#6:第3日 (2) 絵画を観る淑女

「……一緒に来て欲しかったのに」

 しばらく経ってからマルーシャが囁くように言った。特に抑揚もない言葉だったのに、心の中にぐさりと突き刺さってくる。

「俺も今日は他にやることがあるんでね」

 実は何をやるかまだ決まっていないのだが、彼女の言いなりにはなりたくないという思いから、つい反発してしまう。今回は一体何を企んでいるんだ? マルーシャはまだ俺のことを見つめ続けている。その深遠なブルーの瞳の中に吸い込まれそうで怖い。

「……まあ、条件次第では考えないこともないが……」

 つい、言ってしまった。マルーシャは今までのステージで何人かの競争者コンテスタンツを嵌めてきたのに違いないが、どうやってそれを実現しているかが解った気がする。

「条件?」

「こないだの要求とは別だぞ。“暴力は振るわない”」

「もちろん」

「よし、それじゃあ……もしゲートがどこだか解らなければ、ヒントをくれ。つまり、ステージ内の誰がターゲットを獲得しても、君がゲートを出る前に俺に会いに来るんだ。獲得したのが君でも、俺が君からターゲットを奪ったりしないのは保証する」

 このステージはせっかくやる気になっているので、ターゲットに関するヒントはもらいたくない。だが、ゲートはこの前みたいに訳が解らない場合もあるので、ヒントが欲しくなるかもしれない。

「ゲート……ターゲット……ええ、解ったわ」

 俺の言葉を聞いているのかいないのか、まるで上の空のような返事だった。どうもいつものマルーシャと違いすぎる。

「ところで、君はターゲットが何だかもう判っているのか?」

「いいえ」

 これは即答だった。そういうところはマルーシャらしいのだが、全く判っていなさそうなこと自体が意外だ。

「それで、これから何をするんだ?」

「私と一緒に来て欲しいの」

 そう言うとマルーシャは俺の手を取って歩き始めた。

「おい、ちょっと、どこへ……」

「こっちよ」

 マルーシャは俺を引っ張って、ものすごい勢いで歩いていく。細い、華奢な手なのに、振りほどくことができない。だが、しっかり掴まれているのに痛くもない。まるでマジックだ。

 アルコ・デ・ラ・サングレを通り抜け、セルバンテス像の脇を通って坂を降り、アルカンタラ通りに折れてから階段を下ってドセ・カントス門をくぐり、アルカンタラ橋を渡る。昨日、俺が川の外周の道から帰ってきたのとちょうど逆の道筋だ。そして橋を渡り終えてからマルーシャは北へ行こうとする。

「ヘイ、そっちは……」

 “壁”がある、と言おうとしたら、あっさりと通り抜けてしまった。いやいやいや、おかしいじゃないか、昨日は確かにここに“壁”があったのに!

 一体どうなっているんだ。“壁”がなくなるようなことを、マルーシャがしたのだろうか。だとしても、俺まで通り抜けられるようになるなんてことがあるはずない。

 混乱している俺を引っ張りながら、マルーシャはどんどん歩いて行く。足を速めて横に並び掛ける。

「おい、どこへ行くつもりなんだ?」

「マドリッド」

 マドリッドだと? 行けるのか? どうやって?

 川から離れ、ロサ通りを東へ行く。この先にはトレドの鉄道駅があるはずだ。列車に乗るつもりか? 乗れるのか? 今までのステージで、駅に入れたことは一度もなかったのに。

 駅に着いた。工事中らしい。マルーシャが手を離し、駅の窓口で係員と何か話している。もちろん、切符を買うのだろう。金を払い、切符を受け取っている。駅へ入るのかと思ったら、また俺の手を取って、駅前に停まっていたバスに乗り込んだ。大丈夫なんだろうか。途中で止まったりしないか?

「このバスがマドリッド行きなのか?」

「いいえ、途中で乗り換えるわ」

 訳が解らないうちにバスが出発する。マルーシャが急いでいた理由だけは解った。このバスに間に合いたかったのだ。つまり、彼女はこのバスに乗れるのを知っていたということになるが……

 それにしても、彼女との距離が近い。バスなので席が狭く、身体がくっつきそうだ。いや、腕はもう触れてしまっている。こんなに近付いたのは初めて……でもないか。オックスフォードでは後頭部をぶん殴られたり、その後、背後から掴みかかったりしたもんな。明るいところでこんなに近付くのは確かに初めてだ。

 しかし、近付くと危ないという感じが、今日は全くない。しかも、何とも言えないいい香りがする。見れば見るほどその美しさに惹き込まれそうで、思わず顔を逸らす。

 バスは平原の中の一本道を猛烈なスピードで走り続け、15分ほどで停まった。古い煉瓦造りの建物の前で、"ALGODOR"と書かれた看板が上がっている。これがどうやら乗り換え場所らしい。

 バスを降りて建物の中へ入る。鉄道駅だった。白と赤に塗られた、新しい列車が停まっている。トレドからここまでも線路があったのに、列車が走っていない理由がよく解らない。事故で運休しているのだろうか。そうか、マルーシャはきっと知ってるな。

