#6:第5日 (8) 仕事は楽しいか?

ハーイオーラ、アナ。1週間ぶり。あら、アメリカ人アメリカーノと一緒なのね」

 モニカが気さくに声をかけてくる。やはり友人だったようだ。

「えっ、モニカ、彼を知ってるの?」

「知ってるも何も、ここのところ毎晩この店に来てるわよ」

「そうだったの……じゃあ、別のお店の方がいいですか?」

 アナベルが俺に向き直って言う。

「いや、俺はこの店に慣れてるし、君も慣れてるんだったら、一番都合がいいじゃないか。ここにしよう」

「あっ、はい、そういうことなら……」

 モニカに案内されて奥の席へ行く。昨日まではそこにドロレスが座っていたのだが、今日はいない。たぶん、恋人と一緒に別の店へ行ったのだろう。

「アナもアーティーも飲み物はビールセルベッサでいいわね。食べ物の注文は?」

「あっ、モニカ、私のビールセルベッサは、その……」

「アーティーの前では可愛い子イノセンテぶる必要なんてないわよ。いつものようにしてなさい。食べ物は? マッシュルームのセゴビア風チャンピニオネス・ア・ラ・セゴビアーナでいい?」

「ええ、それで……」

「アーティーはコシードね」

「憶えていてくれてありがとう」

「あと、とりあえず生ハムハモン・セラーノくらいにしておくわね。それじゃ」

 結局、モニカが全ての注文を勝手に決めてしまった。こんなウェイトレスはなかなかいないだろう。ゲームで相手の手を読むのと同じで、相手の食べたい注文を予想していると言えば聞こえはいいが、俺は今日はコシード以外のものを食べようと思っていたんだから外れている。

「マッシュルームが好きなのか?」

「えっ? あ、はい、大好きなんですけど、ドロレスやバレリアは苦手みたいで、一緒に来た時には食べられなくて」

「一人で食べればいいのに」

「匂いがダメみたいです」

「なるほど」

 スペインの料理法ならオリーヴ油をたくさん使ったりするので、マッシュルームの匂いくらい消し飛ぶと思われるのだが、そうでもないのだろうか。

「あの、ナイトさんセニョール・ナイトはコシードがお好きなんですか?」

「アーティーと呼んでくれていいよ」

「あ、はい、アーティーさんセニョール・アーティー

 ダメだ、これは。親方が“アメリカ人アメリカーノ”と呼んでいたせいもあるだろうが、彼女はまだ俺に対する警戒心が全部は解けてないんだろうな。言葉遣いも丁寧なままだし。

「どうぞ、ビールセルベッサ

 モニカが早くもビールを運んできた。グラスが三つ。待て待て待て、アナベルも最初に2杯飲む派なのか? まさか。

「可愛い子ぶってちびちび飲んだら許さないわよ。いつもみたいに一気に飲んじゃいなさい」

「えっ、でも……」

「あー、俺のここ最近の経験から言うと、トレドの美人はビールの最初の1杯を一気に飲み干すことが多いようだな」

 モニカの言葉に乗って、けしかけてやる。

「だって。早く乾杯ブリンディスしなさい」

「あ、はい、あの、乾杯サルー……」

「ああ、乾杯チアーズ

 モニカがまだ横に立って見ている。アナベルが1杯目を飲み干すまでいるつもりだろう。そうなるとアナベルもグラスを置くことはできず、一気に飲み干さざるをえなかった。もちろん、俺は真似しない。

「はあ……」

 飲み終わってアナベルが可愛らしく息をつく。そしてバッグからハンカチを取り出して淑やかに口元を拭いた。モニカはアナベルが飲み干したグラスを持って厨房の方へ戻っていった。

「君の友人にはアルコール好きが多いみたいだな」

「えっ? あっ、いえ、好きなのはドロレスとバレリアくらいで、他の人はそんなに……それに、モニカはほとんど飲まないんです」

「ほう、そうだったのか」

「ご存じかどうかわかりませんが、モニカはゲームフエーゴがとっても強いんです。ナイペスでもチェスアヘドラスでもパルチスでも……」

「うん、それは知ってる」

「それで、アルコールを飲むと脳の神経が麻痺するからって……以前は少しくらいは飲んでたんですけど、最近はたぶん全然……」

 脳細胞に対するアルコールの作用には個人差があって、悪影響があるとは一概に言えないと思うが、自分の意志でアルコールを節制できるというのは素晴らしいことだ。ただし、その反動なのかどうか知らないが、他人に無理に飲ませるのだけはやめて欲しいと思う。それとも、自分が飲まないから、他人が飲む姿を見るのを楽しみにするようになったのだろうか。

「君はどれくらい飲めるんだ?」

「私は、そんなにたくさんは……それに私も、最近あまり飲まないようにしてるんです」

「腕に影響するからか?」

「はい。それに、時間もなくなりますし」

 いい心がけだが、最初の1杯を一息で飲み干してしまうくらいなんだから、本当は好きなんじゃないのかなあ。色々と我慢していて、ストレスが溜まっているんじゃないかと思うが。

「君は確か、ドロレスと同級生だったな。そうすると君も仕事を始めて5年目になるわけだ」

「はい」

「仕事は楽しいか?」

「……はい」

 予想どおり言い淀んだ。工房のやりとりから、思ったように上達していないのが彼女の悩みなのだろうということはすぐに判る。

「俺のことについて、親方から事前に何か聞いていたか?」

「えっ……あっ、はい」

 俺が急に質問を変えたので、びっくりしているようだ。自分のことを色々訊かれると思っていたのだろう。

「何と聞いていた?」

「素人だけど、とてもいいアプティトゥードを持った客が来る、と」

「大袈裟に言ったものだな。たぶん、君を刺激しようとしただけだろうから、真に受けなくていいよ」

「でも……」

「君には聞こえなかったろうが、体験で俺が作った物に対する親方の評価は、かなり厳しかったよ。時間をかけて丁寧に作ろうとするほど、ひどい出来になっているとさ」

「そうなのですか?」

「最後に見たあの鉄板も、俺が彫ったところのほんの一部がうまくできていたというだけさ。工芸というのはそういうものじゃない。全体的な出来を評価するものだ。君はあの鉄板を見たのか?」

