#8:第3日 (3) 気になるモード

「何のこと?」

「今朝、走ってただろう? スタツ公園で」

 MASのエスカレーターで見かけたときに、どうもどこかで見覚えのある尻だと思ったのだが、その後、階段を上がっている尻の揺れ方を見ていて思い出した。美人の表情が少し変わった。脈あり、かな。

「どうして知ってるの?」

「あの時、君を2回追い越したんだ」

「あら、そう」

 そう言って美人は値踏みをするのをやめ、俺のことをぼんやりと眺めいたが、階段の最後の一段を上がって来てから言った。

「あれがあなただったの」

「思い出してくれて何よりだ」

「フィットネスのインストラクター?」

「そういうわけではないが、何らかのアスリートだと思っていてくれ」

「何のスポーツか言えないの?」

「言えるけど、君が知ってるかどうか判らないんでね」

 彼女の言葉は英訳されて聞こえているが、原語はこの国の言葉じゃない。恐らくフランス語だ。フランス人に“アメリカン”・フットボールを説明するのが難しいのは判っている。彼らはまず、どうして手ばかり使うのにフットボールか、と訊いてくる。

「あなた、一流?」

「全米チャンピオンになったことがあると言ったら?」

 カレッジの時のことで、もう4年も前だが、BCSファイナルに勝ったのは間違いない。ただし、俺はその年はほとんど活躍しなかった。

「じゃあ、明日の朝に走り方を教えてもらってからではいけなくて?」

「もちろん、それで構わない。時間は今朝と同じにしよう」

解ったわダコール

「君の名前を聞いていいかな」

「明日の朝ではいけなくて?」

「俺は名乗ったのに」

「セシル」

 美人はそう言ってサングラスをかけた。セシル、ね。サガンの『悲しみよこんにちは』の主人公がそんな名前だったな。小説の内容はどんなだったか忘れたよ。ファミリー・ネームを教えてくれるのは明日かな。

「これからここの調査?」

「そんなところね」

「俺はこれから現代美術館へ行くが、その後は決めてない。もし、君と行動がかち合ったら今日のところは許して欲しい」

解ったわダコール

「じゃあ、よい一日を」

あなたもア・ヴゾースィ

 セシルは口元にだけ笑みを浮かべて、美術館へ入っていった。さて、もう一人の競争者コンテスタントを見つけるのに、彼女にばかり頼っていられないから、俺ももう少し注意して見ることにしよう。美人だったら目に入りやすいんだがなあ。


 現代美術館へ行く前に、少し南にあるワーテルポールトに寄る。“水門”という意味の名前なので、ゲートのヒントになるかもしれないと思っただけだ。水門といいながら水辺でも何でもないところに建っているが、埠頭から移設されたものらしい。

 デザインは例によってルーベンス。本当にルーベンスばかりだなあ。戸口の上に紋章があって、それを2匹のライオンが両側から支えている。紋章の模様は細かすぎて見えない。必要になったらもう一度見に来ることにしよう。

 それからようやく現代美術館へ。1987年に穀物貯蔵場を改装して創設された美術館で、サイロを再利用した丸い建物が特徴だ。15フラン払って入ったが、現代美術館だけにもちろん過去の巨匠の絵画は全くなくて、どれもこれも発想が奇抜すぎて、俺には芸術かどうかすら解りかねる、という作品ばかりだった。

 もしかしたら“聖杯カリス”という名前の作品でもあるかと思って目録を見たが、それもない。そもそも、“聖杯カリス”という作品があったとして、それが壊れたワイン・グラスか何かだったら、キリスト教の関係者が嘆いて抗議をするかもしれないという気がした。

 さて、現代美術館は途中で挫折したので、時間が余っているから、他の博物館を見に行こうと思う。肉屋ギルド・ハウスは本日休館なので、他の四つの中から選ぶ。

 時間的に見てどこか一つしか行けないと思うが、どこがいいか。ダイアモンド博物館、プランタン・モレトゥス博物館、モード博物館、写真博物館。写真博物館が一番近いが、ここと同じ目に遭いそうな気がするので避けておく。その他にしても、聖杯と関係ありそうなところは一つもない。

 待てよ、モード博物館? そういえばヨルダーンス夫人の姪がデザイナーで、先ほど王立美術館で男女がファッションの話をしていて、ということは、ここに何かある?


「モード・ナシーへ向かっているようですね」

「いくつかのヒントに基づいた演繹的推理の結果ね。この点については評価してもいいんじゃないかしら」

「ヒントが解りやす過ぎるんだよ。一度、間違えて芸術学院の方へ行って、それから気付くくらいにしておくべきだった」

「ミスター・ブルー、大人しいですね。寝てませんか?」

「寝てないよ。ただ、今日の調査は少し緩慢だなあと思って見てただけ。現代美術館なんて、行かなくても良かったのに。ねえ、レッド?」

「確かに。レストランのヒントで、すぐに行動を起こしてもおかしくなかった」

「ミス・グリーンはその点についてどう思いますか?」

「それは二人の言うとおりだけど……でも、今から行く方が、時間的には一番色々なイヴェントが発生する可能性があるわよ。ブルーの期待してる、ステファンのイヴェントもありそうだし」