「さっきも横に線路があったが、どうしてバスだったんだ」

「高速鉄道AVEアベの工事中。開通は約1年後の予定」

 ということは、新線を作らずに既存の線路を高速用に改修するんだな。都市部だけ既存の線路に乗り入れる方式は知っているが、どうしてそうしなかったんだろう。いや、そもそもここは仮想世界なんだから、現実の建設スケジュールを守る必要があるのか。高速鉄道だけ1年先の未来から持ってくるとか、できないのかよ。

 列車に乗ると、すぐに出発した。連絡がいい。やはりマルーシャの隣に座らされた。座席はもちろんバスより広いが、間が5インチほど広がったに過ぎない。

 マルーシャは黙って左の窓の外を見ている。一緒に来て欲しいと言ったくせに、話しかけても来ない。俺は右側の窓から外を見る。もちろん、通路と反対側の座席を挟んでいるから、あまり眺望はよくない。そもそも、山もほとんどないような平原をひたすら走っているだけなので、景色そのものがつまらない。

 列車が揺れて、左肩に重みを感じるようになる。見ると、マルーシャがこっちへもたれかかっている。頭が俺の肩に載っている。寝ているようだ。こんな安らかな表情で寝るのかというような、無邪気な顔をしている。無防備この上ない。おまけにドレスの胸元も無防備そのもので、柔らかそうな深い谷間が丸見えだ。

 まじまじと見ている間に目を覚まされたら言い訳がしにくいので、ほどよい時間だけ眺めてから右側の窓の外に目を移す。起こそうかと思ったが、頭と細い肩から伝わるぬくもりが何とも言えず気持ちいいので、そのままにしておく。

 列車は平原を走り続け、時々集落の近くを通り抜けるだけだったのだが、だんだんと建物の方が多くなってくる。不意に肩の重みが消える。見ると、マルーシャがまた窓の外を見ている。ずっと起きて外を見ていました、というかのようだ。

 アルゴドール駅から1時間足らずで終点のアトーチャ駅に着いた。ドーム・スタジアムのような天井の高いコンコースを通り抜けて外へ出る。もちろん、マルーシャに手を引っ張られている。

 駅の前は三つの道路が合流するラウンドアバウトになっていて、その横断歩道を渡る。そして美術館のような建物の前に出た。いや、これは間違いなく美術館だな。

 マルーシャが手を離し、受付でチケットを買っている。また手を握られ、中へ入っていきなり階段を上がる。中庭の見える廊下を歩き、展示室へ入っても立ち止まることなく、2階の奥の部屋へ直行する。

 白い壁に、壁画のように大きな絵が掛かっていた。モノクロームで、幽霊のような奇妙な姿の人や動物が描かれている。うん、これは俺でも知っている。ピカソの『ゲルニカ』だな。マルーシャはこれを見に来たのだろうか。

 マルーシャは展示室の入口から中央へ向かってゆっくり歩きながら絵を見ていたが、反対側の壁にある、アルコーブのように凹んだ空間に入り込んだ。黒いソファー・ベンチが置いてある。そこへ座ると、絵を見つめたまま動かなくなった。もちろん、俺は手を握られたままなので仕方なく隣に座る。

 目の前にはひっきりなしに人が歩いたり立ち止まったりして、まともに絵の全景を見ることができない。それでもマルーシャはそこから動こうとしない。ただ、しばらくして握っていた手を離した。俺がどこへも行きそうにないと思ったらしい。だが、俺としてはどんな絵でも10分も見れば充分だと思っているので、早くも飽きてきた。

 とりあえず30分くらい待ってみたが、マルーシャは全く動きそうもない。恐らく、1時間や2時間はこのままだろうという気がする。

 さて、どうしたものか。表情を観察してみる。目は絵に焦点が合っているのかいないのか判らない。むしろ、これほど大きな絵を見るときは、ちょうどフットボールでフィールドに目を走らせるときのように、特に焦点を合わさずぼんやりと全体を見る方がいいような気がする。つまり、彼女の見方は正しい。

 それから周りを見る。絵よりも、こちらの方を見ている男が多くなってきた。まあ、そうなるだろうなという気はする。絵を見ているマルーシャが、それこそ絵のように綺麗だからだろう。

 1時間ほど経って、さすがにこれ以上同じ絵を見ているのがつらくなってきたので、こっそりとマルーシャの横を離れようとしてみた。だが、どうやって俺が動く気配に気付いたものか、素早く手を握られてしまった。絵を見てたんじゃなかったのか?

洗面所レスト・ルームへ行きたいんだが」

 小声でそう言うと、手を離してくれた。一時はどうなることかと思ったが、さすがに洗面所くらいは行かせてくれるんだな。

 もちろん、洗面所だけではなくて、入口の近くまで戻ってリーフレットを取り、廊下の途中のベンチに座ってそれを読む。ここがどこかも知らないままに連れて来られたが、ソフィア王妃芸術センターというところだった。

 フロアは1階から4階まで。1階はインフォメーション・カウンター、コイン・ロッカー、ミュージアム・ショップ、中庭、カフェ。2階は先ほど見た『ゲルニカ』の他、スペインの有名な芸術家、特にピカソ、ダリ、ミロの絵画。3階は企画展示。4階は戦争に関連する芸術。

 全部見て回ってもいいのだが、ターゲットには関係なさそうだ。しかし、マルーシャはどうしてここへ来たんだ? それとも、『ゲルニカ』がターゲットに関係しているのだろうか。

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