#6:第6日 (6) プラド美術館の行列
席の用意ができたと言われて案内される。9分50秒だった。店の中は、学校の教室のように部屋が分かれていて、それぞれの部屋にテーブルがいくつか置いてある。部屋の大きさもまさしく教室くらいだが、内装は中世の貴族の屋敷のようだ。はっきり言うとごてごてしている。それぞれの部屋で様式が少しずつ違っている。
その一室の、壁際の二人席に座ることになった。即席で付け足した席かもしれないが、もはや気にしない。
「で、ここは何か名物の料理があるのか」
「知らない。前に来たときはコースから選んだわ」
メニューを見ると、一品料理とコース料理がある。こういうときはコース料理を頼むものだろう。一品料理は追加で頼むか少食の奴が利用するんだ。グラン・ヴィアというコースを注文し、ドロレスがワインを赤白2本頼む。やはりスペインでは昼にもワインを飲む。ドロレスが手を洗いに席を立ったが、すぐに戻って来た。
「やっぱり、大した怪我じゃなかったわ」
今頃、手の傷を洗ってきたのか。それで治るのならいいんだが。早くも前菜が運ばれてきた。アンチョビとトマトのサラダ、燻製サーモン、フォアグラのテリーヌ。ワインを飲んで、ドロレスが機嫌をよくする。
「ところで、装飾芸術美術館の感想を聞かせてくれよ。どんな物が君の参考になりそうだった?」
「どんな物って、見た物は全部参考になったわよ」
「例えば、あの贅沢な装飾の皿なんかも?」
「もちろん。あのデザイン全部を参考にするんじゃなくて、ダマスキナードに応用するにはどの部分を強調したらいいかとか、陽と陰を逆転させた方が見栄えがするんじゃないかとか、色々考えながら見てたわ。あなたもあの皿を見たのね。アラビア風だったでしょう?」
「そこまでは気付かなかったな、幾何学的だと思っただけで」
俺は一瞬しか見てないんだよ。
「
「なるほど」
「ダマスキナードは全面をそういう模様で埋めることも多いんだけど、それだけじゃなくて、周辺だけに模様を付けて、真ん中には人物とか風景を、っていう絵柄もあるの。で、その真ん中に相応しいものはとか、それをどんな風に囲うかとか、そういうことも参考にしようとしてたのよ」
帆立貝のトリュフ・ソースがけ、キャビア添えが出てきた。フォアグラにキャビアか、現実の世界では食べたこともないものばかりだな。
「陶器や絨毯なんかもそんな風に見ていたのか?」
「もちろん。特に、絨毯は一番面白かったわね。あのモザイク模様はとても綺麗だったし、大いに参考になるわ」
「モザイクといえば……テーブルで、表面をモザイク模様にしたのがあったな」
「ああ、ピエドラス・ドゥラスね」
「あれは?」
「参考になるわね。輝石や金属を打ち込んで模様にするから、ダマスキナードよりは粗い感じになるけど、全体的な配置がいいわよね。それに、脚の模様も綺麗だったでしょう?」
「そこまでは気付かなかったな」
俺は一瞬しか見てないんだって。
「チェス・テーブルがあったのには気付いた?」
「いいや」
「昨日の夜、フェデリコと1回だけ指したの。彼、あなたより弱いけど、楽しかったわ」
そんなことでのろけるとは思わなかった。ちゃんと「ケ・リコ」って言ったか。
「最後の方にあった、キッチンはどうだった?」
「ダマスキナードの参考にはならないけど、あれはあれで好きよ。でも、自分の家のキッチンがあんなのだったら、掃除が大変よね」
その方がいいんじゃないのか。君、あまり掃除しなさそうだから、あれなら一所懸命するだろ。メイン・ディッシュはメルルーサのステーキ。肉が出てこなくてよかった。カロリーが気になるからな。オリーヴ油が利かせてあるが、これくらいはいいだろう。
「君も普段、昼食はこんなにたくさん食べるのか?」
「もちろん。でも、こんなに高級なのは食べないけど」
「どこで食べてるんだ?」
「そうね、たいていは夜に行ってるあの店かしら」
道理でモニカに俺のことが筒抜けになるわけだ。
「ところで、あなたは軍事博物館で見たティソーナを何かの参考にするの?」
「するわけないって。土産話の種だよ。君からリカルドに話してやったらどうだ」
「意味ないわよ。あいつ、もうすぐ鍛冶屋もやめると思うわ」
なるほど、そうかもしれない。ワインはほとんど全部ドロレスに飲ませる。ドロレスは水のように飲む。デザート代わりにスフレ、最後に果物とコーヒーが出てきた。他のテーブルより先に料理が出てくることが多かったような気がするが、これもあのカードの
「この後、どこへ行くの?」
「特に考えてなかったな。君はどこへ行く予定だったんだ?」
「私も何も考えてないわ。エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウにでも行ってみる?」
「サッカーのスタジアムか。ゲームやってるのか」
「知らない」
「あっても夜からじゃないのか」
「じゃあ、プラサ・デ・ラス・ベンタス」
「
「ううん、
「闘牛やってるのか」
