下水路の探検ツアーに参加する。ヘルメットを被って長靴に履き替えてから、案内人に連れられて階段を降りる。煉瓦の巨大なトンネルの中に出た。架空の国で見たワイン貯蔵庫を思い出す。
このトンネルが中世の頃から町の地下に縦横に張り巡らされていた、と案内人が言うと、見学者たちが「ほう」と感心する。ヨーロッパの観光客が中心だからこの程度の感心度で済むが、合衆国民ならもっと大騒ぎになっていただろう。
中央の溝にはまらないで下さい、という注意の後、案内人の後に付いて歩き出す。全長が何キロメートルで、などと説明しているのが聞こえるが、マイルに換算するのが面倒なので聞き流す。ところどころ、青い看板があるが、それを見れば地上のどこの通りの下にいるかが判るようになっている。
様々な色でライト・アップされているところがある。赤いライトで照らされていると、アドヴェンチャー映画の一幕のような気がしてくる。壁に写真が飾られているところがあって、それを見ながら案内人が地下水路の歴史を解説する。
下への階段を降りると、水が満々と流れているトンネルに出た。ここから短い距離だが、ボートに乗ることができる。遊園地のライド・アトラクションを思わせる。ワニが出ないことを祈る。
客がみんな乗ると、案内人が先頭に立ってボートを操作する。天井が低くて、座っていても手を伸ばせば天井に触れそうな気がする。ワイヤーで引っ張られているような感じでボートが数十ヤード進むと、もう降りなければならない。
階段を上がって、いくつものトンネルがつながる広い空間を見たり、地上に通じる煙突を下から見上げたりして、1時間ほどでツアーが終わった。奪われた聖杯を奪還するアクション映画の撮影には使えそうだが、今回のターゲットとは関係なさそうだった。
時間を潰すのが面倒になったので、モード・ナシーへ行く。昨日だって約束の時間より早く行っても入れたのだから、今日だって入れるのではないかと思ったからだ。が、やはりその考えは甘く、4階まで上がったら、学院の入口のドアは閉まっていた。一昨日は開けっ放しだったので中を覗けたが、今日は電子錠までかかっている。これは忍び込むのも無理だな。
とりあえず本屋にでも、と思って階段を降りていると、下から男が上がってきた。見覚えがある姿だ。ケニーだな。遠目に見たとおり、一見してアジア人の血が混じっていると判る顔立ちで、ハンサムだが、どことなく不自然な感じがする。
見たことを悟られないように、と思ったが、あいにく視線が合ってしまった。だが、すれ違っても向こうから声をかけてくるでもなく、お互い知らんふりをするような感じで上と下に分かれた。やっぱり男には声をかけにくい。向こうだって同じだろう。そう考えると、マーシアンは偉い。不信感を抱かせることなく男に話しかけられるんだから。
1階へ行って本屋に入り、昨日ステファンが言っていた、白と黒の効果に関する本はないかと店員に訊いてみた。できれば若い女の店員が良かったのだが、あいにくと中年婦人だった。ベルギーは中年婦人が多く働いている国だということなのだろうと思っておく。
店員は端末で検索していたが、本棚に行って本を取ってくると、これはどうかと勧めてきた。『白と黒の進化』というタイトルで、薄っぺらい割に値段が高いが、金には困らないので買うことにした。フランスのデザイナー――名前の読み方がわからない――が書いた本の英訳らしい。
本屋を出て、吹き抜けの階段に座りながら最初の方を斜め読みしてみたが、図版が多くて文章が少ない。これならステファンがしゃべっていたことの方が多いくらいだが、ファッションは言葉よりも図の方が解りやすいので、いいとしよう。
斜め読みをやめて最初から全部読んでみたが、40分ほどしかかからなかった。内容としては、ステファンが言っていたことをわざと難しく書いているようなものだった。つまり、値段の割に大したことは書いていないということだ。
3時まであと5分ほどなので、再び4階へ行く。エレヴェーター・ホールにケニーがいる。俺のことをじろりと睨むが、話しかけてこない。もちろん俺も話しかけない。考えてみれば、今までのステージで俺の方から男の
時計が3時を指して、しばらくは何事もなかったが、やがてドアが開いて生徒がわらわらと出てきた。授業が終わったのだろう。ざっと数十人。こんなにいたのかと思うほどだが、人種も年齢層もバラバラだ。
