#6:第3日 (5) パラドールからの夜景
「何か話せよ」
黙々と食べるマルーシャに話を促す。俺の方は話題が思い付かない。
「パラドールには泊まらないの?」
さっきとほぼ同じ質問じゃないか。なぜ俺をパラドールに泊めたがっているのか、よく判らない。監視しようとしているのかな。
「他に泊めてもらえるところを見つけたんでね」
「
「どこに泊まっているのか気になるか?」
「気にしないでおくわ」
「そうしてもらえるとありがたいな」
そうは言ってもマルーシャのことだから、俺がドロレスのところに泊まっていることを知っているかもしれない。何しろ、パラドール・ホテルからはドロレスの
料理とワインがなくなった頃にさっきの偉い感じの男が出てきた。
「セニョリータ・マルーシャ、今日のお味はいかがでしたでしょうか」
「大変結構でしたわ。満足しました」
「デザートと食後のお飲み物はいかがなさいますか?」
「デザートは?」
マルーシャが俺に訊いてきた。
「残念ながらもう入らないね」
「では、今日は以上で。
「
男が下がる。マルーシャがパンを食べながらワインを飲む。まだ足りないって感じだな。しばらくして男が勘定書を持ってくる。マルーシャが例のクレジット・カードで精算を済ませてから席を立ち、男に案内されて外へ出る。
少し歩いて教会の前辺りまで来るとタクシーがいたので拾って乗る。本当に都合よくタクシーが来るものだ。
「俺を気にせず、一人でデザートまで食べてくれてもよかったんだがな」
乗り込みながらマルーシャに言う。
「それほどでもなかったから、いいの」
「ヘイ、運転手、ここからアトーチャ駅へ行くのに、
「トレド門? さあ、それほどでもないでしょうよ」
「じゃあ、そっちを回ってくれ。少し見て行きたいんだ。構わないな?」
後の方はマルーシャに向かって訊いた。
「
5分ほどタクシーが走ると、大きなラウンドアバウトへ出た。その中心に、取り残されたかのように石造りの大きな門が立っている。運転手が声をかけてくる。
「
「ありがとう。だが、停まる必要はない。見るだけでいいんだ。駅に向かってくれ」
「シー・セニョール」
「あれが最後のゲートになるかもしれないと思ってるんだが、どうだ?」
またマルーシャに言う。門には戸口が三つあって、上にはよく判らない彫像がごちゃごちゃと飾ってある。例によってトレドの守護聖人かもしれない。その下には文字が刻み込まれたプレートがはめ込まれているが、何語かすらもわからない。
「そうね、
交換条件を出したのはいいが、そこまで考えていなかった。そもそも、ターゲットを獲得した後でぐずぐずしていたら、他の
「パラドール・ホテルに取り次いでもらうことにしよう。獲得した方が時間と場所を決めて、連絡しておくってのはどうだ」
「
アトーチャ駅に着いた。
帰りの列車の中でもマルーシャは途中で寝てしまい、俺の方にもたれてきたが、アルゴドール駅に着く前にはやはり起きて、何事もなかったような顔で窓の外を眺めていた。乗り継いだバスの中では寝なかった。
トレド駅の前でバスを降りる。停まっているタクシーに――ここではさすがに客待ちのタクシーが何台も停まっていた――マルーシャが乗って去って行くのを見送る。というつもりでいたのだが、マルーシャはドアを開けたまま俺の方をじっと見ている。
「乗って」
「これ以上、どこに連れて行くつもりだ?」
「パラドール」
「何のために?」
マルーシャは答える代わりに俺の方をじっと見つめている。また催眠術にかけるつもりだな。そうはいくか。
「俺は他に行きたいところがある」
今日、何を調査するかは朝の時点では決まっていなかったが、一つだけやると決めていたことがある。ナイフ
マルーシャはまだ俺の方を見つめている。やめろ、俺に催眠術をかけるな。
「……8時までなら」
「
タクシーに乗り込んでしまった。ダメだ、どうしてマルーシャの意志に逆らうことができないんだろう。彼女が何を企んでるか解らない危険な女だって、頭の中で十分に解ってるはずじゃないか。しかも最初はちゃんと断ってるのに、無言かつ無表情で見つめられているうちに譲歩してしまう。あの視線に、一体どんな魔力が秘められてるってんだ。
