#6:第5日 (9) 指先の訓練
「ヘイ、
女たらしは視界に入れず、アナベルに言う。アナベルがはっとした顔でこっちを見る。
「まだ話は終わってないよ。大事なところだから、邪魔しないでくれないか。ねえ、アナ、あと5分や10分は構わないだろう?」
「あ、でも……」
アナベルの視線が泳ぐ。
「
「君、僕の大事なアナに対して、失礼だぞ!」
「お前には言ってない。俺はそっちの
かなりきつい口調で、アナベルの目を見ながら言う。アナベルは身体をびくりと震わせた。うん、やっぱり彼女にはこういう言い方が効くみたいだな。
「あ、はい……フアニート、お話は終わりにして。私、明日はやっぱりトレドにいるわ。だって、仕事のための訓練をしないと……」
「何を言うんだ、アナ、ずっと前から約束していたじゃないか。僕は君との約束を一度だって破らなかっただろう? だから、アナ、君も僕との約束を守って欲しいんだよ」
「早く仕事に戻れ」
「フアニート、お願いだから……」
「アナ、これほど僕がお願いしているのに、聞いてくれないのかい? 僕の言葉とこの男の言葉と、どっちが大事なのか、少し考えてみれば解ることだよ。アナ、君はいつだって、僕の言うことを大事にしてくれたじゃないか。さあ、僕と一緒に行くと言っておくれよ」
「今、一番大事なのは仕事に戻ることだ」
「フアニート! ごめんなさい、私、行きたくないの!」
アナベルが叫ぶ。女たらしが黙り込む。周りの客も黙り込む。ずっと向こうから、モニカがこちらを眺めている。ややあって、女たらしが両手を広げて仕方ないなという仕草をする。
「解ったよ、アナ、今回は君の言うことを大切にするよ。怒ってなんかいないよね? だから、この次は僕の言うことも聞いておくれよ。じゃあ、今夜はこれで。
女たらしが席を立つ。密かに俺の足を踏もうとしたので、さりげなく避ける。女たらしは振り返りもせず店を出て行った。モニカがまだこちらを見ている。君も仕事しろよ。
テーブルにはミルクを入れすぎたカフェオレのようなグラスが、手も付けられずに残っている。これが女たらしの頼んだオルチャータという飲み物だろう。間違って飲んでしまわないように、隣のテーブルに移しておく。料理も全く減っていない。生ハムは表面が乾いているし、マッシュルームは湯気が立たなくなるほど冷めている。
「今日、初めて話をしたばかりの男が君にこんなことを言うのは、申し訳ないんだが」
アナベルはまだしょんぼりとうつむいたままだった。細い串に刺さったマッシュルームを二つ、皿に取る。そしてフォークでマッシュルームを串から外す。
「君は他人の言葉をよく聞きすぎるせいか、判断が遅いな。思い切りが悪いよ」
「わかってます……ごめんなさい」
「謝る必要はないけどね。俺はそういう淑女の方が好ましいと思ってるくらいだからな」
「
「それはそれとして、ちょっとこれを見てくれ」
マッシュルームから外した串を、日本の“箸”のように持ち、皿の上のマッシュルームを摘まみ上げる。しばらく保持した後で、皿に戻す。アナベルが、何をやっているのか判らないという表情で見ている。
「やってみてくれ」
アナベルに串を渡したが、明らかに戸惑っている。どうやって持てばいいのかすら解らないらしい。当たり前か。俺もフォート・ローダーデイルのスシ・バーで初めて“箸”の持ち方を教わった時は感心したよ。
もう2本、串を外し、持って見せる。アナベルはすぐに持ち方が解ったようだが、いざそれでマッシュルームを摘まもうとすると、つるりと滑って逃げていく。マッシュルームは丸いし、オリーヴ油がかかってるからなおさら摘まみにくいだろう。つるり、つるりと何度も逃げられた挙げ句、ようやく摘まんで持ち上げようとしたら、またつるりと滑って飛んで行き、テーブルの上に落ちた。
「どうだ?」
「とても難しいです……」
「そうだろうな。俺もうまく摘まめるようになるまで1週間くらいかかったよ」
「
そのスシ・バーでパート・タイマーをしていた日系の女の子がとても可愛かったから、1週間どころか1ヶ月通い詰めた、というのは秘密にしておく。
「東洋で使っている
「
「これを君の指の訓練に加えたらどうだろう?」
「
反応が今一つだな。もう少し感心してくれるかと思ったが。
「別にマッシュルームでなくても、例えば家でするなら手芸で使う小さなビーズを摘まんで皿から皿へ移し替えるとか」
「
「だが、今日のところはまずこのテーブルにあるマッシュルームと生ハムからだな」
テーブルに落ちたマッシュルームを串で摘まみ上げ、口に放り込む。アナベルが目を可愛らしく見開いて呆然としている。少々下品だったかもしれない。
