#8:第3日 (2) 優美な曲線

 頭を休めるために、屋上へ行く。9階から上に行くエスカレーターは、建物の中心にある。女と同時に乗りそうになったので先を譲る。少し離れて乗ると、ちょうど女の尻が目の高さに来る。ホワイト・デニムに包まれていて、この博物館で見たどの美術工芸品よりも綺麗で優美な曲線だ。どうしてそんなところにばかり目が行ってしまうのか、自分でもよく判らない。

 10階から屋上へはエレヴェーターか階段。エレヴェーターを待つのは嫌なので、階段を登る。女も登っている。跡をけて来られたとでも思ったのか、俺の方をちらりと振り返る。サングラスをしていて顔はよく判らないが、きっと美人だろうという気がする。別に、尻の形から顔の造形を想像する特技があるわけでもない。

 愛想笑いをするでもなく、階段を登るペースも緩めないでいると、女もまた階段を登り始めた。しかし、こんなところに一人で来ている女を気にせずにどうするか、という気がするが、さて、どうしようか。

 屋上は地上高213フィートで、街全体が見渡せる。中央駅も見えるし、港も見下ろせる。聖母大聖堂の鐘楼はこれの倍くらいの高さだが、それほどでもないように見えるのは気のせいだろう。

 観光客がガラス張りの壁にひしめき合っている。ぐるっと一廻りしている間にさっきの女をまた見つけたが、若い男に話しかけられて、憂鬱そうに受け答えをしていた。憂鬱そうというのは声がそう聞こえたというだけで、話の内容はわからない。俺も彼女に話しかけたいのだが、割り込んでいくほど無遠慮でもないし勇気もないので、後にしようと思う。きっとまたどこかで会うだろう、もし彼女が競争者コンテスタントなら。


 MASを出て南へ向かう。アントワープにある変わった博物館として、ダイアモンド博物館や肉屋ギルド・ハウス、プランタン・モレトゥス博物館、モード博物館、写真博物館がある。名前だけでは何を展示しているのか判らないのもあるが、肉屋は古楽器、プランタン・モレトゥスは印刷出版関連、モードは服飾だ。

 どれもこれから行く方向にあるが、ターゲットとはあまり関係なさそうなので、もし時間があれば、ということにする。しかし、時間があるということはターゲットの情報を見つけられていないことを意味するので、できれば行かずに済ませたいところだ。

 それでも、場所を確認する意味で、それぞれの前を通っていく。モード博物館の前だけは、一度通ったことがある。聖アンドリュー教会に行ったときだ。その前を過ぎ、路面電車トラムの走るナティオナーレ通りを行く。この先に王立美術館がある。

 五叉路に出て、右のフォルク通りへ入ると王立美術館なのだが、左のヒューゼン通りに寄り道する。この先の広場に、スヘルデ自由記念碑が建っている。かつてはスヘルデ川の通行権をオランダが持っていたため、ベルギーの船は自由に通れなかったが、政府が権利を買い戻したことで通行できるようになった。それを記念して建てられたそうだ。

 30フィートくらいの高さの石像で、ごちゃごちゃと装飾が付いた塔の上に、三叉槍トライデントを持った人物像が建っている。説明板もないので、観光用の地図に記載がなければ、何の記念碑か全く判らない。一目見ればいいと思うので、1分ほど眺めてから王立美術館へ向かう。

 王立美術館は1810年開館。20年ほど前の2020年に、足かけ10年の大改修を終えて再開館。ファン・エイク、メムリンク、ブリューゲル、アンソール、マグリット、ウォーテルス、デルヴォーなどのベルギーの芸術家の作品を多く揃えていて、もちろんルーベンスは専用の展示室まである。

 全部見ている暇はないので、リーフレットを頼りに、宗教画を優先して見て回る。キリストの受難の絵がやけに多い。ミサの絵もあるにはあったが、そこに聖杯が描かれている、なんてことはなかった。やはりターゲットを絵に求めるのは無理がある。ヒントすらないんだから。

 1時間ほど見てから館内のレストランへ行って昼食。混雑していてすぐには入れなかったが、案内係から10分ほど待てと言われたので待つことにする。外に出て食べるよりは早いだろう。が、5分ほど待っただけで入れた。団体が出て行ったからに違いない。

 案内された席に座り、早くできそうなサンドウィッチのセットを頼む。隣に男女が座っている。さすがは仮想世界、朝、スタツ公園で見かけた、絵描きとその付き添いの女じゃないか。恋人どうしかと思っていたのだが、雰囲気があまりよろしくない。話しかけてみたいが、こちらが一方的に顔を知っているだけなので、とりあえず聞き耳を立てる。

