#8:第2日 (5) 菓子のアイデア
ホテルの部屋へ戻る前に、菓子屋に寄ってみる。1階のショップ街の一角にあり、ホテルの中からも外からも入ることができる。ガラス越しに中を覗くと、昨日の中年婦人が接客している。店に入るとその客が急ぎ足で歩いて来て、肩がぶつかった。若い女だった。えーと、女とぶつかったら、それはキー・パーソンなんだけど。
「あら、ごめんなさい! 急いでたので」
「こちらこそ」
しかし、女は一言だけ謝ると、そのまま早足で出て行ってしまった。何か持ち物でも落としてくれたらもっと声がかけられたんだがなあ。仕方なくカウンターの方を見ると、中年婦人が俺に気付いて声をかけてきた。
「あら、あなた、昨日の……ええと……」
名前を思い出そうとしているようだ。そういえば、俺は彼女の名前を知らない。
「やあ、昨日はもしかして、夕食のデザートを追加してくれたんじゃないかと思って、礼を言いにきた」
「まあ、わざわざありがとうございます。本当はクリーニング代を出さないといけないくらいなのに。ええと、
思い出したか。大したものだ。まあ、昨日はちゃんと名前を憶えていたから、ホテルに伝えて、そういう名前の客が泊まって食事に来たらデザートを出してくれ、って頼んだんだろうけどな。
「アーティー・ナイトだ。あなたは、ええと、ヨルダーンス夫人?」
胸に付けた名札に"Jordaens"と書いてあった。ジョーデンスと読みかけたが、さっき教会で見た画家の名前を思い出して、正しく――まあ、どの程度正しく発音できたのはか判らないが――読むことができた。
「そうです」
「せっかくなので、お薦めの菓子があればと思って寄ってみた。アントワープならではの菓子があれば教えて欲しいが」
「それでしたら、これはいかがでしょう」
ヨルダーンス夫人が、透明な袋に詰められたクッキーを出してきた。細長い形だが、妙なところに筋が入っている。
「
なるほど、言われてみれば手に見える。しかし、やけに長細いのはさておくとして、手の形の菓子とはセンスが今一つという気がする。もっと菓子らしい形はないものか。
「手ね。もしかすると、ブラボーの伝説に関係がある?」
「はい、そうです。100年くらい前に発明された、わりあい新しいお菓子ですが。どうぞ、試食なさって下さい」
「ああ、いや、一袋買うよ。ところで、さっき若い女と話していたみたいだけど、知り合い?」
かなり強引だが、先ほどの女のことを訊いてみた。さて、答えてくれるかな。
「ええ、そうですけど……6フラン36センティエムです。あの、ホテルの精算とご一緒にすることもできますが、どうされます?」
「そうしてもらおう。ルーム・キー・カードを見せればいいかな。彼女、何も買わなかったみたいだけど、何か別の用事?」
「ありがとうございます。こちらをどうぞ。ええ、ちょっと新しいお菓子のアイデアのことで、相談があって……」
「新しい菓子のデザイン?」
「ええ、その……2ヶ月に一度くらい、新しいお菓子を考えるんです。お客様を増やすためです。彼女は私の姪で、デザインの学校に通っていて、いつも協力してくれるんですけど……」
「デザインというと、美術学校?」
「いえ、ちょっと違うんですが……それで、今日はそのデザインのアイデアを届けてくれたんですが、せっかく考えたけど、それを描いたスケッチ・ブックを学校でなくしてしまって、代わりのラフ・デッサンしか渡せなくなったって……」
なるほど、スケッチ・ブック紛失事件、あるいは盗難事件だな。しかし、言いにくそうにしているわりには結構細かいところまでしゃべってくれるなあ。もちろん、それがシナリオなんだろうけど。
ただ、その姪の名前を言ってくれないことにはつながりができない。通っている学校でもいいけど、それを訊くのはまだこの段階では難しそうか?
