#6:第3日 (4) 遅い昼食@ボティン

 尻に根が生えそうなほどの時間を過ごし、ようやく3時になった。隣から、一つ小さなため息が聞こえた。「スリー」以降、一言もしゃべらず、息を殺しているかのように静かだったが、ようやく生き返ったわけだ。

 ガイド・ブックを閉じて隣を見ると、マルーシャが黙って俺の顔を見上げている。いや、待ってくれ、その視線は色っぽすぎる。

「……お待たせしたようねアイ・アプリシエイト・ユア・ペイシェンス

 うん、さすがに多言語話者マルチリンガルだ。忍耐ペイシェンスとはまた最適な言葉を選んでくれたものだ。それをこんな表情で言われると「いや、何でもないよ」とでも言いたくなるところだが、我慢ペイシェンスして言わないでおく。

「で、これからどうするんだ?」

「帰るわ」

 マルーシャはそう言うと立ち上がり、また俺の手を取って歩き始めた。来た時と同じ速いペースだ。人混みをかき分けるようにしてずんずん歩いて行く。

「他の絵は見ないのか?」

 俺がそう言うと、マルーシャはぴたりと立ち止まって、俺の方に振り返った。そしてまたさっきの色っぽい視線で見上げてくる。

「あなたが何か見たいものがあるなら……」

「いや、俺は別に見たいものはないが……君は『ゲルニカ』を見るためだけにここに来たのか?」

「ええ」

「他の美術館には行かないのか?」

「あなたがどこか行きたいところがあるなら……」

「いや、俺は別に行きたいところはないが……」

「なら、早く帰りたいわ」

「昼食は摂らないのか?」

「パラドールに戻ってからではいけない?」

「君は腹は減ってないのか」

それほどにはノット・ソー・マッチ

 嘘だろ、大喰らいのくせに。それに俺が君を見かけるときは、たいてい何か飲み食いしてるじゃないか。

「俺は腹が減ってるから食事に行きたい」

「解ったわ。ごめんなさい、気が付かなくて」

 何がどう解ったのかは解らないが、マルーシャは再び歩き始め、手を引かれたまま美術館を出る。そのまま道路を渡るのかと思ったら、タクシーを拾った。それにしても、マルーシャが道路脇に立った瞬間タクシーが来るなんて、でき過ぎている! まるで映画だ。

「行きたい店はある?」

 タクシーに乗り込みながらマルーシャが訊いてきた。

「ないよ。マドリッドのことは何も調べてないからな」

「何か食べたい物はある?」

「何でも。ただし、脂っこい物と辛い物を避けてくれるとありがたい」

「解ったわ」

 マルーシャはそう言うと、運転手に何か告げた。何とかブラーティンと聞こえたがよく判らない。タクシーは走り出し、次のラウンドアバウトで右へ折れて細い道へ入り、しばらくして大きな教会の前を折れて、どこかの交差点で止まった。

 運転手が俺たちの方に向かって何か言う。店は右の道の先だが、逆方向の一方通行なので、ここから歩いて行った方が早い、とのこと。

 降りて50ヤードほど歩くと板張りの壁の店があって、"SOBRINO de BOTIN"とある。マルーシャに続いてその店へ入る。案内係がマルーシャを見てひどく動揺している。

「ああ、こんにちはブエナス・タルデスごきげんいかがですかコモ・エスタ、セニョリータ……」

「予約はしていないけど、食事できるかしら」

「ああ、はい、セニョリータ、もちろんです、しばらくお待ちを……」

 案内係はそう言ってどこかへ消えていったが、すぐに支配人クラスと思われる偉い感じの男がすっ飛んできた。

「セニョリータ・マルーシャ! 突然のお越しで驚きました。いつマドリットへおいでに?」

 お前、この世界でも有名人なのか。というか、この男の反応は、このレストランに以前にも来たことがあるってことだよな。でもここ、仮想世界なんだぞ。

「急に思い立って来ただけなの。食事できるかしら」

もちろんですともシー・コモ・ノ! すぐにお席を用意いたします。ええと、こちらの殿方もご同席で?」

もちろんクラーロ

 わざわざ訊いてきたってことは、同席するような男には見えないってことだろう。まあそうだろうな。いくら昼食時とはいえ、一流と思われるこんなレストランへ来るのに、ポロ・シャツにジーンズはないだろうぜ。

 男の後ろに付いて入口横の階段を降り、煉瓦のトンネルのような地下の席へ案内された。たぶん、ワイン蔵だったところを利用していると思われる。こういうトンネルは、ドイツとオーストリアに近い架空の国でも見た。

 一番奥まった静かなテーブルに着き、マルーシャがメニューも見ずに注文する。前菜にスープに卵に魚に肉。数が多い。遅い昼食なのにフル・コースを頼むつもりらしい。腹が減ってないんじゃなかったのか。

