#6:第3日 (3) 美術館のドン・フアン

 マルーシャをずっと一人で放っておくのも悪いので、そろそろ戻ることにする。さっきのアルコーブへ行くと、見知らぬ男が彼女の横に座って熱心に話しかけていた。スペイン人かな。スポーツマン・タイプでなかなかハンサムだが、目がいやらしすぎる。あれは女たらしの目だ。

 マルーシャは男を一瞥だにせず、返事すらもしていないようだが、さてどうしたものか。まあ、助けるよりないよなあ。

「失礼、セニョール、彼女は俺の連れなんだがシー・イズ・ウィズ・ミー

 女たらしは俺の方を睨んだ後で、にやりと笑って言った。

「誰だい、君は。僕とこの美しいセニョリータとの大切な時間を邪魔しないでもらいたいな。さっさと消えなよ。ああ、セニョリータ、その白いドレス、よく似合っているよ。素晴らしいプロポーションだね。なんて美しい目をしているんだ。君こそが芸術だ。僕はもう君のことを愛しすぎておかしくなりそうだよ。君がこんなところで他の男に見られていることさえ耐えられない。今から僕と食事へ行こう。ゆっくりとおいしい料理を食べたら、次は買い物だ。君の欲しいものは何でも買ってあげるよ」

 よくそれだけ次々に言葉が出て来るものだ。感心する。しかも、美術館の中でこれだからなあ。場所柄をわきまえないにも程がある。と思っているのだが、誰も注意する様子がない。絵の横に監視員が座っているが、彼らに聞こえなければ何でもありなのか。スペインというのは面白いところだ。

 マルーシャの右の方から男が話しかけているので、左側に座って胸元に手を差し出す。マルーシャがその手を取る。女たらしがむっとしている。

「ああ、セニョリータ、なぜこんな汚らわしい男の手を取るんだい? さあ、その手を離して僕の手を取ってくれ。君のような美しい淑女ダーマには、僕のような立派な男こそふさわしいんだ。君のことを世界で一番愛しているのはこの僕だ。僕は君のことを世界で一番幸せにしてあげるよ」

 なかなかしつこい。それどころか、マルーシャの手を取って俺の手を引きはがそうとしている。かなり力を込めているようだが、マルーシャは俺の手を離そうとしない。まあ、俺が振りほどくにも一苦労してるんだから、当然のことと思うが。

「さあ、セニョリータ、その美しい手で、僕の力強いこの手を……この手を取っておくれ、さあ……」

「君の同伴者パートナーは俺で問題ないというのなら頷いてくれ」

 俺がそう言うと、マルーシャが小さく頷いた。もちろん、視線は絵の方から全く外さない。

「セニョリータ、君はこの男に騙されているんだよ。僕が真実を教えてあげる。君の恋人にふさわしいのはこの僕だよ。そうだろう? さあ、その美しい顔で頷いてみせて……」

 マルーシャはマネキンのように動かない。女たらしは「さあバモス! さあバモス!」と言い続けている。言い続けながらなおもマルーシャの手を取ろうとしている。頑張るなあ、この女たらしも。

「この男に立ち去って欲しいなら、頷いてくれないか」

 マルーシャが小さく頷いた。絵に集中しているはずなのに、よく聞いているものだ。しかも俺と女たらしの声をちゃんと聞き分けているらしい。

 女たらしは怒りの表情を露わにして俺を睨んでいたが、しばらくしてすごすごと立ち去っていった。周りの客が何人かくすくすと笑っている。いや、笑いごとじゃないって。

「手、離していいぞ」

 小さい声でマルーシャにそう言ってみたが、逆に握る力が強くなった。「痛っアウチ!」と小さい声で言うと、少し弱くなる。一人で放ったらかしにした罰というわけか。しかし、いつまでこうしていればいいのやら。

 30分ほど経って、手を軽く振ってみたら、離してくれた。ようやく許してくれたらしい。が、またどこかに行こうとすると手を掴まれるに違いない。しかし、もうそろそろ昼だ。もちろん、スペインの昼食時間帯はもっと遅いが、朝の間食もしていないし、腹が減ってきている。ましてや大喰らいのマルーシャが、飲み食いもせずよくじっとしていられるものだ。朝に食いだめでもしてきたのかね。

「昼食、行かないのか」

 マルーシャが首を振る。いや、お前は行かなくてよくても、俺が腹減ってんだけど。

「一人で行ってきていいか?」

 またマルーシャが首を振る。そして、聞こえるか聞こえないかというほどの小さな声で呟く。

「一緒にいて……」

 いやいやいや、心臓がドキドキしてきた。こんな風に愛を囁くかのように言われたら、聞かざるを得ない。というか、マルーシャというのはどうしてこんなに相手の心を操作するのがうまいのだろう。やはり俺は彼女の催眠術にかけられているとしか思えない。

