#8:第5日 (4) 二つのスケッチ・ブック
「この
セシルが俺に向かって訊く。どういう訳か、今朝までよりも若干機嫌の良さそうな顔をしている。さっきまで、そこの教室で何かやっていたようだが、それに関係があるのだろう。
「そうだな、そう言ってもいいだろう」
友だちというのがキー・パーソンを指すのなら、間違っていない。
「あら、そう。だったら、坊やの言うことを聞いてあげてもいいけど」
「本当ですか! ぜひお願いします!」
「ステファン、もういい加減にして! マドモワゼル・クローデル、いいんです、そんなことまでしていただかなくても」
スザンヌがあくまでも宥めようとしているが、セシルは聞く耳を持たず、俺の方を見て言う。
「その代わり、あなたに貸しを作ることになるけど、それでも構わない?」
初めて見る、セシルの挑戦的な笑みだった。ほら、そういうことを言うと思ったから、ステファンに加勢すべきかどうか迷ってたんだ。さあ、どうしようか。
「貸しでもいいが、もしステファンのデザインが気に入ったら、帳消しということでどうだろう?」
「
そううまく行くもんですか、という冷めた視線でセシルが言った。ああ、そうだろうけどねえ、この場合、俺にはそういう選択肢しか残されてないんだよ。
「引き受けて下さるんですね!? ありがとうございます! では、どうぞこちらの部屋へ」
「やあ、君たち、ダフィット、ニールス、それにロイス」
人垣の向こうから声がして、顔が見えた。ケニーだな。うまく潜り込んでいたようだが、ようやく目的の人物に会えたというわけか。とすると、やっぱりそこの3人ともキー・パーソンズなんだな。画家と付き添い女はそうだと思っていたが、まだもう一人いたのか。
「ああ、サヌーさん、あなたも来てたんですか」
見覚えのない顔がそう言って振り返る。たぶん、これがダフィットだな。どこに行ったら会えたんだ? それにケニーのファミリー・ネームはセーノだとセシルが言ってたはずなんだが、サヌーとどっちが本当なんだ?
「今日もこれから、少し話をいいかね」
「僕はいいですよ。ロイス、ニールス?」
「あっ、はい……」
「私もいいです」
「そうか。下のレストランを予約しているから、そこで……」
「いえ、ここの教室でお願いします。空いているところを探しますから」
ロイスと呼ばれた付き添い女が、ニールスに目で合図をしてから廊下を向こうへ歩き始めた。ケニーと、ダフィットもそれに続き、ニールスも付いて行こうとしたとき、セシルの声が飛んだ。
「ニールス」
「あっ、はい……」
「私が昨日言ったこと、忘れないようにね」
「……はい、大丈夫です」
そしてニールスは先に行った3人の後を追った。前に美術館のレストランで見た時は、デザイナーになることを悩んで憂鬱な顔をしていたように思うが、セシルに声をかけられた後は、すっきりした顔に見えた。さて、裏で何があったのだろう。それにしても、セシルは手広くやってるものだな。
「えーと、そろそろ僕の方にもお越し頂きたいと」
事の成り行きを、無関心そうに眺めていたステファンが呟いた。
「いいわ。スザンヌ、30分、いえ、1時間くらい待っていてくれるかしら。昨日のお店で、どう?」
「はい、解りました。お待ちしています。あの……あの、本当にありがとうございました」
スザンヌはそう言って改めてセシルの手を両手で握りしめてから、スケッチ・ブックを大事そうに胸に抱えて出口の方へ歩いて行った。んん、スケッチ・ブック? 確か、なくなったと言っていたはずだが、出てきたのか。もしかして、セシルが見つけ出した?