「なるほど、じゃあ、観光客や女性や子供が喜びそうな、ケーキか何かのデコレーションを考えてきてくれたわけだ」
「ええ、まあ、はい」
「良さそうなアイデアはあった?」
「いえ、まだ目も通してなくて……」
「俺も今、ちょうどアイデアを思い付いたんだけど、聞いてくれないか」
「えっ?」
シミュレーター上の
「実は今日、アントワープの周辺を自転車で一廻りしてきたんだがね」
言いながら地図を広げる俺を見て、ヨルダーンス夫人は唖然としている。そりゃ、そうだろうな。菓子にもデザインにも縁がなさそうな男が、いきなり新しい菓子のアイデアを思い付いたなんて言ったら、頭がどうかしたんじゃないかと思われるに決まってる。
「市街地の周りに
「はあ、はい」
「この形、メイプル・リーフというか星というか王冠というか、とにかくそういうものに似ていると思わないか?」
地図で形が一番綺麗に見える
「はあ、そう言われればそうですね」
「こういう形の菓子を作れば、アントワープの
「はあ……そうですね、考えてみます。どうもありがとうございます」
ヨルダーンス夫人は最初明らかに当惑していたが、そこは人間として年季の入ったところを見せて、最後は笑顔で礼を言ってくれた。俺も店に入ったときにメイプル・シロップのいい匂いを嗅いで、メイプル・シロップからメイプル・リーフ、そして
「まさか彼がこれを自分で思い付くなんて」
レッドがため息をつきながら言った。グリーンは何とか肯定的なコメントをしたいのか、頭を捻っている。
「私も
「ステージ開始前のキーワード連想反応テストでもネガティヴか。まさにこの時に思い付いたんだね、彼は」
ブルーが静かに言った。いつもならもっと喜びそうなのに、とレッドは思った。
「一応、
「まあ、何人かに一人は思い付くよ。でも、やっぱりこの後が問題だ。スザンヌに結びつかないと、クリアできない。レッドの指摘どおりになりそうだ。グレイ、今日この後の彼の行動は?」
「キー・パーソンズとの接触ですか? チェックしますが……ありません。他の
「となると、全ては明日か。他の
「では、使用延長届の提出をお願いしますね。ミス・グリーンとミスター・レッド、他にご指摘は?」
「ないわ。でも、今日もあまりいいところが見つけられなかったから、もう一回タイム・チャートだけ見直してみる。データ共有して、自分の
「僕も少しだけ見直そうかな。自分の
「私はこの後、パティーに呼ばれてるので、そちらに行きますね。それじゃ、また明日!」
今日の調査結果の整理は終了。可動範囲はだいたい判った。今日巡ったところを線で結ぶと……逆台形の上部に少し出っ張りがある感じ。はあ、何となく
で、他に判ったことがほとんどないや。何より、キー・パーソンらしき人物に会わなかったのが難点。菓子屋で若い女を取り逃したのがまずかったかな。その他に会ったのはヴァケイション中の
そういや、あの場所にあった子供の像って何なんだ? デボラは調べた方がいいと言っていたが、どうやって調べようか。ホテルのコンシエルジュに聞けば早いかな。電話してみる。女が出た。
「コンシエルジュ・デスク、ナージャ・モンチニーです」
いい声。ホーボーケンのカペル通りにあった少年と犬の像について尋ねる。あれは何だ?
「『フランダースの犬』という小説にちなんだものです」
イングランドの作家ウィーダことマリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメーの作品。聞いたことないな。1872年か。それは古い。画家を目指していた貧乏な少年が、捨てられていた犬を拾って、友達になったけど最後は共に不幸な死に方をする話。クリスマスの夜に、聖母大聖堂のルーベンスの絵を見ながら……ああ、大聖堂にあった像もそれか。で、そんなに有名な作品なのか。
「見に行く観光客はほとんどが日本人だそうで……」
60年以上前に日本で“アニメ”になって大ヒットした? 何となく解るな。日本人は悲劇的結末も好きだから。合衆国なら絶対ハッピー・エンディングにリメイクするぜ。礼を言って電話を切る。
さて、これにどんな意味がある? もしかして、キー・パーソンが画家という暗示だろうか。それとも、キー・パーソンならぬキー・ドッグが登場するのか。あるいは、本を買ってきて読んだら中にヒントがあるとか。いや、英語じゃなきゃ読めないっての。とりあえず、少し気にしておくか。
さて、そろそろシャワーを浴びて寝たいが……その前に、メグからの手紙をもう一度読むか。昨日は読んだだけで動揺してしまったが、改めて読んでメグの真意を推し量るべきか。しかし、もう一度読んでもやっぱり動揺するような気が、やめておこうかなあ。
ところで、ビッティーとはいつ話そうか。2回しかチャンスがないとはいえ、もう二日も経ってしまったんだから、今日か明日かに話した方がいいだろう。しかし、今日はまだ材料が少ないな。明日にしようか。
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