 まあ、いいか。一食抜きなんてのは慣れてるし。それに、俺がいなくなったらまた男に声をかけられて困るだろう。

 ああ、そうか、もしかしたら俺は、男避けとして連れて来られたのかもしれないな。きっとそうだ。しかし、騎士ナイトってのは淑女レディーのそういう頼みにも応えないといけない役目だから仕方ない。

「何時まで?」

スリー……」

 3時? 今、12時過ぎだから、あと3時間!? そもそも、ここに来たのが10時過ぎで、それから2時間も経ってるのに、まだあと3時間!

 美術館全体を回りながら過ごせってのなら判るが、ここにあと3時間もここで座ってろって? いやはや、一体どうすればいい?

「本、貸してくれるか」

 朝、ソコドベール広場でマルーシャは本を読んでいた。何の本だか知らないが、それを読みながらなら時間をつぶせるかもしれない。

 マルーシャが絵の方を向いたまま、ハンドバッグの中から手探りで本を取り出す。手渡されたのを見ると、"El ingenioso hidalgo Don Quixote de la Mancha"。ダメだ、こりゃ、スペイン語の本だ。読めない。マルーシャが多言語話者マルチリンガルだってことを忘れていた。さて、どうしたものか。

「マドリッドの地図、持ってるか」

 マルーシャがまた手探りでバッグの中から地図を取り出す。本を返して地図をもらう。スペイン語だったが、地図なら本よりはまだ“読める”。

 まず、鉄道の線路から駅を探す。"Atocha"、あった。その向かいにある"Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofia"が今いるところだ。

 道路を挟んでその北西にある"Real Jardin Botanico"は……"Botanico"は植物だろう。そうだ、"Jardin"はフランス語で庭という意味だったはずだから、スペイン語でも同じような意味だろう。つまり植物園か。

 その北にある"Museo del Prado"は、これは判りやすい、プラド美術館だな。どんな美術品が置いてあるのかは知らないが、名前だけは知っている。その斜め向かいにあるのが"Museo de Arte Thyssen-Bornemisza"、ティッセン・ボルミネッサ美術館か。ティッセン・ボルミネッサってのは何のことか判らんが、たぶん人名由来だろう。

 それにしても美術館が多いな。"Museo Naval"、海軍博物館? いや、違うな、海の博物館ってところか。それから"Museo Nacional de Artes Decorativas"、装飾芸術美術館、かな。

 で、これらの東側にある巨大な公園は何だ。中に色々建物がありすぎて、どの文字が公園の名前を指しているのかが判らない。しかし、公園だから"Parque"を探せばいいはずだ。あった。"Parque del Retiro"、レティーロ公園か。これらのどこかにターゲットのヒントがあったりしないのかな。

 こっちにある広い敷地は何だ。"Palacio Real de Madrid"。"Palacio"? うん、宮殿パレスだな。つまり王宮だ。例によって近くに大聖堂もあるな、"Catedral de Santa Maria la Real de la Almudena"。いや、さすがにもう大聖堂を見るのは飽きた。

 それから……うん、待てよ、これは何だ。"Puerta de Toledo"、トレド門? なぜこんなところにトレド。でもまあ、憶えておく必要がありそうだな。それから……

 色々と地図の“解読”をやってみたが、さすがに1時間が限界だった。しかし、あと2時間頑張らなければならない。

 マルーシャがいるおかげで何人もの男がこちらを見ながら通り過ぎる。その中で人の良さそうなのを一人選び出し、こっちへ来いと合図を送ってみる。

「何です?」

 男が一人寄って来た。英語をしゃべっている。たぶん、イングランド人だろう。

「下のミュージアム・ショップへ行って、ガイド・ブックを買ってきてくれ。英語版」

「は? どうして僕が」

「買ってきたら釣りを全部やる」

 そう言って100ユーロ紙幣を差し出す。男は呆気に取られていたが、しばらくして笑顔になると、「OK、買ってくるよ」と言って、紙幣をもぎ取るようにして持っていった。よく考えたらそのまま全部持ち逃げされる可能性もあるわけだが、まあいい。が、10分もしないうちに男が帰ってきた。

「買ってきたよ。20ユーロもしなかったけど……」

「ありがとう。釣りはお前のだ」

 男は笑顔でガイド・ブックを俺に手渡し、去って行った。ガイド・ブックはかなり分厚い。これなら2時間は過ごせそうだ。

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