「10月までだからもうやってないわ。でも、中を見るくらいはできるんじゃないかしら」
「別にそういう変わったところに行かなくてもいいんだが」
「じゃあ、プラド美術館でいいんじゃない?」
「
「それと、王宮」
「OKだ」
「でも、今日は土曜日だからどっちも混んでるかもしれないけど」
「それはその時に考えよう」
勘定をするためにウェイターに声をかけると、さっきの偉い感じの男が勘定書を持ってやって来た。
「セニョール、本日のお料理はいかがでしたでしょうか?」
食事の後にこんなことを訊かれるのは初めてなので困る。マルーシャなら慣れてるんだろうが。まあ、彼女の真似をして答えてればいいか。
「
「とてもおいしかったわ!」
例のカードを男に渡す。これを使うといちいち店の偉い奴が出てくるんだな。それはそれで面倒くさいことだ。そういう立場に慣れてしまえばいいのかもしれない。男が戻って来て、スリップを差し出しながら言う。
「この後はご観光でしょうか? 差し出がましいようですが、先ほどプラド美術館と王宮というお声が聞こえまして、本日はどちらも大変混雑しておりますので、よろしければ
そういうのはホテルでやってくれるのは知っていたが、どうしてレストランが。これもこのカードの
「じゃあ、2枚頼む」
「かしこまりました。どちらも窓口でお名前をお告げになればお受け取りいただけるように手配します」
どうしてそこまでしてくれるのだろうか。後でドロレスに訊かれるに違いないので、答えを用意しておかなければならない。店を出るとすぐに、ドロレスが予想どおり訊いてきた。
「どうしてレストランでチケットの予約までしてくれるのかしらね。それもあなたの知り合いのおかげなのかしら」
「俺にも解らんね。後でそいつには礼を言っておくよ」
正直に解らないと答えるのが一番無難な気がしてきた。プラド美術館へ行くために、また東へ戻る。軍事博物館のすぐ南だ。
美術館の正面は西を向いているが、チケット売り場と入口は北側にある。レストランで聞いたとおり、チケット売り場には長蛇の列ができていたが、どうやらそれは当日券の方だけで、予約の窓口の方は数人並んでいるだけだった。係員に名前を告げると、チケットを出しながら、「列に並ばずに、階段の上の係員にこのチケットを見せれば、待たずにお入りになれます」と言う。いやはや、あのカードの
「予約したチケットなら、待たずに入れるのね。知らなかったわ。私も今度見に来るとき、予約してみようかしら。でも、当分マドリッドには来ないと思うけど」
ドロレスが感心したように言う。いやあ、この世界は明後日の昼までしか存在しないから、永久に来る機会はないと思うね。とりあえず、言われたとおり列を無視して階段を上がる。入口は2階にある。
「アーティー!」
長蛇の列から声がかかる。見ると、マリオンとメイベルが並んでいた。
「やあ、君たちも見に来たのか」
「ええ、芸術センターの後でここへ来たんだけど、こんなに並んでいるなんて思わなかったわ」
「その人、アーティーの恋人? 素敵な人ね!」
二人で全然違うこと話さないでくれるかな。ドロレス、マリオンの質問を否定してやってくれ。
「違うわ。彼とは友達よ。たまたま会ったので一緒に見に来ただけ」
「あら、そうなの。私たちと一緒に芸術センターへ行かなかったから、二人で待ち合わせしてたのかと思ったわ」
「どうして列に並ばないの?」
「予約券を持っていたら先に入れてくれるらしいんでね」
「そうだったの。私たちも予約しておけばよかったわ!」
羨ましがる二人を置いてまた階段を上がる。入口の係員にチケットを見せると、無言で列をぶった切って、俺とドロレスを中へ入れた。何だか悪い気がするのは、俺の気が弱いからだろう。
中もやはり混雑しているが、どうせ全部見て回るつもりでもないので気にしない。ドロレスのお薦めに従って、ベラスケスとゴヤの絵を中心に見て回る。気のせいかもしれないが、裸の女の絵が多い。しかもほとんどの女が太い。ここまで太いのは俺の好みではない。ゴヤの『裸体のマハ』をじっくり見ていたら、ドロレスが「バレリアっていつもこんな感じで寝てるらしいわ」などと言う。
「でも、全部脱いでるわけじゃないんだろう?」
「全部脱いでたわよ、私の部屋に泊まった時は」
してみると、昨日はドアを開ける前に下だけは穿いたということだろうか。他の部屋ではともかく、彼女の自室で全裸だと、寝てる間にナイフが落ちてきたら危ないじゃないか。
「じゃあ、君は?」
「教えてあげない。でも、全部は脱がないわよ」
「フェデリコはどんな絵が好きなんだ?」
「絵はあんまり興味ないみたいだけど、見るなら風景画がいいって言ってたわ」
「風景画はここにはないのか」
「よく知らないけど、
風景画が見られなくても別に惜しくはないがね。それが目的で来たわけじゃないし。
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