#6:第5日 (7) 職人の悩み事
座ると、親方が鉄板とルーペを差し出す。何も言わないが、見ろという意味だろうからルーペで鉄板を見る。彫り込みだけがされている。恐らく俺が午前中に彫った2枚目の鉄板だ。
「評価を聞かせてくれんか」
「素人の評価なんか聞きたいのかね」
「素人の評価を聞いてみたいのだよ」
ルーペから目を離して親方の顔を見る。親方の目はさっきしかめたままだ。さて、正直に見たままを言うべきか、それとも想像される目的から帰納法で推理した結果を述べるべきか。まあ、どっちでも同じような結論だが。
「そうだな、最初の3分の1くらいは完璧に彫り込んであるが、途中から時々線が少し乱れているところがある。そういうところが3分の1ほど続いている。残りの3分の1は素人が彫ったものだな」
「正確な見立てだ。判っていると思うが、真ん中の3分の1はロロニョが彫ったものだ。なぜそんな乱れ方をしていると思う?」
「それも素人の意見でいいんだろうな?」
「
「手というか、指というか、とにかく小刀が正確に動いていないからこうなるんじゃないかと思うがね」
そう言ってアナベルの顔を見る。しょんぼりとうつむいている。そう言われると判っていたのだろうという気がする。
「素人が彫ったところと比べててどう思う?」
「素人も最初の部分はまあまあ評価してもいいと思う。正確さについては真ん中の部分を上回っているところもあるだろう。ただ、後半は全然ダメだな。集中力が足りないんだ」
「聞いたとおりだ、ロロニョ」
親方がアナベルに向かって言ったが、彼女はまだうつむいたままだ。ちょっと可哀想な気もするが、これもこの世界のシナリオのうちだろう。
「前から言っておるが、お前はもっと他の指の訓練もするべきだ。
「でも、私だって……私だって、色々やってます……指先を動かすようなことなら何でも……毎日、朝も昼も夜も、ずっと指の動かし方を意識してるのに……」
「時間をかければいいというものではない。問題はその訓練の方法だ。例えばこの前はピアノ用の指の訓練をやってみたとか言っていたが、そんなのは指を動かす単位が大きすぎる。お前の指に要求される精度は、1ミリメートルの20分の1だ。もっと違う訓練があるはずだ」
「でも……でも……」
「例えば
名前を言わずに“
「そうだな、毎日フットボールを投げてたよ」
「フットボールだと?」
「俺はフットボール・アメリカーノをやってるんだ。
「……他には?」
さすがの親方も一瞬動揺したらしい。が、一瞬だけかよ。もっと驚いてくれてもいいと思うんだがな。やっぱりスペイン人には伝わらないのか。フットボール・アメリカーノはマイナーだなあ。
「そうだなあ、カードで山を作るとか」
「それはやってます」
アナベルが言った。彼女もさっきのフットボールのことには全く驚いた様子がなかった。伝わらなさすぎて悲しくなってくるな。だが、解錠のことだけは絶対言いたくない。他に何かないかな。
しかし、どうして俺がこんなことを考えなければならないんだろう。これもこの世界のシナリオのうちなんだろうが。
「じゃあ、編み物」
「やってます」
「刺繍」
「やってます」
「料理」
「……やってます」
どうして言い淀むんだろう。やっぱり苦手なのかな。
「絵画」
「やってます」
「ジェンガ」
「やってます」
「テーブルにコインを立てる」
「やってます」
「髪の毛にナイフで文字を彫る」
「…………」
さすがにそれはやったことがないか。
「やってみてもいいかもしれんぞ、ロロニョ」
「……はい、親方」
「
「彼女が職人として一人前になりたいなら、何にでも挑戦するべきなのだよ。他には?」
「そうだなあ」
困っていると、中年婦人が来て親方を呼んだ。夕食の時間だという。まだ8時で、スペインの夕食にしては早いような気がするが、家によっても違うのだろう。間食も少なかったし。
「仕方ない、今日は閉店だ。
「こちらこそ、いいアイデアが出せなくて申し訳なかった」
「そんなにすぐにうまい策が思い付けば苦労はないさ。おい、ロロニョ」
「はい、親方」
「
「
「お前もそのうち、体験に来た客に昼食を世話することになるんだ。その訓練だと思って行ってこい。一人の相手くらい何とかしろ」
「あ……
「
