#6:第6日 (5) カードの御利益
「アーティー?」
ドロレスの声がする。振り返るとがすぐそこに立っていた。いや、どうして戻って来てるんだよ。まあ、いいか。どこかへ逃げて行って行方不明になったら、探すのに困るし。驚いた顔をしてるが、襲われたはずなのにあまり怖がっていないようだ。
「怪我は?」
「ちょっとだけ」
「切られたのか?」
「ううん、歩道に倒れたときに、手をすりむいたの」
ドロレスは左手の小指の付け根辺りを気にしている。右手じゃなくてよかった。商売道具だからな。
「そうか。大きな怪我がなくてよかったが、病院へ行くか?」
「ああ、大丈夫よ、これくらい。水で洗っておけばそのうち治るわ」
大らかな人間だな、君は。でも、たぶんそれがいいところだよ。で、どこで洗うんだ?
「消毒くらいした方がいいんじゃないのか」
「平気よ。ところで、あの女、何だったの?」
「知らんな。君の友達じゃないことくらいは判るがね」
「強盗かしら。このところ、マドリッドで旅行者が襲われることが多いって聞いたわ。後ろから近付いて、首を絞めて気絶させて、路地に連れ込んで財布や貴重品を奪うんだって」
いや、さっきの女、ナイフ持ってただろ。そういう強盗とは違うと思うが……もしかして、物騒なのは判ってるから、襲われても怖がらないのか? スペインはセキュリティー感覚だけじゃなくて安全感覚も歪んでいるらしい。
「全く知らない女?」
「ええ、もちろん」
「ところで、君と一緒にいた男は?」
「ホテルを出るときに、声をかけられたの。知らない男よ……あいつ、逃げたの!? ひどいわ!」
いや、ナイフ持ってた女が襲いかかってきたら、普通は逃げるって。恋人なら君を守ろうとするだろうけどさ。
「ボディー・ガード代わりに連れて来たのか」
「そんなところね」
「フェデリコは?」
「それが、急に予定が変わったの。緊急のトレーニング・キャンプに呼ばれたんだって。昨夜は私の部屋へ来てくれたし、朝まで一緒にいたけど、マドリッドまで送ってくれて、そのまま行っちゃったわ」
あっさりしてるなあ。フェデリコの話が出たときは、1泊旅行をかなり楽しみにしていたように見えたのに。
「旅行はキャンセルしなかったのか」
「だって、ホテルに訊いたらキャンセル料は70パーセントって言うんだもの」
そんな理由かよ。しかし、来たら他にも金がかかるだろうに。
「彼も、直前までスケジュールを何とかしようとしてくれたからね。彼は、
「いいことだな。俺もカレッジのフットボールでは控えだったから、出場機会をもらうために色々努力したよ。君のように応援してくれる女がいればよかったんだがな」
ジョルジオ・トレッタが俺を出場させないために色々と画策したからなあ。ひどい奴だった。
「ガール・フレンドがいなかったの?」
「ごく短い間だけ付き合ってくれた女が何人かいるだけだよ」
「ところで、どうしてここにいるの?」
「マドリッドに来てみたかっただけさ」
「どうして装飾芸術美術館にいるのよ」
「絵画以外の、変わった美術館に来てみたかったんだ。ここと、あとは軍事博物館にも行きたいと思ってるんだがな」
もしドロレスと会ったら訊かれると思っていたので、言い訳はバスの中で考えておいた。
「軍事博物館? 面白いのかしら」
「行ったことないのか。ティソーナって伝説の剣が置いてあるんだ」
「ティソーナ……ああ、リカルドが言ってた、あれね! へえー、私も見てみようかしら」
「一緒に行こうか。逃げていった奴の代わりに、ボディー・ガードくらいはしてやれるぞ」
「
どうやらうまくいった。これで今日のところはドロレスに付いていられるだろう。軍事博物館は装飾美術館のすぐ近く、南へ300ヤードほどのところにあって、歩いて5分とかからない。チケットを買っているときに、ドロレスが「思い出した」と言う。
「ここって、バレリアのお気に入りの場所なのよ」
「なるほど」
理由は解る。武器が展示されているが、その中にティソーナを初めとする剣も置いてあるからだろう。ナイフ・マニアと聞いただけでは理解しがたかったが、あの部屋を見た後なら納得できる。
「でね、トレドのアルカサルへ移転する計画があるらしいんだって。バレリアが、すっごく嬉しそうに話してくれたことがあるわ」
アルカサルの工事はそれか。
「そんなことになったらバレリアは毎週通い詰めになるんじゃないのか」
「いいえ、きっと、毎日よ。シエスタの間に見に行くに違いないわ」
「そうか。きっとそうなるな」
あの部屋を見た後なら納得できる。それはさておき、ティソーナを見る。他の展示品には見向きもせず、真っ直ぐティソーナの展示室へ向かう。何だか『ゲルニカ』を見に行った時に似ている。
ずらりと剣が陳列された通路の中央に、それは単独のガラス箱に入れられて展示されていた。鞘はなく、長身の抜き身だけが中に立てられている。模造品を一度見ているが、俺の目では見分けが付かない。わざわざ見に来るまでもなかった、という気がしないでもない。が、一度はターゲットとして目星を付けたものなので、これはこれでいいのではないかと思う。
「この剣についての詳しいこともバレリアから聞いてる?」
「聞いたけどほとんど忘れたわ。エル・シッドが持ってた剣でしょ。二つ持っていて、もう一つは何だっけ。えーと……」
