#6:第3日 (6) 夜の女神
まとまらないながらもあれこれ考えているところへ、後ろから軽いハイヒールの音が聞こえてきた。振り向くと、女神が立っていた。輝く黄昏の女神だ。別に、アヴァターのように光っているのではないが、彼女の周りだけ夜の闇が避けているように見える。
モス・グリーンのパーティー・ドレスに、ジャンパン・ゴールドのショールというか長袖のボレロ、靴もそれに合わせたシャンパン・ゴールドのハイヒール、髪にはおそらくダイヤがちりばめられたアリス・スタイルのヘア・バンド、そしてダマスキナードのイヤリング。バニティー・ケースのような小さなバッグを携えている。服装としてはよくあるインフォーマルだ。それを女神が淑やかに着こなしている。
思わず立ち上がり、エスコートしなければと思ったが、身体が固まって動かない。周りにいた客も一斉に静かになった。女神がゆっくりと近付いてくる。あと3歩ほどの距離になった時に立ち止まった。俺はようやく一歩を踏み出し、椅子を引いて勧め、女神、いやマルーシャが
自分の席に座ってからもう一度マルーシャを見直す。ため息が出るほど美しい。化粧も昼間とは少し違って、夜の装いだ。表情も穏やかで、笑顔こそないものの、まるで夢を見ているような、ぼんやりとした視線で夜景を眺めている。残念なことに、俺の方には一瞥もくれない。
ウェイターが近くにいるが、畏れ多いのかこちらへ寄って来ようとしない。手で合図するとおそるおそるやって来て、ご注文はとマルーシャに訊く。おい、こういう時は俺に訊くんだ。お前まで緊張してどうする。
「飲み物は?」
「アモンティリャード」
注文をウェイターに伝える。ウェイターが下がってからマルーシャに小さい声で話しかける。周りの客もひそひそ声で、俺たちのことを評しているかのように聞こえる。悪かったよ、俺の方が格落ちで。しかも二段以上な。
「食べ物は?」
「今は要らないわ」
マルーシャは運ばれて来たアモンティリャードに口も付けようとしない。ポーの作品に『アモンティリャードの樽』というのがあったのを、意味もなく思い出す。
「なぜここに俺を連れた来た?」
夜景とマルーシャを交互に見ていたが、最初からの疑問を口にする。そもそも、今日彼女はなぜ俺をマドリッド観光、いやゲルニカ鑑賞へ連れて行ったんだ。少し間があってからマルーシャが口を開く。甘く囁くような響きだった。
「一緒に夜景を見たかったから……」
待て待て待て、これじゃあまるで愛の告白じゃないか。一体何を企んでるんだ? 『アモンティリャードの樽』は名酒で旧友を釣って
「じゃあ、8時まで一緒に夜景を見るか」
「ありがとう」
そのまま二人して黙り込み、夜景を眺める。マルーシャの瞳に籠絡されないように、そちらの方は見ないでおく。空が闇に包まれ、旧市街の灯が宙に浮かぶ巨大な島のように見える。アルカサルの四角い壁が一際輝いている。
ソコドベール広場はここからは見えないが、その近くの土産物屋の工房で、ドロレスはまだ仕事をしているんだろうな。綺麗な女と夜景を見ながら別の女のことを考えるなんて失礼なことこの上ないが、マルーシャに心を奪われないためにはこうでもするしかないだろう。
とりとめもないことを考えたり、逆に頭を空っぽにしていたりするだけなのに、どんどん時間が経つ。周りの声ももう聞こえなくなって、すぐ横にマルーシャがいるという気配しかしない。見なくてもそこにいることが判る女というのもすごい。きっと、周りの空間を支配する特殊な力が働いているのに違いない。度を超えた美人の近傍では物理法則も正しく適用できないのだろう。さっきは光の軌道すらも曲げていたようだし。
不意にその空間が揺れる気配がした。きっとマルーシャがアモンティリャードに口を付けたのだろう。見なくても判る。そっと時計を見る。8時5分前だった。いつの間にか1時間半が経っていた。あるいは俺に時間を教えてくれるために飲んだのかもしれない。
5分後に、マルーシャの方を振り向く。マルーシャの顔がゆっくりと動き、夜景の方に漂っていた視線が俺の方に凝結する。あまりの美しさに、身体が凍りそうになる。
「申し訳ないが、時間だ」
「