「やっぱり僕にはファッションは向いていないのかもしれない。絵を描く方が合っていると思うよ」

「でも、ニールス、あなたのお母さんのことも考えてあげて。あなたがデザイナーになることを、あんなに楽しみにしていたのに……」

 はあ、悩みの相談中だね。俺が座った途端にそういう話をし出すんだから、よく聞いておけということだろうな。で、聞いていると、ファッションは一部の人にもてはやされているだけで、絵画の方が世間一般の人に近い気がする、などと男が言う。それを女が必死になって宥めているのだが、どうやらこの二人は幼馴染みで、一緒にファッション・デザイナーを目指している、という感じだ。

 俺はファッションのことは全く判らないが、ファッションよりも絵画の方が世間一般に近いというのは、どうなんだろうな。絵画は一度名が売れたら、値段がどんどん吊り上がっていって、普通の人には手に入らなくなるが、ファッションはオート・クチュールは高級品だけども、同じデザイナーの廉価版ブランドもある。

 ということは、どちらかというとファッションの方が世間一般に近い気がするんだけどね。そんなことを隣の席からいきなり俺が進言したら、頭がどうかしてると思われて逃げ出されるんじゃないかと思うので黙っている。

 向こうは二人で話しながらゆっくり食べているし、こちらは一人でがつがつ食べているから、俺の方が先に食べ終わって、これ以上話を聞いていられなくなった。公園で無理矢理にでも声をかけていたら、ここでも話しかけることができたかなあ。仕方なく、先にレストランを出る。

 エントランスの階段を降りようとすると、下から見覚えのある女が上がってこようとしている。やあ、やっぱり会えたねえ。MASで見かけた美しい尻の女だよ。

 俺が降りずに立ち止まっていると、女も階段の途中で立ち止まった。そしてサングラスを下にずらして、上目遣いに俺を見る。この世界に来て今まで何人もの美人を見てきたが、これほど気だるい感じが似合う女は初めてだな。

 しばらく見つめ合った後で、右手をさっと左へ振りながら、エントランスの横の太い柱の方に向かって歩く。こちらへどうぞ、と合図したつもりだが、果たして。女は階段を斜めに上がってくる。通じたようだ。

 柱にもたれて待っていると、女がすぐ横まで上がってきた。階段の一段下に立っているが、それでも身長が高いのが判る。6フィートに2インチほど足りないくらいだろうか。そしてサングラスを外して腕を組み、澄んだ青い目で俺の方をじっと見つめながら言う。

「どちら様だったかしら?」

 ハスキーで、いい声だ。胸の辺りまで届く金髪で、顔の輪郭は卵形、目尻が少し下がっているがその分眉がいい感じに吊り上がっていて、鼻筋が通っていて、首が細くて、そしてプロポーションはもちろん申し分ない。ただし、胸の大きさはデボラに負けている。

競争者コンテスタントのアーティー・ナイトという者だ」

 俺がそう答えても、女は黙っている。が、競争者コンテスタントという言葉を聞き返してこないのは、それを知っているということだ。

競争者コンキュランって何のこと?」

 おやおや、聞き返してきてしまった。外したのかなあ。あるいは、試されてるんだろうか。美人は気だるい表情を少しも崩していないが、怒ってはいない。変な男に声をかけられて迷惑している、という風でもない。とりあえず話を続ける。

「知らないふりをしても俺には判ってるよ。君の目を見ればね。知性インテリジェンスが煌めいているのさ」

「面白いこと言うのね」

「誰かから言われたことはない?」

「あるわ」

 どうやら話が通じたようだ。デボラが彼女にも同じことを言ったのではないかと思って試してみたのだが、当たっていたらしい。さて、どう話を進めるかな。

「君の調査の邪魔をしたり、迷惑を掛けたりしないのは保証するから、一つ協力して欲しいことがある」

「どんなこと?」

「もう一人の競争者コンテスタントを見かけたら、俺に教えて欲しい。逆に、俺が見かけたら、君にも教える。どうだろう?」

「興味がないわ」

 即答で拒否されてしまった。どうして俺の方から女の競争者コンテスタントに声をかけると、こう冷たくあしらわれるのだろう。

「お互いの行動がかち合わないようにするのに、都合がいいと思うんだがな」

「いつもそうしてるの?」

「いつもじゃない。君のように話が解りそうな相手を選んでいる」

 と言いつつ、この“マーシアン協定”を俺が他の競争者コンテスタントに提案したのは初めてなんだよな。どうして男には提案する気になれないんだろう。美人はこちらを値踏みするような目付きになった。さて、いくらと出るのか。

「私が教えたら、あなたは代わりに何をしてくれるの?」

 交換条件を要求してくれるのはありがたい。こちらの提案に乗ってくれる可能性があるのを示してくれたわけだから。

「可動範囲を教える」

「要らないわ。いつも気にしてないもの」

「キー・パーソンズを教える」

「要らないわ。もう二人も会ったもの」

 なるほど、ゲームのヒントは必要ないわけだ。ターゲットが何かを教えると言ったら、さすがに別だろうけど。さて、そうなると彼女には何がいいかな。

「じゃあ、君のその素晴らしいプロポーションが、もっと素晴らしくなる走り方を教えるというのは?」

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