#5:第5日 (3) 二つ目の顔

 しばらくして、誰かがやって来る足音がした。ドアを開けて入ってきたのは、事務長パーサーだった。

「ああ、ナイトさん! ……いや、失敬」

 いきなり大きな声を出したので、事務長パーサーは医者に睨まれてしまったようだ。地声が大きいからな。ベッドに寝ているティーラを見てから、後ろについてきた背の高い男に向かって頷いて見せ、それから無言で俺を手招きした。

「ありがとう、ドクター」

「どうしたしまして」

 医者と小声で挨拶を交わしてから、医務室を出る。それから事務室らしき部屋へ連れて行かれた。

「マイク、彼女は確かに我々の汽船シップのお客様だよ。ああ、ナイトさん、こちらはコンシエルジュのマイク・ラリー。あなたが彼女を助けて頂いたそうで、ありがとうございました。今までお客様がプールや海で気分が悪くなって、ここの医者のご厄介になったことは何度かあるのですが、ホテルの外で倒れたというのは初めてですよ。何にせよ、大事に至らずによかったです。彼女は私が後で汽船シップまで送りますので、あなたは今からご自由にして頂いて結構ですが……」

「ああ、そうさせてもらおう。上の道へは景色を見に行ったんだが、あんなことがあったんでゆっくり見る余裕がなかった。もう一度見に行って、それからこのホテルのバーで何か飲んでから、汽船シップに戻ることにするよ」

「バーでチケットをお示しになれば、マルガリータが1杯無料でお飲み頂けますよ」

「解った。それじゃあ」

 医務室を出ると、コンシエルジュが後から付いてきた。途中で俺を追い越し、エントランスまで先導する。外まで案内してから、俺に手を差し出し、握手を求めてきた。

「ミスター、よいご判断をされました。我々はあなたの行為を賞賛します」

「君たちが迅速な対応をしてくれて助かった。彼女を無事に汽船シップまで送り届けてくれ」

「ご心配なく。それでは、よい旅を」

 ドアマンとも握手をし、外の道へ出る。ティーラが立っていたところまで行くと、眼下に港の展望が開けた。道のどこからでも海は見えるのだが、この位置だけが、ホテル内の木々に邪魔されずに、下の建物とマリーナ、そして湾の向こう側の山まで綺麗に見えるのだ。ティーラはいいポイントを見つけ出したものだ。

 もう少し先の方まで歩いてみたが、どこも木が生い茂っていて眺望が利かない。1ヶ所だけ、木々の隙間からホテルを含め、湾全体が見渡せそうな場所があった。そのうち、ここにもホテルが建つだろう。

 ティーラはなぜ倒れたのだろう。俺は彼女に何かショックを与えるようなことを言っただろうか。何も思い当たらない。マルーシャは上陸していないのかな。ティーラが俺を見て倒れたことを彼女が知ったらどう思うだろうか。景色を見るのに集中できないので、もう戻ることにする。いつの間にか4分の3マイル近くも歩いてしまったようだ。

 ホテルのレストランはビーチの端にあり、歩いて行く途中でまたノーラたちの姿を探したが、見当たらなかった。あるいは人が多いので見逃したかもしれない。レストランへ入り、オレンジ・ジュースを頼む。席は半戸外セミ・オープンエアで壁がなく、屋根は椰子か何かで葺かれている。海風が心地いい。

 マリーナから少し離れた沖合にサン・プリンセスが泊まっていて、ちょうどテンダー・ボートが向かっているところだった。ティーラはあれに乗っているかな。ダメだ、どうしてもティーラのことを考えてしまう。おまけにティーラのことを考えると、自然とマルーシャの顔まで浮かんでくる。そっちのことは忘れて、ターゲットのことを考えなければ。

 ターゲットは儀式のセレモニアルコイン。これまでに調べて、関係がありそうな情報はただ一つ、汽船シップの壁に埋め込まれていたコイン・セレモニーのコインだ。しかし、これは既に盗難に遭っていて存在しない。その他に調べてみたのはカジノのコイン、コイン・トスのコイン。マジックのコインはまだ調べていない。