その出て来る人の流れに逆らって、ケニーが中へ入っていく。なかなか行儀が悪い。ぶつかられた生徒がぼやいている。エレヴェーターの前に人が溜まると、みんな階段を降りていく。
流れが切れかけたところで、俺も入る。若い女がドアを押さえてくれていたので、礼を言うと笑顔を返してくれた。嬉しいことだが、生徒でもない俺が入っていくことに疑問を感じていなさそうだったのは、やはり問題だと思う。
しかし、さすがに職員には見咎められた。また中年婦人だ。ステファンと約束があると言うと、「探してくるので、そこで待っていて」と言われ、入口付近で佇む。ケニーはうまく入り込めたようだが、どこへ行ったのかな。セシルは来ないのだろうか。しかし、2分もしないうちにステファンがやって来た。
「やあやあ、よく来てくれたね。服はちゃんと完成してるよ。でも、見てもらおうと思ってたんだけど、モデルがいなくってね。妹に頼もうかと思ったんだけど、あいつ、背があまり高くないもんだから、きっと合わないと思って。あんた、モデルができそうな女の人知らないかな? ああ、そうか、こないだも訊いたんだったか」
「マネキンじゃあダメなのか」
「それがダメなんだなあ。着て歩いてくれないと意味がないんだよ。いや、意味がないとまでは言えないけど、せっかくのデザインの意図が半分も活かせないことになっちゃうんだ。参ったな、あの病院の看護士を何とかして連れてくるかあ。でも、まだ仕事中だろうなあ」
ステファンが頭をガリガリと掻きながら考え込む。俺も本当は一人知り合い、というかプロのモデルを知っている。もちろん、セシルのことだが、どうやって連絡を付けたらいいのか判らないのでは、呼ぶこともできない。
「しょうがない、マネキンを無理矢理動かすかあ」
ステファンが呟いたとき、廊下の奥でどこかの部屋のドアが開いて、プロポーションのいい女が出てきた。すぐその後からもう一人若い女が出てきて、先の女に握手を求めている。そして更に数人の男女が出てきた。おやおや、プロポーションのいい女はセシルじゃないか。握手をしているのは菓子屋で見かけたスザンヌだな。やはり彼女たちの間に何かあったんだ。
「あっ、あの女!」
ステファンは言うが早いが駆け出すと、セシルとスザンヌの間に割って入り、セシルに何か言っている。恐らくモデルになってくれと頼んでいるのだろう。
ゆっくり追いかけていって、二人の様子を眺めていたが、セシルは首を横に振りながら何か言っている。ステファンは何とか食いつこうとしているが――フランス語じゃないか、あいつ、しゃべれたのか――、セシルはあくまでも首を横に振り、ステファンを置いて歩き出そうとした。が、向かう先に俺がいるのに気付いて立ち止まった。別に、俺が彼女の前に立ちふさがったわけではないのに。
「ヘイ、ステファン、その
「間違ってる? 何のこと?」
ステファンは俺とセシルを見比べるようにきょろきょろしている。
「彼女はモデルみたいな
「セシル・クローデル? 知ってるよ! えっ、でも、まさか、本物? 確かによく似てるとは思ってたけど、本当の本人なの? そりゃすごいや!」
驚いているのはステファンだけで、スザンヌの他、周りにいる3人――池の端の画家と、付き添いの女と、もう一人は全く知らない――は誰も驚いていない。みんな知ってたというか、セシルが正体を明かしてたんだろうな。しかし、彼らを集めて一体何をしていたんだろうか。
「ああ、いやいや、大変失礼しました。本物のマドモワゼル・セシル・クローデルだったのに、気付かないなんて。でも、それでしたら、ぜひ、僕がデザインした服のモデルをお願いしたいんです。1時間、いえ、30分でも結構ですから」
「ステファン! スーパー・モデルにそんな気軽にお仕事を頼むなんて、失礼よ! マドモワゼル・クローデル、どうかお気になさらないで下さい。彼、ちょっとおかしいんです。昨日、徹夜したらしいので、きっと頭がぼーっとしてて、自分でも何言ってるか解ってないんです」
スザンヌがステファンの“暴走”を止めようとしている。僕は正気だ!とステファンが言い返す。さて、どうしたものかな。
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