「食べなよ。それとも、腹が減ってないのか?」
「あ、いえ、減ってます……」
言った途端に、
「あ……そんな、私の……」
「君が食べるのが遅かったら、俺が全部食べてしまうが?」
「え、え……」
アナベルが慌てて串でマッシュルームを摘まもうとする。が、勢いあまって串を突き刺してしまった。慌てて引き抜き、何度か逃げられながらもようやく摘まみ上げて口に収めた。が、もう皿の上にはマッシュルームはない。
「まあ、これも一種のゲームだよ。君も、モニカたちと一緒にゲームをして遊ぶんじゃないのか?」
「あ、はい、時々……」
「ゲームをしてる時は楽しいだろう?」
「そうですね、楽しいです」
「箸で摘まむ訓練をする時も、ゲームの要素を加えた方がいいだろうな。友達を呼んできて、ビーズを移し替える時間で競争するとか。他の指の訓練をするときも、例えば編み物や刺繍なら、楽しいことを考えながらやった方がいいと思う。恋人への贈り物を作るとかね」
「
「俺は技術を伸ばすトレーニングでは、なるべく遊びの要素を取り入れるようにしてるよ。さっき話した、50ヤード先の50セント硬貨にボールを当てるなんてのもそうだ。あれは俺が学生の時に教えてもらったゲームでね。20回投げて何回当てられるかを同僚と競うんだ。ホットドッグを賭けたりして。もっとも、俺がカレッジの
「あの……私、フットボール・アメリカーノのことはよく知らないんですけど、それがすごいのは、その、想像で、何となく解ります」
いや、別に俺のコントロールのすごさを解ってくれというつもりじゃないんだが。
「例えばさっき来ていた君の恋人もスポーツをやっていると思うが……恐らく、サッカーかな」
「あ、はい」
「彼はトレーニングの時に何か工夫したとか言ってないのかね」
「そうですね、特に何も……その、フアンは何をやっても上手で、
なるほどね。だが、その天才が思い込みでないことを祈るよ。あの鍛冶屋や哲学者みたいに。
「それじゃあ、参考にならないな。天才じゃないけどフットボールをやっている友人はいるかい」
「はい、います」
やはりいたか。それがモニカの弟のミゲルだろうな。
「その男は、練習にはつらいこともあるが楽しいこともある、なんてことは言ってなかったか?」
「あ、はい……言ってました……」
「君は彼からそれを聞いて、練習は楽しむべきじゃないとか、もっとつらい思いをしないと天才には追いつけないとか、言ってしまったのでは?」
「…………」
また図星だったようだ。
「俺としては、もう一度彼に会って、話を聞いてみることを勧めるね。必ず参考になることを話してくれるよ。モニカ!」
手を挙げてモニカを呼ぶ。モニカはさっきからずっとこっちの方を見張っているので、すぐに来た。
「ご注文?」
「マッシュルームをもう一皿、いや二皿と、彼女の飲み物」
「じゃ、オルホにしとくわ」
「ダメよ、そんな強いの!」
「何言ってんの、あんた、以前はオルホばっかり飲んでたくせに」
「オルホって何だ?」
「
「俺はサングリアで十分だよ」
「言うと思ったわ。だいたい、今夜、あんたを酔わせるわけにはいかないものね。泊まるところないんだし」
「いや、ちゃんとあるよ。でも、そこまでたどり着けなくなると困るから酔わさないでくれ」
「シー・セニョール」
「さて、マッシュルームが来るまで、生ハムを摘まむ練習でもしていてくれ。競争はしないし、生ハムは逃げないから大丈夫だ」
「あ、はい」
アナベルは素直に返事をすると、串で生ハムを摘まむ練習を始めた。マッシュルームのように逃げはしないが、やはり脂で滑るし、他のとくっついてるので、はがすのが難しいようだ。そして腹が減っているせいか、摘まんだら次から次に食べていく。
その後、マッシュルームを計6皿頼み、串で摘まんで食べる競争をした。もちろん俺が全勝したが、勝つ度に「オルホを飲み干せ」と言ってやったものの、結局、アナベルは酔わなかった。もしかしたら、バレリアよりも酒が強いのかもしれない。人は見かけに依らないものだ。
食事の後、家まで送って行こうかと言うと、素直に従ってくれた。たった1日でこのレヴェルまで警戒心が解けているというのは、他人を信用しすぎ、という気がしないでもない。もっとも、それが彼女のいいところであるかもしれない。
アナベルの家はずっと西のカンブロン門の近くにあり、なかなか大きな造りだった。裕福な家柄の娘かもしれないと思うが、それならどうして職人を目指しているのか、という疑問も頭に浮かんだ。もう少し前に知り合っていたら、訊けたのかもしれない。
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