#8:第5日 (2) ルーベンスの家

 広場を通り抜け、北口を出て、マリア・テレージア通りレイに入る。

「あなたはどうして身体を鍛えてるの?」

 デボラがスキップをやめて、横に寄り添ってきた。

「元はフットボールのプレイヤーだったからだ。プロじゃあないが」

「フットボール? ああ、アメリカンね。ルールはよく解らないけど、TVで見たことはあるわ。じゃあ、やっぱり、あなたって頭がいいのね」

「どうしてそう思う?」

 フットボールをよく知らない人間は、体当たりばかりしている乱暴なスポーツであって、頭を使うなどとは全く思っていない場合が多いのだが。

「友人に聞いただけだけど、ゲームのためにとってもたくさんのプレイを憶えるんでしょう? 100とか120とか言っていたと思うわ。特に、OLオヴェンシヴ・ラインっていうポジションの人が一番たくさんプレイを憶えてなきゃいけないって。OLって、どうしてそんなにたくさん憶えなきゃいけないの?」

 フットボールをよく解ってないのにOLに興味を持つとは恐るべし。フットボール・ファンでも、OLやDLディフェンシヴ・ラインの動きを見てるのはかなりのカナサーだ。やっぱりマーシアネスかもしれない。

「それを説明するには、ポジション毎の並びアラインメントを理解してもらう必要があるんだが」

「基本的なことは知ってるわ。オフェンスで最初にボールを持ってる人がセンターでしょ。その左右に他のラインメンが二人ずついて、そのさらに外側にいるのがレシーヴァーで、後ろにいるのがバックス。QBクォーターバックRBランニングバックだったかしら。ディフェンスは4-3-4とか3-4-4とか言ってたと思うけど、それ以上のことは知らないわ」

 ああ、それだけ知ってりゃ十分だな。合衆国民でもなく、しかもスポーツにそれほど興味のなさそうな女なのにさ。

「センターはまずQBにボールを渡す。QBはバックスにボールを渡して走らせるか、レシーヴァーにパスを投げる」

 バックスが走るときはOLはディフェンスを押し込んで走路を開き、パスの時はQBが捕まらないようにブロックする。それぞれいくつものプレイが用意されているが、バックスやレシーヴァーはプレイ毎に決められたタイミングで決められたルートを走ればいいのに対し、OLはどのプレイにおいてもディフェンスの様々な並びアラインメントや動きに対する受け持ちアサインメントを正確に憶えなければならない。それは非常にたくさんのヴァリエーションがあり、なおかつゲーム中にはラインメンどうしの無言の連携もあり、迅速な判断と素早い動きが求められる。

「ブロックが失敗すると目立つ、成功すると目立たない。そういう意味では精神的に強いことも要求されるポジションだ。プレイの成否はおろかゲームの勝敗はOLの力量によって決まると言ってもいいな」

「わかったわ、頭脳と体力を駆使して黙々と闘う名も無き英雄たちアンクレジッテッド・ヒーローズってわけね。あなたもOLなの?」

 アンクレジッテッド・ヒーローズというのはなかなか斬新な表現だ。一般に英雄というのは名前が出るクレジットものだが、リストの下の方になったら目立たないということを端的に表していると言える。

「OLは中学の時にやったことがある。あまりゲームに出してもらえなかったが、体格だけは良かったからオフェンス、ディフェンス色んなポジションの控えに使い回されて、今はQBだ。だが、そこでもやっぱり控えで、言うなればアンクレジッテッドQBクォーターバックだな」

「でも、控えのプレイヤーがいなければゲームはできないわ。一人の英雄に頼りすぎるのって、リスクがあるものね。それに、あなたはきっと本物の英雄ヒーローになれると思うの。私がそう思うっていうだけだけど」

 思ってくれるだけで十分だよ。俺はなれないのが解ってるから。

「ねえ、ルーベンスの家はもう見た?」

 ホップラント通りからワッペル通りに折れたところに、ルーベンスの家がある。ワッペル通りはちょっとした広場のようになっていて、レストランの戸外オープン・エア席があったりするが、まだ早い時間なので誰もいない。もちろん、ルーベンスの家も開いていない。

「見たよ。あまり有効な情報はなかったように思ったが」

「私、ここに一番重要なヒントがあると思ってるの。それが何かは判らないけど。判っても誰にも教えないから、安心して。でも、セシルにもここにヒントがありそうって教えてあげるつもり。もう一人には、どうしようかな、今日の夕方までにどこかで会えば言うかもしれないけど」

 中立と言っておきながら、少し偏りができたようだ。気に入った度合いに依るのかもしれない。もっとも、俺がなぜ気に入られているのかはよく解らない。

「ところで、君はこの世界に来るまではどういう仕事をしていたんだ?」

「それは、夕食の時に話すわ。今は、フットボールのことをもっと教えて。私、他の競争者コンテスタンツから色んなお話を聞くのが好きなの」

 本当に変わった女だな。将来の体型を心配していたりもしたし、元の世界に帰る気満々という感じだ。もっとも、帰れたとしてもこの世界のことを憶えているのかどうかは定かではないが。とにかく、ホテルに帰り着くまで、フットボールの話ばかりさせられた。

 着いたらコンシエルジュのところに行って、夕食のレストランを探してもらって予約。デ・フーデヴァールトという店にした。“正式に”デートを申し込み、7時に店で落ち合うことにしようとしたが、ホテルのロビーで待ち合わせたいとデボラが言う。「店に行って食事して帰ってくるまでがデート」だそうだが、なぜ俺とデートをしたがっているかについては不明だった。その後の朝食やジムにまで付いて来るし、彼女の世話係は一体何をしているのかと思う。野放しにすんなって。