「はい、見ました。私自身の評価も、あなたと同じでした」

「じゃあ、君の悪かったところはほんの一部分だったということも判ったはずだ」

「でも……」

やあオーラ愛しい人ケリーダ、やっぱりここにいたんだね」

 軽い声と共に女たらしが現れた。俺がここにいるとしょっちゅう邪魔が入るな。どうせシナリオどおりなんだろうが。

「フアニート、どうしてここに?」

「昼間の話の続きをしに来たんだよ。あの時は邪魔が入って君から返事がもらえなかったからね。さあ、そこの君、どいてくれ。僕はこの愛しいアナと大事な話があるんだ」

 女たらしの後ろにモニカが不機嫌そうな顔で立っている。ちょうど食べ物の皿を持ってきたところらしい。

「後にしてくれ。彼女はまだ仕事中だ」

「仕事だって? こんな時間に?」

「そうだ。彼女は親方から、俺と一緒に食事をするようにと指図を受けているんだ。だから今は仕事中だ。そうだな?」

「えっ……あっ、はい」

 アナベルの態度から、親方の“指示”はかなり強制力を持っていることが判っている。自称恋人の愛の言葉よりも強いだろうと思っていたが、そのとおりだったようだ。

「そうか、感心だね、アナ。でも、仕事には休憩が付き物だよ。1時間くらい休憩して、僕と話をしようよ。とても大事な話なんだ。いいだろう?」

「休憩が1時間は長すぎるな。スペイン人の悪いところの一つだ。10分で十分だろう」

「勝手に決めないでくれよ。スペインにはスペインのやり方があるんだ」

「じゃあ、彼女に決めてもらえばいい」

 そう言ってアナベルの顔を見る。女たらしはさっきからずっと彼女の方を見ている。女たらしの後ろでモニカが、皿を置きたいんだけど、と言いたそうな顔で見ている。

「あ……じゃあ、10分……あ、いえ、15分だけ……」

 アナが俺と女たらしの顔を交互に見ながら言う。どうやら間を取ったようだな。彼女らしい選択だ。女たらしが両手を広げながら言った。

「解ったよ、アナ、僕は君が決めたことを大切にするよ。いつだってそうだったろう? さあ、君、席を外してくれ」

「どうぞ、生ハムハモン・セラーノマッシュルームのセゴビア風チャンピニオネス・ア・ラ・セゴビアーナ。飲み物は?」

「やあ、モニカ、いつも綺麗だね。飲み物かい? オルチャータにするよ。大事な話を、アルコールを飲みながらするわけにはいかないからね」

「アーティー、別の席へ案内するわ」

「ありがとう」

 ビールのグラスを持ってモニカに付いて行く。入口に近い席だった。モニカは一度厨房に戻ったが、すぐにサングリアとコシードを持ってきた。

「ヘイ、モニカ、サングリアを頼んだ憶えはないよ」

「あたしからのおごりよ。何かいい知恵出してくれないかと思って」

「何の知恵?」

「アナとあの男を別れさせる方法」

 おやおや、モニカはあの女たらしについて何か知っているようだな。

「別れさせる必要があるのかね。仲のいい組み合わせマッチに見えるけど」

「女を見る目はあるけど、男を見る目はないのかしら」

「彼がアナベルだけじゃなくて、他の色んな女に声をかけて寝ていたとしても、俺がそれをやめさせる理由がないよ」

「何か知ってるのね、あんた」

「マドリッドの美術館で彼が美人に声をかけているところを見た」

 その美人が俺の知り合いであることは言わないでおく。

「それだけじゃダメね」

「現に忠告して失敗した奴を見たよ」

「あたしだって失敗したわよ」

「友人が悪い男にむざむざ騙されるのを見てられないと」

「それだけじゃないわ」

「他に関係者がいるのかね」

 隣のテーブルから、モニカに注文の声がかかった。日本人らしい。日本式のスペイン語の発音は、聞いていてるだけで日本式だと解るのでとても興味深い。

「ルイサ! こっちのテーブルの注文聞いて!」

 モニカが他のウェイトレスに声をかける。この件が片付くまで仕事をする気がないらしい。

「アナにはミゲルの方が似合いの組み合わせパルティードなのよ」

「ミゲルって誰だ?」

「あたしの弟」

 また親戚関係が広がった。ややこしいな。バレリアの弟がドロレスの恋人で、ドロレスの弟がモニカの恋人で、モニカの弟がアナベルの恋人候補か。後はアナベルに兄弟がいて、そいつとバレリアが結ばれればめでたく一周するわけだ。

「ドン・フアンが言っていたミゲルと同一人物かな」

「自分を陥れようとしてる男って言ってたのならそうよ」

「実際はどうなんだろう」

「あたしの弟が信用ならないってのならそれでもいいけど」

「申し訳ないが、本人と話をせずには判断できないからな」

「そう、仕方ないわね」

「その代わり、君を信用するさ。さて、そろそろ15分経ったかな」

 グラスの底に残っていたビールを飲み干し、モニカへ渡す。そしてサングリアのグラスとコシードの皿を持って元の席へ戻る。女たらしはまだアナベルを説得しようとしている。“約束”という言葉が聞こえてくる。

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