 あと一つ、ヒントになりそうなのはマルーシャが読んでいた“マザー・グース”の本。それから……ダメだ、またマルーシャの顔が頭にちらついてきた。俺は欲求不満か何かなのだろうか。どこか静かなところで瞑想TMでもやった方がいいかもしれないな。

 とりあえず頭を空っぽにしながら、たっぷりと時間をかけてオレンジ・ジュースを飲み干し、テンダー・ボートに乗るために砂浜を歩いた。ノーラたちの姿はやはりなかった。

 マリーナに着いたが、タイミングが悪く、30分近くも待つことになった。ボートがやって来ると事務長パーサーが現れて、ミス・エステル・チュライはもう汽船シップに戻りましたよ、と言った。汽船シップに着くと、一等航海士に呼び止められて、パーサーズ・ロビーへ行って下さいと言われた。行くと副事務長アシスタント・パーサーがいて、メッセージをお預かりしていますと言われ、封筒を渡された。表書きに"My Dear Mr. Artie Knight"(親愛なるアーティー・ナイト様)とある。もちろん、見慣れたあの筆跡だ。封筒を開いて便箋を取り出す。バラの花のような香りがする。


 "I cannot really express you how much I appriciate your saving my sister.

  It would be our pleasure to have you join us for today's lunch at our room."

 (私の妹を救って頂いたことにどれほどお礼を言えばよいか判りません。

  私たちの部屋での昼食に喜んで貴方をご招待させていただきます)


 何てこった、あの二人のことをなるべく考えないようにしようとしている矢先から、これだもんなあ。しかし、昼食はエレインと一緒に摂ることになっている。あいつをあの部屋へ連れて行くのはまずい。どうして彼女たちと知り合いなのかを根掘り葉掘り訊かれることになるだろうからな。

「返事を書きたいから、タイプライターを貸してくれ。それと、便箋と封筒を」

「お安い御用です。おや! お部屋へ持って帰らないんですか?」

「すぐに打ち終わるよ」

 カウンターでタイプライターのセッティングを始めた俺を見て、副事務長アシスタント・パーサーが驚いている。オリベッティのレッテラだよ。またしても俺が使い方を知っている機種だ。今回はライカのカメラといい、タイプライターといい、骨董品に触れる機会が多い。俺にはこの時代の方が合っているのかもしれない。

 プラテンを右へ押し、"MY DEAR MARIYA AND ESTHER"とゆっくり打ちながらキーの重さを確かめ、改行してから一気に本文を打ち上げる。機関銃のような音に副事務長アシスタント・パーサーがひゅうと口笛を鳴らす。

すごいやアメイジング! プロのタイピストのようですね」

「80単語毎分WPMくらいだ。大したことはないよ。それより、これを返事として差出人へ届けてくれ」

「かしこまりました」

 便箋を畳んで封筒に入れ、副事務長アシスタント・パーサーへ渡す。上書きはないが、手渡ししてくれるだろうから問題ないはずだ。いったん船室キャビンへ戻り、寝ていたエレインを叩き起こしてダイニングへ昼食に行く。グレイス&ルーシーとまた一緒の席になった。彼女たちも予定どおりホテルを見に行ったのだが、ミッチェル夫妻は見かけなかったそうだ。俺が一瞬だけ見かけたと言うと、グレイスは盛んに羨ましがっていた。

「グレイスはミッチェル夫妻を探してずっと歩き回ってるんですもの。一緒にいると疲れちゃいましたよ」

「だって、とても面白い構造のホテルだったんですもの。ミステリーに向いてるとか、そういうのを抜きにしても興味深い建物だったと思いません?」

「うん、そうだな、形としては海賊の砦を連想させるよ。いかにも隠れ家的な感じだな。もっとも、あんなに白くて目立つ隠れ家はないと思うけど」

 グレイスが我が意を得たりとばかりに頷く。しかしその後は、クリスティーの『白昼の悪魔』に出てくるホテルはあんな感じだったのではないか、などとやはりミステリー的趣味の方へ話が流れ始めた。