親方は軽く握手すると、奥の方へ行ってしまった。アナベルが不安そうな目で俺のことを見ている。俺の技術についてはそれなりにいいことを聞いていたのだろうが、人間性については何も聞いていないのだろう。
「あの……じゃあ、先に外へ出て待っていて下さい」
アナベルはドアを開けると、俺を外へ送り出した。そしてドアを閉め、錠を掛ける音がする。外側には鍵穴がないので、俺には開けようがない。
しばらく待っていると、誰かが通りの向こうから近付いてきた。アナベルの密やかな足音ではない。革靴の音だ。立ち止まった。こちらの様子を窺っているようだ。通行人ではない。元々この辺りは人通りが少ない。さて、誰だろう。ライナー氏か。それとも、初日以来、姿を現さなかった尾行者か。たぶん、前者だろうなあ。
「そこにいるのは誰だ?」
訊こうとしたら、向こうから訊いてきた。ライナー氏の声だ。なぜ、始めからここにいる俺が訊かれなければならないのか解らない。
「旅行者だ」
「その声は……そうか、作業体験に来ていた
途中から英語に変わった。彼も
「こんなところで何をしている?」
「なぜ、そんな質問をされなきゃならない?」
こっちは不審者でもないし、向こうは警官でもない。それとも、ライナー氏は現実の世界では警官だったのだろうか。新聞か雑誌の記者だろうと思っていたのだが。
「ここには最近、不審者が出没するんだ。ミス・ロロニョが迷惑している」
「俺は不審者じゃない。他の奴を当たれ」
「では、ここで何をしている?」
「アナベル・ロロニョを待っている」
「ミス・ロロニョを? なぜだ?」
「待っていてくれと彼女に言われたからだよ」
「
余計なお世話だよ。軽い足音がして、アナベルがどこからともなくやってきた。作業着風の服装から普段着らしいものに着替えて、ポーチのような小さなバッグを肩から提げている。家に戻ってから来たのだろうか。俺とライナー氏が一緒にいるのを見て、驚いた顔をしている。
「セニョリータ・ロロニョ、本当にこの
「……はい」
「何のために?」
「一緒に夕食へ行くんです」
「
英語で話したりドイツ語で話したりスペイン語で話したり、忙しいことだな。よく頭が混乱しないものだ。で、何が
「私も同席させてもらえませんか?」
「それは……お断りします」
まあ、そうだろうな。親方の“指図”にはないからな。しかし、ライナー氏はその返事を聞いてかなりショックを受けているようだ。可哀想に。どこかでシナリオの要件を満たさなかったんだろう。彼女に直接アプローチするんじゃなくて、俺のように親方の気を引いた方がよかったんじゃないのかな。どうでもいいか。
ライナー氏はうつむいて顔を振ると、挨拶もせずどこかへ去って行った。アナベルはその姿を見送っていたが、俺の方へ顔を戻し、俺がじっと見ているのに気付くと、驚いたような表情を見せた。大袈裟な。
「あの……どこか行きたいお店はありますか?」
どうしてそんな怯えたような声を出す?
「君が行き慣れている店があればそこが一番いいと思うが」
「あ……そうですか。それじゃあ……」
と言ってアナベルは歩き出そうとしたが、2、3歩行きかけて戻ってきた。たぶん、先に立って歩いた方がいいか、横に並んで歩いた方がいいか迷っているのだろう。フアン以外の男と歩くのは勝手が違うので、どうしたらいいか解らない、という感じだ。こっちかい、などと言って並んで歩いてやる。
「君の友人を何人か知ってるよ」
「そうなんですか?」
安心させようと思って言っているのだが、案に相違してアナベルはあまりいい顔をしない。ドロレスとバレリアの名前を出して、ドロレスのいる土産物屋を見に行ったとか、バレリアのところで昨日作業体験をしたとか言ったら、ようやく警戒心が解けてきたようだ。ただ、ドロレスの部屋に泊まってるとか、下着姿を毎晩見てるとか、ゲームで対戦しているとかは言わなかった。そんなことを言ったら別の警戒心を抱かせてしまう。
話をしながら10分ほど歩いて着いたのは、いつものあの店だった。まさか彼女がここを常用しているとは思わなかったが、考えてみればドロレス、バレリアと友人であるということはモニカとも友人であるはずで、そうすればここへ来るのは当然とも言える。袖なし男は今日はいなかった。早くも
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