「それじゃあ、どうぞこちらへ」
ステファンに案内されてセシルがゆっくりと歩き出したが、ちらりと俺の方を振り返った。付いて来ても構わないわよ、という合図と解釈するので、もちろん付いて行く。
さて、セシルはステファンのデザインした服を気に入るだろうか。ステファンは廊下をずっと端まで歩いて行き、角を折れて別の棟へ歩いて行く。昨日、会議室から窓越しに見えていた部屋の方だ。その間に、携帯電話を取り出して誰かと話している。
それから、とある部屋のドアを開けた。会議室の半分くらいの大きさの部屋で、マネキンが大量に並んでいる。半分くらいは服を着せられていて、もう半分は裸だった。女の形のマネキンの方が多い。そりゃ、服は女用の方が圧倒的に多いからな。ステファンはパイプ椅子を持って来て、セシルに勧めた。
「まず、コンセプトを説明いたします」
座ったセシルの前にステファンが立って言った。セシルが黙って頷く。初めて見るパンツ姿だ。そのダーク・グレーのパンツに包まれた長い脚を組んで、膝の上に手を置き、ステファンを見つめている。
立ちん坊は嫌なので、俺もパイプ椅子を持って来て、二人を横から見る位置に座った。ステファンはスケッチ・ブックとマネキンに着せた服を使って、いつものように熱弁を振るっている。ただし、ペースがいつもよりゆっくりだ。フランス語でしゃべっているからだろう。その分、身振り手振りが激しい。
「それで、歩いたときにこの布がこのように動くと、光の……効果、ええと、
「
「えーと……」
セシルが、顔の前に人差し指を立ててステファンの言葉を制した。顔から指がかなり離れているので、“シー”ではない。が、ステファンは困ったなというような顔をしている。
「慣れないフランス語は使わなくていいわ。フラマン語でお話しなさい」
ステファンの冴えない表情が一気に晴れて、笑顔が戻った。さすがの演説家も、フランス語では苦労していたようだ。英語以外しゃべれない俺には全く解らない苦労だな。ステファンは両手を広げて感謝の意を表した。
「お優しいご配慮ありがとうございます。助かります。フランス語は日常会話しかできないので」
「いいから、続けて」
「はい。ええと、それで、歩いたときにこの布がこのように動きますので、透光効果により立体的な動きを持つ残像が得られることになります。しかもこれはこの形がそのまま動くのではなく、例えば人型ですとあたかも歩いているかのように見えますので、これまでにない斬新な視覚効果が」
ふむ、確かにそれは面白い。歩いているだけで動く影絵芝居が見られるって訳だ。来ている本人はよく見えないだろうが、ファッションとしての服は他人が見るもの、他人に見せるものだから、それでいいのだろう。
更にステファンが説明を続けている間に、ドアが開いて若い女が一人入ってきた。奴が呼んだのだろうか。美人だが、ステファンに似ていないこともない。さっき言っていた妹かな。だが、奴は確か、一人で住んでいるとか言わなかったか?
「以上ですが、いかがでしょうか?」
ステファンの説明が終わった。最初はフランス語だから丁寧な言葉遣いに聞こえるのかと思ったが、いつもしゃべっているフラマン語とやらに戻っても丁寧な言葉遣いだった。俺と話すときはぞんざいな口の利き方をしているのに、けしからんな。
「ムッシュー・ナイト」
「何か?」
なぜかセシルが俺の方に話しかけてくる。機嫌がいいでも悪いでもない、気だるそうないつもの表情に戻っている。
「デボラを呼んで。彼女の方がこの服は似合うと思うわ」
「いいけど、君は着ないつもり?」
「着るわよ。ただ、対比させた方が、坊やの言う効果が本当に出るかどうか、確かめやすいの」
「なるほど。しかし、デボラはホテルにいるかな」
「いるはずよ」
一緒に昼食を摂ったらしいから、午後からデボラがどういう予定か知っているのかも。さて、どうやって呼び出そうか。俺が
「ステファン、ヒルトン・ホテルに電話を架けて、ミス・デボラ・ヘルシュラグを呼び出してくれ。アーティー・ナイトの代理人として話があると言うんだ」
「ヒルトンに? でも、あんたが架けてくれればいいのに」
「モデルとの出演交渉もデザイナーの仕事の一つだろ。現にセシルには自分で交渉したじゃないか」
「ああ、それもそうだけど」
ステファンは解ったような解らないような顔をしていたが、議論している暇はないと悟ったのか、鞄から携帯電話を出してきて発信した。
「ヒルトン・ホテル? こちらはアーティー・ナイトの代理人のステファン・キースリンガーという者だが、そちらに宿泊しているメフラウ・デボラ・ヘルシュラグにつないで頂きたい……ところで、デボラ・ヘルシュラグって誰? モデルなの?」
呼び出しを待っている間にステファンが俺に訊いてきた。
「モデルじゃないが、モデル並みにいいプロポーションをしている俺の知り合いだ。そう、この前、病院で会った看護士以上のプロポーションの持ち主だ」
「へー、そりゃいいや……ハロー、メフラウ・デボラ・ヘルシュラグ? こちらはアーティー・ナイトの代理人の……」
1分ほどで、出演交渉は終わった。
「10分くらいで来るって」
「
セシルが言った。
「ああ、どうぞ。シルケ、10分くらいしたらデボラって女の人が来るから、入口のところで待ってて」
「解った。それとは別だけど、あなたのスケッチ・ブックを預かってきたから渡しておくわ」
シルケと呼ばれた女が、持って来たスケッチ・ブックをステファンに手渡す。
「僕のスケッチ・ブック? この前なくしたやつかな。どこにあった?」
「知らないわ。でも、デュシャンっていう先生が、あなたに渡しておいてくれって」
ステファンはふーんと言いながら渡されたスケッチ・ブックをぱらぱらと見ていたが、シルケはその間に出て行った。
「ステファン、あれは誰だ?」
「僕の妹だよ。この秋からここに入学する予定なんだ。今は学校が春休みなんで、こっちに僕の手伝いがてら学習に来てるんだ。彼女の方が僕よりデザイナーとしての才能があるんじゃないかな。昨日言ってた三つの才能も兼ね備えてるしね」
ということは今週はずっとこっちにいるんだろうから、彼女もキー・パーソンだったかもしれないな。教会なんか行かずに、もっとこの辺りでうろうろしときゃ良かった。そうしたら彼女とどこかでぶつかってたかもしれないのに。
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