#5:第5日 (4) お手本どおりの反応

 マルーシャとティーラはミニ・バーのカウンターの所へ行き、ティーラが皿を二つ持ってきて、テーブルに置いた。スコーンが二つずつ載っている。

「あの、今、紅茶を用意していますが、もしコーヒーの方がよろしければ……」

「紅茶でいいよ」

「あ、はい……」

 ティーラがカウンターの方を見る。マルーシャがティー・ポットからカップに紅茶を注いでいる。ポットやカップもこのミニ・バーに備え付けなのだろうか。もしかしたらダイニングから借りているだけかもれない。まあ、そんなのはどうでもいいことだが。ティーラがカップを二つ持ってきて、テーブルに置く。マルーシャは自分の菓子皿とカップを持ってきた。皿にはスコーンが二つだけ。これも拍子抜けだな。目の前にティーラが座り、斜め前にマルーシャが座る。

「どうぞ、お召し上がりになって」

 紅茶にはミルクも砂糖もレモンも付いていないが、香りがいいのでストレートで飲むことにする。うまいが、銘柄は判らない。マルーシャは一口飲んだようだが、ティーラは口も付けていない。

「ティーラ、お話ししたいことがあるのでしょう?」

「あ、はい、あの……あの時、私、考えごとをしていて……その、あなたのことも、少し考えたりしていたんですが、そうしたら突然あなたに声を掛けられて……驚いて、動揺してしまって、頭が混乱して、その……急に、気が遠くなって……」

「そうか、驚かせて申し訳なかったな」

「いえ、そういうことではなくて……私が、もっと気をしっかり持つべきでしたのに……」

「そういえばあそこからの景色はよかったけど、充分眺められたか? 俺は後でもう一度見に行ったが」

 話が暗い方向に行きそうなので、ちょっと逸らしてみる。

「はい、私、あそこに1時間くらいいましたので、充分……」

 1時間も? それほどの眺めではなかったがなあ。もしかして、その半分以上は考えごとに費やしていたのでは。

「ホテルの中は見た?」

「いえ、ホテルはほどんど見ていません。私、その、海が見たかったものですから……」

 この5日間で充分見たと思うのだが、それとも陸から見る海の眺めが見たかったということかな。まあ、そうだろう。

「そういえば、どこに住んでたかを訊こうとしたときに倒れたんだったと思うが……」

「あ、はい……」

「それは答えられないということ?」

「いいえ、そんなことは……ウクライナです。ウクライナのポルタヴァ市です」

 と言われても、どこにあるのか全く判らない。ヨーロッパにおけるウクライナの位置も怪しいくらいで、東欧の一番東の方だろうという記憶しかない。ここでマルーシャに地図でも出してもらうか。

「ウクライナのどの辺り?」

「中央部の、少し東側で……」

「内陸か」

「はい」

「一番近い海は?」

「あ、ええと……チョルネ・モーレ……」

「何?」

黒海ブラック・シーのことです」

 マルーシャが助け船を出した。やはりティーラは英語が完全ではないらしい。単語としては簡単だが、固有名詞なので迷ったのだろう。しかし、黒海ってのは内陸にあるから湖だと思っていたが、海だったのか。

 どうでもいいことだが、マルーシャの前のスコーンが全く減っていない。これほど食欲のない彼女を見るのは初めてのような気がするが。

「それで、その黒海くらいしか見たことがないということ?」

「はい、それも、小さいときのことで……」

「今はどこに住んでるんだ?」

「パサデナです」

 いや、これは愚問だった。“このステージでの”彼女たちの住んでいるところなんて訊いたって、何にもならない。マルーシャの素性が少しでも判ればと思って質問しているのだが、難しいな。ティーラにマルーシャのことをあれこれ訊くわけにもいかないし。そもそもマルーシャの性格をつかもうにも、会うたびにころころ変わってるし。

「一昨日の夜のコンサートでは君がピアノを弾いていたが、ピアノは得意なのか?」

「いえ、それほどでも……チャイコフスキー・コンクールでは、入賞できませんでしたし……」

 いや、チャイコフスキー・コンクールって世界的に有名なコンクールだろうよ。それに出場してる時点でかなりのものだって気がするけどねえ。それとも、マルーシャの方はもっといい成績を残したとかで、引け目を感じてるのかな。

「でも、俺はとても上手だと思ったよ。君の姉さんの歌がよかったのも、君のピアノ演奏あってのことだと思ったけどね」

「あ……ありがとうございます。あの……」

 何だか判らないけど、ティーラが自分で自分を抱きしめ始めた。これって英語圏では嬉しさの表現だが、ウクライナでも同じなのか?

「あの……私、男の人に、ピアノを褒めていただいたの、初めてです……」

「……そうなのか?」

 いや、思わず言葉に出てしまった。ティーラは感激のあまり……だと思うが、うつむいて小さく悶えている。マルーシャの顔を見ると、いつの間にか前の冷静な表情に戻っている。

「紅茶のお代わりはいかが?」

 そして平静な声でそんなことを言った。妹の方が感極まったんで、気持ちが冷めたのかもしれない。まあ、同感だな。

「いただこう」

 それから30分ほどとりとめのない話をして、いとまを告げた。

「今日はご招待ありがとう」

「どうしたしまして。ティーラ、ナイトさんがお帰りになるわ。お見送りしましょう」

「あ、はい……」

 ティーラが弾かれたように立ち上がる。恭しくご招待されたわりに引き留められもせず、実にあっさりしているが、女二人しかいない部屋に長居するのも問題があると思うので潮時だろう。美女二人に見送られて部屋を出る。が、マルーシャと少し話したいことがあるので、目で合図を送る。勘のいい女だから、たぶん気付くと思うが。