俺が立ち上がると、マルーシャも立ち上がる。俺のことを見つめてくれているが、その視線には俺を引き留めようとする力はなかった。ようやく俺にかけた催眠術を解いてくれたらしい。一日付き合った女と別れるときは「今日は楽しかった」とでも言うべきだが、言わないことにする。
「……
こんな素直な感謝の言葉を聞けるとは思っていなかった。美術館での忍耐が少しは報われた気がしないでもない。が、一日振り回されっぱなしだったことは否めない。それを怒る気になれないのが不思議だが。
「君はもう少し夜景を見ていていいよ」
そう言ってマルーシャを置いて歩き出す。後ろから視線が追いかけてくるのを感じる。結局、彼女が何をしたかったのか解らない。あるいは本当に、一緒にいて欲しいと思っていただけなのかもしれない。
ロビーへ行くと受付の男が俺に気付いてやって来た。ジャケットとネクタイを脱いで男に渡す。男はそれを受け取りながら、ご注文の品を用意しましたのでこちらへ、と言って
「何だ、これは」
「
「当ホテルの
男が得々と解説する。いや、
「その日本人料理人には厚く礼を言っておいてくれ」
「ありがとうございます。タクシーをお呼びしておきましたが、お使いになりますか?」
「ありがとう。利用する」
砥石の箱――二つもあった。きっと粗研ぎ用と仕上げ用だ!――を持ってタクシーに乗る。坂を下りるに従って、夜景がどんどん平たくなる。ソコドベール広場まで頼んだが、アルカンタラ橋の前で降りた。ここから歩いた方が早い。それに、マルーシャがいないと“壁”にぶつかりそうな気がする。
広場へ出ると、ようやく普通の世界に戻ってきたという気になった。いつものように袖なし男を無視して、いつもの店へ行くと、モニカがいた。微妙な表情をしている。
「昨日と同じ席は空いてないのか?」
「そうじゃないけど……今日は別の店にした方がよくない?」
「どうして」
「だって、またきっと来るわよ、リカルドが」
「ああ、あの面倒くさい男……だが、他の店に行っても、きっと探し当てて来るんじゃないのか」
「まあね、そうかも」
「だったらここでも一緒だろ」
「んんー、まあいいわ、ドロレスとあんたが一緒なら大人しくしてるでしょ」
いつもの席へ案内してもらいながら、またモニカに訊く。
「ところで君はドロレスのことをロリータと呼んでいたな」
「そうよ。だって子供の頃からそう呼んでるんだもの」
「彼女は嫌がってるみたいだが」
「全く、何が嫌なのかしらね。とっても可愛い呼び方なのに」
「俺もそう思うよ。だから、もっとロリータって呼んでやってくれ」
「ふーん、あんた、話が解るわね」
そう言ってモニカが笑った。と言っても鼻で笑っただけだが、少しは俺に対する印象が変わったと思われる。
「ご注文は?」
「オレンジ・ジュースと、そうだな、エビの焼いたのとかあるか」
「あるわよ。ニンニク風味だけど、いい?」
「できればニンニクは少なめの方がいいな」
「んんー、頼んでみる。他には?」
「ドロレスとは子供の頃からの友達?」
「そうよ、隣に住んでたから」
「どっちが年上?」
「どっちに見える?」
「君の方が可愛いけど年上」
「
「それだけだ」
注文はすぐに運ばれてきた。今日は待ち時間が長かったので、5分や10分はあっという間に感じる。
「やあ、ドロレス、早かったな」
「アーティー、今日は別の店へ行かない?」
「どうして」
「だって、またリカルドが来たら面倒くさいし……」
モニカと同じことを心配しているらしい。というか、モニカがドロレスの考え方をよく判っていて、ドロレスが言いそうなことを当てたのだろうという気がする。
「他の店へ行っても、きっと探し当てて来るんじゃないのか」
「あ、うーん、そうかもしれないけど……」
「だったらここでも一緒だろ」
「でも、あいつの相手するの、少しでも短い方がいいじゃない」
「酔わせて寝るまでの時間は一緒だろ」
「うーん、それはそうかもしれないけど……」
「やあ、ロリー、ロリー、久しぶり、久しぶりじゃないかぁ」
「え、ク、クラウディオ!? 何してるの、こんなところで……」
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