「そうなんだよなあ、起こって欲しいんだけどなあ。でも、あれはステファンの選択が入るから」


 モード博物館は三つの通りに囲まれた三角地帯の中にあって、建物の外形もまさに先の尖った二等辺三角形をしている。モード・ナシーという4階建ての建物で、博物館の他、ファッション専門書店と図書館、高級既製服店、そして王立芸術学院のファッション科の教室が同居している。俺にとってはもっとも場違いな建物と言える。

 それでも、ここで何らかの成果を挙げる必要がある。具体的には、キー・パーソンズの誰かと会って、何らかの情報を得る、ということだ。キー・パーソンズはここの生徒であると思われるので、だとするとそういう人間が出没するのは博物館が一番可能性が低くて、書店と図書館、それに教室を見る方がいいだろう。

 ただし、教室は生徒でなければ入れないに決まっているので、それをどうクリアするかがポイントのような気がする。

 ひとまず、これまでに見かけた3人のうちの誰かを探そう。1階の書店から。客は少なく、閑散としている。1階と言いつつ、中2階のようなところにまで書棚があるが、狭いのであっという間に見て回れる。英語の本が思ったよりも多いが、その他はフランス語の本が多かった気がする。もちろん、買う気はない。間違えて入ったようなふりをして、すぐ外へ出る。

 次は図書館。建物の奥に入るとモード博物館の受付があるが、図書館は3階で、無料で入ることができる。天井が高い。建物の真ん中が吹き抜けになっていて、ガラスの天井があるので、とても明るい。そしてその吹き抜けを昇っていく階段がある。

 内壁は下層が木目、上層が白で、階段の手すりや窓枠等に黒が使われている。これもファッションの一部か。エレヴェーターもあるが、階段を登って3階へ。このフロア全部が図書館ではなく、フランダース・ファッション研究所インスティテュートも入っているので、思ったよりも広くなかった。その方が人捜しはやりやすいのだが、ここも閑散としていて、生徒は数人いるものの、見覚えのある顔はなかった。

 あるいは、あの3人は研究所に所属しているのかもしれないが、それなら研究所にも侵入する必要がある。しかし、若く見えたからやはり学院の生徒なんだろうな

 さて、最後はその学院。4階にあって、入口までは誰でも行ける。階段を登ると、エレヴェーター・ホールの向こう側にその入口があるが、不用心なことに扉が開けっ放しだ。これなら間違えたふりをすれば入り放題だが、そのドアの近くで中の様子を窺っていると、話し声がして足音が聞こえたので、階段の近くまで避ける。若い男と中年の女が出てきた。生徒と教師かな。

「解った解った、戻るよ戻るって! ちょっと話し相手を探しに来ただけなんだ。誰も見舞いに来てくれなくて、ずっと退屈してたんだよ。誰も僕のこと心配してくれないのかな?」

「デュシャン先生がお見舞いに行きましたよ。でも、あなたは病室にいなくて、看護士と一緒に30分も探したのに見つからなかったって言って、帰ってきたんですよ!」

「30分だって? おかしいな、いつ来てくれたの、朝? 昼? 僕は昼食時以外はずっと談話室にいて、看護士にも言ってあったから、そこに来てくれれば良かったのに。いや待てよ、ほんの少しだけど、外に出たな。植物園の方に行ったんだよ。考え事をしながら歩いていて、中にも帰らずに入ってきたから。10分か15分くらいしか経っていないはずなんだ。その間に来たんじゃないの? でも、きっと30分も探してないよ。たぶん看護士の控え室で時間を潰してたんだ。あそこの女性看護士はプロポーションがいい人が多いからね。ファッションの話をしてあげてたら、ついつい時間を喰って、それで僕を見つけられなかったということに」

「いいから早く病院に戻りなさい! 丸一日は安静って言われたんでしょう? 明日も、学院から退院手続きに行くまで、勝手に出てきちゃダメですからね!」

「先生、そんなに興奮しないでよ。僕はちゃんとこのとおり安静にしてるよ。病院の控え室でも他の患者を相手にずっと話をしているだけで、暴れたりしないで大人しくしてるしさ。でも、みんなしばらく話をしているうちに手洗いに行ったり見舞いの人が来たり検査に呼ばれたりして、いなくなっちゃうんだ。だから暇で暇で仕方なくて。この後、誰か僕の見舞いに来るように言っておいてよ。ニールスでもダフィットでもヤンでもいいからさ」

医者ドクテルはなるべく話もせず頭も使わずに、病室で安静にしていなさいっておっしゃってたんです。さあ、早く戻って」

「それは参ったな、頭を使わずにいるなんて僕には耐えられないよ。たった丸一日だって、その間は死んでるようなもんじゃないか。看護士だって僕の部屋にはなかなか来てくれないんだぜ。そりゃ、彼らだって仕事があるんだろうけど、患者の相手も仕事のうちのはずだし」

「いいから早く!」

 エレヴェーターがなかなか来ないので、俺の目の前で二人がずっと話をしている。いや、話をしているのはもっぱら若い男の方で、中年の女は彼を病院に追い返したがっているようだ。でも、患者が病院から出たがってる気持ちは何となくわかるよ。俺が学生の時は、ゲームで怪我をして入院した奴はほとんどみんな抜け出してミーティングに来てたからな。抜け出さなかったのは、絶対安静だった奴と、女性看護士を口説いてた奴だけだ。

 とにかく、この二人がここからいなくならないと、中に忍び込めない。エレヴェーターが到着した音がして、ドアが開いた。さっさと乗ってしまえ。

「ああっ、ちょっと! あんた! そこのあんた!」

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