「ティーラ、ナイトさんをお送りしてくるわ。テーブルを片付けておいてくれる?」

「解ったわ……あの、さようなら、ナイトさん、また来て下さいね……」

「ああ、また来るよ」

 名残惜しそうな顔をするティーラの鼻先でマルーシャはドアを閉め、数歩行ったところで、隣の部屋との間の壁にもたれてこちらを見た。腕組みをするのはやめてくれ、胸の大きさが強調されるから。

「激情家だな、君の妹は」

「そうね、かなり忠実に再現されていると思うわ」

 仮想人格のことだな。納得するよ。エレインも同じだ。

「君も振り回されて大変なんじゃないのか」

「いいえ、ティーラは私にとって大切な存在よ。どんなことがあっても受け容れられるわ」

「それが仮想人格であっても?」

「もちろん」

「じゃあ、君も本気で俺に感謝してくれてるわけだ」

「ええ」

「例えばどれくらい感謝してくれている?」

「命以外なら何を要求されても構わないくらい」

 命以外なら……意味深長な言葉だな。身体を要求されても構わないってことか。そこまで大切に思われているとは、ティーラも幸せなことだ。

「命までは要求しないけど、一つ頼みを聞いてほしいことがある」

「何?」

「この前、君が読んでた“マザー・グース”の本を貸して欲しい」

 マルーシャの表情が微妙に変わった。それがどういう意味のリアクションかまでは判らないけれども。

「それだけ?」

「もちろんだ。他に何か要求して欲しいのか?」

「……少し待ってて」

 マルーシャが部屋に戻る。が、15秒と経たないうちに戻ってきた。そして俺に本を差し出す。表紙と裏を見たが、図書室のスタンプが押されていない。

「これは君の私物?」

「ええ、マサトランで買ったの」

「じゃあ、返しに来ないと」

「下船するまでに返してくれればいいわ」

「ステージがクローズされる前に返すように、気を付けるよ。ああ、それから、あと一つ、これで今日の貸しはなくなったことにしよう」

「気持ちはありがたく受け取るわ」

 うん、どこかで聞いた台詞だ。君も俺の裁定者アービターと同じで、強情な性格なんだろうな。

 船室キャビンに戻って早速本を読む。英語と別の言語が併記されている。メキシコだから、スペイン語だろう。新たに買ったということは、やはりこれがヒントになるのに違いない。彼女が読んでいたのはだいたい真ん中あたりだったかな。ページをめくっていたら、ちょうどそのあたりに布製の栞が挟んであった。目の粗い布に、赤と黒の糸で幾何学模様のような刺繍が施してある。何というんだ、これは。クロス・ステッチだったか? 彼女たちが着ていたブラウスの模様に何となく似ている。してみると、これはウクライナの栞なのか。なくさないようにしないといけない。

 で、その栞が挟まっていたページに書かれていたのは『6ペンスの歌を唄おう』だった。女が洗濯物を干しているところが挿絵に描かれている。6ペンス……おそらく連合王国のコインだろう。ターゲットのヒントのようでもあり、関係なさそうでもあり、判断に苦しむ。もしかしたら、まだ俺が調べきっていない情報とつながっているのかもしれない。ダメだ、判らん。

 他にも何かヒントがないか、最初のページからざっと斜め読みしていく。ところどころに、キリル文字で書き込みがしてある。読めないっての。辞書も借りてくればよかったか。マルーシャは持っていなくても、ティーラが持っているかもしれない。だが、今さら借りに行くのもなあ。全部読み終わってしまった。

 本を閉じようとしたが、裏の見返しに何か書き付けてあるのを見つけた。5行の、短い詩のようだ。リメリック……いや、違うな。最初の4行は単語が二つずつ。先頭の単語は全て同じだ。5行目だけが少し長い。この本に載っていないマザー・グースの詩を書き込んだのだろうか。何のために? 判らん。

 とにかく、情報としては『6ペンスの歌を唄おう』だ。6ペンスねえ。俺の財布の中には……ないな。オックスフォードのステージでは見かけなかった。そもそも、なぜ6なんていう中途半端な値なんだ。通貨の体系が12進法の時代があったのか? 少なくともオックスフォードでは10進法だったぞ。判らん。今のところ、調べようがない。

 いや待て、裁定者アービターに訊くという手があるぞ。そのためにはエレインを船室キャビンに戻す必要があるが、今夜はパーティーだから、また12時越えだろうな。6ペンス……6ペンス……『月と6ペンス』という小説があったが、作者は誰だったかな。思い出せん。そもそも、ここはメキシコなのに6ペンスがどう関係するんだ。

 待て待て、コイン・セレモニーのコインはイタリアのリラ・コインだった。イタリアはこの汽船シップが造られた国、連合王国は船籍のある国だ。両方とも一応関係している。どちらがターゲットであってもおかしくない。両方……はないな。コインが単数形だ。どちらかといえば、6ペンスの方が見込みがありそうだ。

 この船には連合王国の客が何人か乗っている。例えば新郎のアンディーとその母親と妹。船員なら船長キャプテン事務長パーサーといったところだ。今夜のパーティーの時にでも訊いてみるか。まあ、結婚とは何の関係もない話題なので訊きにくいが。で、この本は……もう少し、借りておこうか。少なくとも、明日の朝までは返さなくても大丈夫だろう。

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