 エレインは話に全く乗ってこないが、行けばマルガリータを一杯無料で飲ませてもらえたと言うと、そっちの方を羨ましがっていた。浅ましい奴だ。午前中は何をしていたのか訊いてみたが、朝寝した後、カジノに行って遊んでいたと言う。そんなに金を持って来ているはずはないと思っていたのだが、スロット・マシーンで5ドルすった後、クリスティンと一緒にルーレットを見ていただけだと。クリスティンに金を借りたとか言い出したらどうしようかと思ってひやひやした。それから船室キャビンに戻って昼寝していたらしい。寝てばかりだ。

 食事が終わりかけになって、これから何をするかという話になったが、3時から船長キャプテン主催の2回目のカクテル・パーティーがあり、グレイス&ルーシーは参加するとのこと。エレインも参加したいと言った。俺はアルコールが苦手なので断った。今夜は2回目のフォーマル・ディナーだから、またワインが出るし、そんなに飲んでばかりいられない、と言っておいたが、実は3時から別の約束がある。

 その3時に、ナイツブリッジ・スイートの呼び鈴ベルを鳴らす。昼食の代わりに、ティー・パーティーに誘ってくれというメッセージを返したのだ。間髪を入れず、ドアが開かれた。まるでドアの前で待っていたかのようだ。そしてそこに立っていたのはマルーシャだった。襟元と袖に、派手な花柄の刺繍が施された白いブラウスを着ている。そして細かい刺繍がちりばめられたワイン・レッドのタイト・スカート。普通の部屋着ではないだろう。客を迎えるための、いわば準正装だ。民族衣装をアレンジしたのではないかと思われるが、よく判らない。

 俺も一応、ホワイト・シャツに黒のスラックスを穿いてきていたので、何とか釣り合っているだろう。後でフォーマル・タイムになるので、そのついでに着替えてきたのだが、普段着で来なくてよかったと心底思った。

「どうぞ」

 笑顔ではなく、さりとて冷たい感じでもない、感情不明の表情だ。本当に歓迎されているのか不安になる。中へ入るとティーラがソファーのところに立っていた。マルーシャとよく似たデザインの、緑を基調にした服を着ている。スカートはフレアだった。そのティーラをマルーシャが呼び、二人が並んで俺の前に立つ。この時だけ、マルーシャの表情が若干柔和になった。ティーラの方は少し落ち着きのない表情をしている。

「今朝は……」

 マルーシャが言った。昨日の朝の冷静な表情とも違うし、その前の夜の歌手としての表情でもない。彼女はいくつ表情を持っているのか。もちろん、今見せているこの表情が本来のものであるかどうかも判らない。

「妹を窮地から救って頂いて、ありがとうございました。改めてお礼を申し上げます。ささやかなお礼ではありますが、ティー・タイムをお楽しみ下さい」

 そんなに改まって優雅にお礼の言葉を述べられても困惑する。それに、ティーラを“窮地”に陥れたのは実は俺ではないかという気がするので、逆にそのことを責められても文句は言えないと思うのだが。

「ティーラ、あなたからもお礼を」

「あ、はい、あの……ご親切にして頂いて、本当に感謝しています。このことは、一生忘れません」

 感謝グレイトフルと来たか。しかも一生忘れないって、君のタイム・リミットは土曜日までなんだけど。

「いや、そこまで感謝されるほどのことでもない」

「慎み深い方でらっしゃるのね。どうぞ、おかけになって」

 調子が狂うなあ。いくら妹を助けたからって、君と俺はライヴァルなんだから、もう少し緊張感があってもいいと思うのだが。しかし、せっかくの親切を撥ねつけることもしたくないので、おとなしくソファーに座る。

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