ドロレスは思い出そうとしてくれているが、それについてはリーフレットに書いてある。コラーダという名だ。マドリッドの王宮に保管されているが、展示はされていないらしい。
ティソーナの名の由来は“たいまつ”で、コラーダは“鋳鉄”。ティソーナの強さはその使い手に依存し、敵としてふさわしくないものを畏怖させる、という。もちろん、詩の中にそう歌われているというだけだ。ファンタジーなんかでよくある設定だよな。しかしターゲットとしては、こういうのがふさわしいんじゃないかなあとも思う。
「さて、他に見たいものは?」
「あら、もう終わりなの? 私はないわよ」
「じゃあ、そろそろ昼食の時間だな」
「どうしようかしら。予約してたレストランはキャンセルしちゃったし」
「フェデリコと行けないから?」
「そう」
「じゃあ、どこで食べるつもりだったんだ?」
「さっきの男が案内してくれるはずだったのよ」
軍事博物館を出ながらドロレスが苦々しい口調で言う。なるほど、おごってもらえそうだったら知らない男の誘いにも乗る、というポリシーを実践したわけだ。昼食の後はどうするつもりだったのかな。
「キャンセルしたレストランへ行ってみたら?」
「ダメ」
「どうして?」
「だって、そこはフェデリコと行きたいんだもの」
なるほど、恋人と単なる知り合いとでは行きたい店が違うということか。まあ、それはそれでいいけれども。
「じゃあ、他に知っている店へ案内してくれ。俺はマドリッドのことは知らないから」
「解った。でも、場所をよく憶えてないのよね。うーん、どこだったかしら」
悩みながらドロレスは西の方へ歩いて行く。リッツ・ホテルの前を過ぎて、噴水のあるラウンドアバウトを渡り、サン・ヘロニモ通りへ。小さな丸い広場を行き過ぎたところで「あった!」と声を上げた。
「よかった、何となくこの辺って憶えてただけだけど、当たってたわ。ここにしましょ」
よくそれでたどり着けたな。まあ、判らなかったら誰かに訊いてたんだろうよ。ラルディという店だった。入口付近のディスプレイには菓子やパンが見える。喫茶店かと思ったら、横の狭い通路の上にはちゃんとレストランと書いてある。
その通路へ入り、奥の螺旋階段を上がる。案内係にドロレスが訊くと、空いていないので1時間ほど待てと言われた。待つための椅子がちゃんとあるし、待っている連中もいる。
「うーん、やっぱり予約していないと待ち時間が長いわね。すぐに食べたい? 別の店にした方がいいかしら」
ドロレスが振り返って訊いてくる。別の店でもいいのだが、ついでなので、このレストランであのクレジット・カードの効力を確かめておこうと思う。見せれば待遇が変わるとのことだったが、果たしてそんなことがあるのか。案内係に声をかけ、ドロレスには見えないようにして、カードを見せる。愛想笑いの案内係が、絶句して顔色を変えた。
「ああ、これは……失礼しました、セニョール、少々お待ちを……」
案内係が店の奥へ足早に消えていった。まさか、本当に効果があるのか。マルーシャのカードは“マルーシャだから”効果があるのだろうと思って、疑っていたのだが。すぐに支配人クラスと思われる偉い感じの男が、血相を変えてすっ飛んできた。この待遇、ソブリノ・デ・ボティンを思い出す。
「ようこそいらっしゃいました、セニョール・ナイト。10分でお席をご用意致します。大変申し訳ありませんが、それまでお待ちくださいましょうか?」
1時間が10分に短縮された。本当に効果があった。ドロレスが呆気に取られて俺の顔を見上げたが、俺もたぶん同じような顔をしていたと思う。
「ああ、そうしてもらえれば助かる」
「どういうこと? もしかしてこの店を知ってるの?」
偉い感じの男が姿を消した後でドロレスが小声で訊いてきた。さて、どうやって言い訳しようか。心の準備が足りなかったんで、何も考えてない。
「いや、違うんだ。……ああ、そうだ、パラドールに俺の知り合いが泊まってる話はしたよな?」
「砥石のことを教えてくれた男のこと?」
うむ。ちょっと違うんだが、まあ、いいか。説明すると長くなるし、余計なことを言って矛盾が起こっても困るし。
「そいつは実は大金持ちで、マドリッドやトレドの色んな店に顔が利くらしくて、困った時のために名刺をもらってきたんだ。それを見せただけさ」
「ふーん、すごい人が知り合いなのね。何ていう名前?」
「それは言うなと言われててね。悪用されても困るし」
こう言っておけば名刺を見せろとも言わないだろう。それにしても我ながら苦しい言い訳だ。
「まあ、いいわ。あら、大変、シャツの袖が切れてるわよ!」
言われて右の袖を見てみると、確かに切れていた。さっき、ナイフ女を羽交い締めにしたときに切れたのだろうが、どうしてこんなところが。投げ倒すときに刃先が触れたのかもしれない。
「鞄の中に着替えがあるが、どこかで新しいのを買うかなあ」
ここも一応それなりの格の店だろうから、そこにポロ・シャツとジーンズで来るのがおかしい。ボティンの時と同じ間違いを犯している。しかし、案内係は断らなかったし、さっきの偉い感じの男も何も言わなかった。だったらこのままでもいいだろう。
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