 10時になったので、デボラのお薦めに従って、もう一度ルーベンスの家へ行く。今日はデ・ルイエンの地下水路見学くらいしか予定がなかったので、時間は余っている。デ・ルイエンの方は予約をして午後から行くことにした。

 受付で12フラン払って中に入る。先日は30分しか見なかったが、今回はせめて1時間は見よう。幸い、観光客も少ないのでゆっくりできる。

 まずキッチン。古い時代のものなので、かまどだ。壁に錆び付いた鍋などがぶら下がっている。棚の上には陶器製の水差しがいくつか。とても聖杯には見えない。竈の上に鳥の絵が飾られている。料理に使う鳥かもしれない。

 隣が食堂。ルーベンスの自画像がある。他の絵も何点か。暖炉の上に掲げられている絵の横にあるのは燭台かな。テーブルの上にも蝋燭式のシャンデリアが吊り下げられていた。床のタイルが白と黒で、意味ありげな模様が描かれているのだが、何も読み取れなかった。

 2階に行って寝室。ベッドは天蓋付きだが、やけに小さい。この時代は、上半身を斜めに起こした形で寝てたらしい。背もたれの高いソファーに座って寝るようなものだな。足をオットマンの上に載せると、意外に気持ちいいんだ、あの寝方は。ただ、毎日その寝方だとだんだんきつくなってくるんだが。

 おっと、余計なことを考えている場合じゃない。寝室には特に手掛かりなし。次は、元が何だったのかよく判らない部屋。全てがルーベンス時代のものではない。後年に売却したときに一部改装されているからだそうだ。ギャラリーとして使用されている。絵の他に、彫刻も展示されている。ルーベンス以外の作品もある。全作品を見るのは煩わしいが、手抜きで調査をするとデボラに悪いので、じっくり見ていく。肖像画が多いが、聖杯に関係がありそうな人物はいなかった。

 それから黄色い壁の部屋。ここはルーベンスが収集した絵が飾られていた。当時でも、ヨーロッパ各地からこの収集品を見に来た人も多いそうだ。絵の中に、大量の絵が描かれた作品がある。ヴィレム・ファン・ハーヒトの『コルネリス・ファン・デル・ヘーストの収集室』。絵の中の絵が、その原作者の画風に従って描かれているのかが気になる。ここへ来た本来の目的からだんだん外れてきてる。

 3階へ行き、特別展示を見る。ルーベンスの家族の肖像画だ。最初の妻がイサベラで、2番目の妻がヘレナ。ヘレナは16歳で、ルーベンスが53歳!の時に結婚して、二人も子供を設けたと。体力があるなあ。

 下に戻って、工房だったとされている大広間を2階から眺める。大きな作品が多い。風景画と歴史画と宗教画が入り交じっている。何のシーンを描いたものかはリーフレットを見ないと判らないが、一番判りやすいのはアダムとイヴの絵だろうか。ルーベンスが修業時代に描いた作品だそうだ。

 アダムの左手が、グラスを持っているかのような形をしている。もちろん、その時代にグラスなんてないわけだが、何を意図した形なのだろう。イヴの下半身が洋梨型だが、さすがにこれはふくよかすぎて、もう少し引き締まっている方が俺の好みかな。どうでもいいことだが。

 一つ一つの絵を、リーフレットと引き比べながら見ていると、クリーム色のスプリング・コートを羽織ったプロポーションのいい女が大広間に入ってきた。セシルじゃないか。サングラスの形は朝とは違っていて、大きめの黒縁でレンズの部分の色が薄い普通の型だが、彼女がかけているとやはり似合う。いいよな、美人は、何でも似合って。

 俺だけが一方的に彼女を観察していると申し訳ないので、一応挨拶だけはしておこう。下へ降りて、『受胎告知』を見上げているセシルの肘を小突く。唇の端にだけ愛想のいい笑みを浮かべて振り返ったが、俺だと気付くと笑みを消した。ファンに絡まれたと思ったのに違ってがっかり、ってところかな。

「俺はそろそろ庭の方に出る。君はゆっくり中を見て行ってくれ」

ありがとうメルスィ・ビアン

 たいしてありがたくもなさそうな口調だったが、競争者コンテスタンツどうしで馴れ合うのが嫌なだけだろうし、気にしないでおく。まだ見ていなかったいくつかの絵を見てから中庭へ出る。セシルの方を振り返ってみたが、まだ『受胎告知』を見上げていた。俺と違って、美術を鑑賞する目があるのだろうから羨ましいことだ。

 中庭には古井戸があるくらいで、見るようなものは特にない。ベンチが置いてあって、何人かの観光客が休憩している。“ポルティコ”を通り抜けて、庭園の方へ出る。ポルティコとはイタリア語で、列柱で支えられた破風を持つ門のことで、これもルーベンスが設計したものとのこと。上に建っている像はローマ神話のマーキュリーとミネルヴァだそうだ。

 庭園はルネッサンス風で、ルーベンスが描いた絵を元に再現されているらしい。四つの花壇があり、その一つに聖杯のような形をした巨大な植木鉢が置かれていたが、あれを持って退出するのはかなり骨が折れそうだ。

 さて、俺としてはかなり頑張って、1時間半もかけて見たのだが、やはり有効な情報は得られなかった。デボラの勘が外れているとは思いたくないし、俺自身もルーベンスが今回のターゲットに何らかの形で絡んでいるはずと思っているから、どうしても何か見つけたかったのだが、力及ばずというところかな。昨日の話じゃないが、俺は天才じゃないから、洞察力が足りないんだよなあ。目に入っていても、その裏にあるものを読み取ることができていないんだろうな。ないでおこう。

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