タクシーは真っ直ぐ西へ走ってアサルキエル橋を渡ろうとしている。昨日渡れなかったはずの橋が、また通れるようになっている。おそらくこのまま真っ直ぐ走って今度はカバ橋を渡り、やはり昨日行けなかったはずの、サン・マルティン橋の北側を通ってパラドールへ行こうとしているのだろう。どうしてこういうことになるのか、解らないことばかりだ。
「今日は一つだけ買わなきゃいけない物があるんだ。それは何とかしてくれないか」
「買い物ならホテルに頼めばいいわ」
「そういうものかね」
高級レストランと同じく、高級ホテルにもあまり縁がないので、ホテルにどんなことまでなら頼めるのかが解らない。まあ、金さえ払えば何でも頼めるのかもしれないが。
カバ橋を渡って左へ折れ、タホ川に沿う道へ入り、昨日は通らなかったコビサ通りを走ってパラドールに着いた。そろそろ日が暮れかかっている。中へ入ると受付の男がマルーシャに寄って来た。
「
「いただくわ。
「
「それから、彼が何か頼み事があるらしいから、聞いてあげて」
「
「着替えてくるから席で待っていて」
マルーシャはそう言い残してどこかへ行ってしまった。まあ、ホテルの自分の部屋に決まっているが。それにしても、着替えてくるってのは何なんだ。あの服装ではいけないのだろうか。
それに、
「あー、
「ああ、まあ、そうだろうな。俺もこんなところで食事をするとは思わなかったんでね。ジャケットとネクタイ着けるだけじゃダメか?」
「あー、さようですな、テラスですので、それで結構でございます。こちらでご用意いたしましょうか?」
「貸してくれるのならありがたい。取りに行くと、1時間はかかりそうだからな」
「かしこまりました。それで、私どもへの頼み事というのは何でございましょう?」
「ナイフ
「…………」
男が絶句してしまった。予想外だったからだろうが、当然だろうな。今までにそんな物を頼んだ客がいるのかどうか。しかも俺は客じゃないし。
しかし、しばらく考えた後で男は気を取り直したように言った。さすが一流ホテル。
「探して参ります。お持ち帰りですか?」
「そうだ」
「何時頃までご滞在のご予定で」
「8時」
「では、それまでにご用意いたします。
男は俺にロビーの椅子を勧めてから立ち去った。しばらくして別の男がジャケットを持ってやって来た。貸衣装か、ホテルの従業員の私物かは判らないが、肩幅はぴったりだった。袖が少し短い。俺の腕が長いせいだろう。ネクタイは新品のようだが、ホテルで売っているものか、それともこれも私物かは判らない。金を払えとは言われなかったが、払うとしてもマルーシャであると期待する。
テラスへ案内されたが、昨日とは違う場所で、傘のような屋根がついている。宿泊者専用のスペースではないかと推察する。テーブルからはライト・アップされた旧市街地が見渡せる。俺が座った椅子からは右を向く必要があるが、夜景を正面に見られる方の椅子はマルーシャを座らせるべきだろう。
ウェイターが注文を聞きに来たので、オレンジ・ジュースとマンチェゴ・チーズを頼んだ。注文はすぐに出てきたが、マルーシャが来ない。まあ、着替えると言っていたから、20分や30分は待つものと覚悟しなければならない。美術館で過ごしていた時間を考えれば、
暮れ残っていた空がどんどん暗くなっていく。旧市街地が輝きを増す。まさかこんな形で夜景を眺めることになるとは思わなかった。
同時に、俺は一体何をしているのだろうと考える。今日の一日はほとんどつぶれてしまったと言っていい。何も調査ができなかったばかりか――まあ、トレド門がマドリッドにあるというのが判ったことは唯一の収穫だが――日が暮れてもこんなところでだらだら過ごしている。こんなことをしていなかったら、シナリオとしてどんなイヴェントが起こったのかは気になるが、もう取り返しが付かない。
それもマルーシャのせい、と言うよりは、俺が自分自身を制御しきれなかったせいだ。フットボールをやっていても、ゲームに負けるときはだいたいそんなものだ。レシーヴァーがパスを何回落とそうとも関係なく、QBがプレーを遂行する意志をなくしてしまった時に負けが確定する。マイアミ大ではジョルジオ・トレッタがしょっちゅう諦めかけて、そのたびに俺が代わりに出場したものだ。俺は諦めが悪いので粘りに粘って、そのおかげでたいてい逆転したが、今回はどうやって取り返そうか。
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