「それからワインビーノはエレンシア・レモンドの1994年とグラン・アルビナの1998年を」

かしこまりましたシー・セニョリータ

 ウェイターが去ると二人きりになってしまった。他の客は遠くに何人かいるだけ。マルーシャが俺の方をじっと見ている。無表情の視線なのに魅了されそうで困る。

「どうやらいいレストランに連れてきてもらったようなので、名前を聞いておこうか」

「ソブリノ・デ・ボティン」

 スペイン語のはずなのに、英語に同時通訳されなかった。固有名詞は翻訳されないのだろうか。

「有名な店なのか」

「ええ」

「ずいぶん品数を頼んでいたようだが」

「食べきれないなら残せばいいわ」

「そういうものかね」

 フル・コースの食事に慣れている人種とそうでない人種の考え方の差かな。ウェイターが水とパンを持ってきて、グラスに水を注いでいった。すぐにマルーシャがパンに手を伸ばす。だから、腹が減ってないんじゃなかったのかよ。仕方なく俺もパンを手に取る。

「マドリッドへ来られると、なぜ知っていた?」

 こんな訊き方は競争者コンテスタントが相手でないと通じないだろうな。

「初日に駅まで行けたから」

「初日に? 俺は昨日、行けなかったぞ。アルカンタラ橋のところに壁があったんだ」

「そういうこともあるかもしれないわ」

 平然とそう言ってパンを口に運ぶ。全く驚いていないようだ。この世界では何が起こっても不思議ではないと思っているからかもしれない。

「マドリッドの可動範囲を調べる気はないのか」

「ないわ」

 まるっきりやる気がなさそうに聞こえる。そもそも今日、ここに来るまでの行動といい、不可解なことばかりだ。ターゲットの調査なんてどうでもいいと思っているのだろうか。

 サラダが運ばれてきた。スペインへ来てから野菜が不足しているような気がしていたのでありがたい。しかも、うまい。有名な店でも期待外れという場合がたまにあるが、忙しい時間帯に当たるとそういうことが多くて、今は暇だからちゃんと調理したものが出てきているのだろう。もちろん、“有名な”マルーシャが一緒だからというのも大きいに違いない。

 続いてニンニクのスープ。スープの中にパンと卵が埋まっている。スペインはニンニク料理が多いな。

「ここに来たときはいつもこれを食うのか?」

「そう何度も来たわけじゃないわ。これを食べるのは2度目かしら」

「何度来たことがあるんだ? もちろん、君がいた本来の世界でだが」

「3度」

 卵料理が来た。また卵! スクランブルド・エッグにソーセージとポテトが入っている。ソーセージは真っ黒だ。

 白ワインが抜かれた。ほんの少し注がれたところでソムリエを制する。昼間からそんなに飲めない。

「君も何か話せよ」

「なぜパラドールに泊まってないの?」

「部屋が空いているか訊こうと思ってたんだが、君からメッセージをもらって動揺してたんで訊き忘れたんだよ。そもそも、君はなぜ泊まれたんだ? 俺はどこのホテルを回っても満室、空いてないって言われ続けたんだぞ」

 マルーシャのスクランブルド・エッグはもう半分なくなっている。食べるのが早い。そのわりに、がっついているようには見えない。むしろマナーよく優雅に食べているように見える。これも催眠術だな。

「カードは見せた?」

「何のカード?」

「支給されているクレジット・カード」

「あれがどうした? 見せれば待遇が変わるとでも?」

「ええ」

「本当かよ……」

 俺は現実世界ではパート・タイマーなのでクレジット・カードを作ってもらえなくて、現金か電子マネーで支払いをする癖が付いているからな。この世界でも、あのカードで支払いをしたことは数えるほどしかない。チュートリアルのステージで、カードで指輪を買おうとしたら断られたんで、さほどの効力はないのかと思っていた。ホテルではちゃんと取り扱ってもらえることは解ってるのだが。

 魚料理は舌平目のグリル。白身魚はカロリーが低いのがいい。バターを使っていないのもいい。が、だんだん腹がいっぱいになってきた。ワインがたくさん残っているのでマルーシャのグラスに注ぐ。

「腹が減ってないと言っていたわりによく食うな」

「食べられる時に食べておかないと後で困るから」

 栄養を自由に出し入れできる場所があるってのは羨ましいもんだ。俺も貯めることくらいはできるが、取り出すのはかなり難しくてね。

「じゃあもし、君が腹いっぱい食うとしたら、サンドウィッチなら何人前だ?」

「知らないわ。試したことないもの」

「5人分くらいじゃ腹いっぱいにならないんだろうな」

「たぶんならないわ」

「10人分なら?」

「まだもう少し食べられるかしら」

 大皿が載ったカートが来た。肉料理らしい。カットされているが、動物が腹ばいになったような形をしている。ウェイターがそれを恭しい仕草で皿に取り分ける。

「で、これは何の料理?」

子豚のグリルコチニージョ・アサード。この店の名物スペシャルティー

 子豚ね。まあ、言われてみればそう見えるな。子豚ってのはあまり食べたことがないが、脂肪の量としてはどうなんだろうな。

 赤ワインが抜かれる。ソムリエがまた少しでいいのかと目で訊いてくるので、そうだと目で返す。皿の上にはカットされた子豚が三切れと、丸ごと焼いたポテトが四つ。マルーシャの皿の方が子豚が二切れ多い。いやはや、店の方も解ってるようだ。

 身は柔らかくて、皮は香ばしく焼き上げてある。まあ、こういうものだろうという味だ。俺にはこの程度の味覚しかないから、高級レストランに縁がないんだ。

 マルーシャも黙々と子豚を切って口に運んでいる。切った一片が結構大きいが、口はそれがちょうど入る大きさにしか開けていないから、がっついているように見えないのだということが判ってきた。

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